秋麗
――それは、すべてがまだ穏やかで、美しかった五年前の秋に遡る。
澄み渡る空気が心地好い、よく晴れた日だった。
当時の私、エリシア・ヴェル・セレスティアは、十二歳。
皇太子宮という名の温室で、何も知らぬまま守られて育てられていた。
その日は、歳が五つ下の弟レオンの誕生日を祝うため、家族で離宮へ向かう予定だった。
だけど、昨夜はなかなか寝付けず、とても懐かしい夢を見た気がする。
身支度を済ませた丁度そのとき、タイミングを見計らったように扉がノックされた。
使用人が扉を開くと、淡いミルクティーブロンドの髪をした少年が一歩踏み入ってくる。
その瞬間、先程までの眠気が嘘のように吹き飛んで、胸の奥が少し熱くなった。
一礼をした彼はその人柄を表すように目尻を下げて微笑む。
彼の整った顔立ちにはどこか儚さがあり、その瞳の青は透き通った水面を思わせる程に澄んでいた。
「おはようございます。エリシア様」
「おはようございます。ノア」
彼の名はノアリウス・アルヴェイン。
筆頭公爵家であるアルヴェイン公爵の嫡子だ。
アルヴェイン公爵家は、建国の時代から初代皇帝の傍らに立ち、剣を執り、国を支えた家柄だ。
どんな時代も、皇族の傍で盾となり、友として、臣として、生き続けてきた。
ノアもまたその血を継ぐ人であり、私の幼なじみであり従者でもある。
彼が私の傍にいるのは義務というより代々受け継がれてきた“宿命”のようなものだ。
「良いお天気ですね。
レオン様のお誕生日会が楽しみです」
穏やかに微笑むその声は、いつも心を擽る。
窓から差し込む朝日が彼の髪を金色に照らし、澄んだ瞳に光を落とす。
あまりに綺麗で、息をするのも忘れそうになった。
「綺麗……」
(使用人達がいつも噂しているのが納得できるわ!)
「エリシア様?」
呼びかけられて、心の声が口から出ていたことに気付いて、顔が熱くなる。
「そ、そうですね!
レオンもノアが来てくれると聞いてとても楽しみにしておりました!」
恥ずかしさのあまり、つい髪に触れてしまう。
すると、さっき付けてもらったばかりの髪飾りがずれてしまった。
それを見たノアが、小動物でも見るみたいに優しく笑った。
「お直しします。
失礼でなければお側に行ってもよろしいですか?」
「…はい」
コツコツ――
静かな部屋にノアの靴音が響く。
その音が近付いて来るにつれて、私の心臓は大きく高鳴った。
聞こえてしまわないか不安になるくらいの距離で、ノアは慣れた手つきで私の髪に触れ、髪飾りを直してくれた。
「素敵な髪飾りですね。
エリシア様にとてもよくお似合いです」
「あ、ありがとうございます」
ノアはいつもと変わらない穏やかな声で話していた。
こういうところが、妹のいる兄らしくって面倒見が良い。
けれど、兄のいない私にはその優しさが少しくすぐったかった。
どう返せばいいのか分からず戸惑っていると、出発の準備が整ったらしく、使用人が迎えにやって来た。
(いよいよ皇宮を出ることができる!)
我がセレスティア帝国の皇族はデビュタントまで皇宮の外に出られることは殆どなく、側近以外に顔を見せることも無い。
様々な派閥争いに子ども達が巻き込まれないようにする為とも、身を守る為とも聞かされている。
故に私は、親族である皇族とごく一部の使用人、そしてアルヴェイン公爵家の者にしか会ったことが無かった。
離宮へ行くだけのことなのに、皇宮の外に出られると思うと胸が高鳴った。
こんな小さな願いが叶ったのも、ノアとアルヴェイン公爵が、皇太子である父に頼んでくれたおかげだ。
「ありがとう、ノア」
私の言葉に、ノアは何も言わずに微笑み、光の差す扉のほうへと手を差し出した。
「参りましょうか」
***
「お姉様!ノア!」
甲高い声が廊下に響いたかと思うと、弟のレオンが駆け込んできた。
後ろから彼の護衛が慌てて追いかけてくる。
五つ歳が下のレオンはまだまだやんちゃざかりだ。
だけど、夕焼けに照らされた小麦のような金色の髪に、真紅の瞳という皇族特有の容姿をしっかり引き継いでいる。
「お誕生日おめでとう。レオン」
「お誕生日おめでとうございます。レオン様」
私とノアが声を揃えると、レオンは待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
「今日はいっぱい遊んでよ!
約束だからね!」
「うん! 約束!
レオンは何して遊びたい?」
「鬼ごっこでしょ、かくれんぼ!
あとね、ノアに剣術を習うの!」
「そんなにいっぱいできるかな?」
「レオン様、剣術は皇太子宮でもできますよ」
指を折りながら考えるレオンの姿はとても愛らしく、見てるこちらも釣られて楽しくなってしまう。
話しながら玄関に向かうと、レオンはまた子犬のように駆けて行った。
そして「お母様!」と叫びながら皇太子妃である母、アメリアに抱き着く。
私もノアと共にその後に続き、スカートの裾を少し上げて挨拶する。
「お父様、お母様。
おはようございます」
「両陛下にご挨拶申し上げます」
「二人ともおはよう」
「エリー! 今日も素敵な髪にドレスだ。
さすがは愛しい我が娘!」
皇太子である父、フェリックスはそう言うと私を抱きしめる。
物心がついた時からの毎朝の日課で、次期皇帝になる人とは思えないほどの親バカぶりだ。
「お父様! ノアが見てます!」
私が慌てて顔を赤らめると、母がくすりと笑い、ノアの前に歩み寄った。
母は少し腰を屈めると、ノアと目線を合わせ、優しく告げる。
「公子、今日は堅苦しい挨拶は結構よ。
エリーとレオンのお友達として楽しんでくれると嬉しいわ」
その言葉にノアは恭しく頭を垂れる。
「皇太子妃様、このような素敵な日にご同行でき光栄です。
ありがとうございます」
「まぁ、公子は本当に律儀なのね」
母は目を細めて微笑む。
その柔らかい声に、場の空気がふわりと和らいだ。
父が小さく笑いながら「まぁまぁ」と宥める姿は、いつもながら微笑ましい。
父と母は帝国の皇太子と皇太子妃だけど、子どもから見ても可愛らしくて仲睦まじい夫婦だ。
皇族の結婚は政略結婚が多い中、二人は恋愛結婚だと聞いたことがある。
何と父の一目惚れで猛アピールの末、婚約したらしい。
子どもとしては少し恥ずかしい話だけど、自慢の両親だ。
そうこうしているうちに出発の時間となり、ノアの父親であるアルヴェイン公爵が私たちを馬車まで案内してくれた。
「皇女殿下、皇子殿下。
このようなおめでたい日に息子を招待してくださり感謝します。
本日は私どもも同行致しますので、安心してお過ごしください」
公爵の容姿は、ノアと同じミルクティーブロンドの髪色に空色の瞳だ。
だけど、その髪は軟毛ではなくストレートで、スラッとしたノアと比べて公爵はがっしりしていて体格が良い。
ノアが水面のように静かな美しさなら、公爵は大地のような頼もしさを感じさせた。
「公爵が外出できるように取り計らってくれたと伺いました。
私もレオンもとても感謝しております。
本日はよろしくお願いします」
私が一礼すると、レオンも隣で「よろしくお願いします」と元気に頭を下げる。
「お二方とも、簡単に頭を下げないでください!
ですが、このロペス・アルヴェイン。
本日は誠心誠意お仕えいたします!!」
胸に拳を当てて豪快に笑う公爵に、皆の笑い声が弾けた。
しばらくして馬車に乗り込むと、胸の奥がそわそわして落ち着かなかった。
レオンも同じ気持ちらしく、小さな靴で床をトントンと鳴らしている。
それも無理はない。
皇太子宮の外へ出るのは、私たちにとって初めてのことだった。
今日の馬車は、お母様の図らいで私とレオン、そしてノアの三人だけ。
「子ども同士で楽しんでいらっしゃい」と微笑んで送り出してくださった。
外を眺めていたレオンが、ふと思いついたようにノアへ顔を向ける。
「ねぇノア、ノアはよく馬車に乗るの?」
「そうですね。
皇太子宮へ伺うときはいつもですから、ほとんど毎日ですね。
でも、遠くへ行くのは領地に帰る時くらいでしょうか」
「へぇ! いいなぁ。
馬車って、怖くないの?」
「大丈夫ですよ。怖くありません。
それに、離宮まではすぐですから」
穏やかなノアの声に、胸の不安が少し和らいだ。
窓の外に目線を送ると、見慣れない人物が見えた。
上等な布をまとった老年の男性。
皇太子宮には限られた者しか立ち入れないはず。
見知らぬ顔を見かけるのは、極めて珍しい。
(……誰かしら?)
今日はレオンの誕生日。
来客が多いのかもしれない。
けれど、出発の間に挨拶を受けなかったのが、少し気になった。
ふと隣を見ると、ノアも外を見つめたまま低く呟いた。
「……ドゥーカス大公? なぜ皇太子宮に……」
ドゥーカス大公。
祖父である皇帝陛下の妹、サラ様のご夫君だ。
「少し、妙ですね。
確認してまいります」
ノアが馬車の扉へ手をかけた、その瞬間――
パァン!
ラッパの音が鳴り響く。出発の合図だ。
ノアは一瞬迷ったが、すぐに腰を下ろした。
「急ぎでもありませんし、後ほど確かめましょうか」
「そうですね。
せっかくのレオンのお誕生日ですもの」
「もう! さっきから二人とも顔が怖いよ!」
「ごめんね」
笑い合う声とともに、馬車がゆっくりと動き出した。
――今日は、きっと楽しくなる。
そう信じて疑わなかった。




