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幼き日の約束

その日は確か、弟が生まれてから最初の春だった。


 春の陽気が庭を包み、木々の若葉が陽の光を透かしてきらきらと揺れていたのを覚えている。


 いつも私にだけ注がれていた両親の愛情が、突然現れた小さな赤子に向けられていくのを、幼い私はどうしても受け入れられずにいた。


 分かっている。あの子が悪いわけではない。

 むしろ、小さな手足を動かす姿はとても愛おしくて、見ているだけで胸が温かくなる。

 母上も父上も、私を嫌いになったわけじゃない――それもちゃんと分かっている。


 それでも、胸の奥で渦を巻くこの感情の名前も、どう扱えばいいのかも、当時の私には分からなかった。


 居たたまれなくなった私は、使用人の目を盗んで、こっそり私室を抜け出した。


 長い廊下はしんと静まり返っていて、陽光の差し込む窓辺には白いカーテンがゆらゆらと揺れていた。


 いつもなら誰かが行き交っているはずなのに、この日に限って人の気配がない。

 ぱたぱたと軽かった足取りが、いつの間にか重たく沈み、やがて知らぬ庭園に辿り着いた。


(そういえば、もうひとつ庭園があると聞いたことがあったっけ……)


 ふと、甘く優しい香りに誘われて歩を進める。

 そこには、バラのように華やかな白い八重咲きの花が咲き誇っていた。


 屈んでじっと見つめると、花弁はフェルトのように柔らかく、光を含んでほのかに透き通っている。

 今朝の雨に濡れた水滴が、春の陽に照らされて、宝石のように瞬いていた。


(きれいだなぁ……)


「――天使が舞い降りた花」


 不意に声がして、驚いた私は顔を上げた。

 そこには、一人の少年が立っていた。


 太陽の光を受けて輝く亜麻色の髪。澄んだ淡い水色の瞳。長いまつ毛が風に揺れ、微笑むその顔は、まるで物語の登場人物のように美しかった。


(この人が……天使さま、みたい)


 見惚れていると、少年は少し申し訳なさそうに目を伏せた。


「驚かせてしまって、申し訳ございません」

「ううん! このお花のこと、知っているの?」

「はい。この花は〈ガーデニア〉といいます」


 彼は私よりも年上のようだったけれど、言葉づかいは不思議と丁寧だった。


「どうして“天使”なの?」

「この花には、あるお話があるのです。お聞きになりますか?」

「うん!」


 彼が語り出したのは、ガーデニアにまつわる古い神話だった。


 ――むかしむかし、あるところに、ガーデニアという名の女性がいました。


 白の色が好きな彼女は、家具も衣もカーテンも、すべて白い物を選びました。


 ある日、天使が彼女のもとへやってきて、ひとつの鉢植えを渡しました。


 「これは天上の花ですから大切に育ててください。そして花が開く時、口付けをするのです」


 そう言い残し、天使は天に帰っていきました。


 一年後、鉢植えには白く香る花が咲きました。


 ガーデニアが花にそっとキスをすると、眩しい光の中から天使が現れて言いました。


 「あなたこそ、私の探していた人です」


 二人は結ばれ、幸福に暮らしたのです――。


「とっても素敵なお話ね! 私も天使さまに会えるかしら?」


 お姫様と王子様の恋物語に憧れていた私は、胸を弾ませて問いかけた。


「きっと会えますよ」


 そう言って微笑む彼の顔があまりにも優しくて、思わず頬が熱くなった。


「あの……ということは……」

「……?」

「お兄さんは、その……私の天使さまですか?」


 私の目を覗き込んだ少年は、一瞬驚いたように目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。


「では――貴女が大きくなったら、迎えに来ましょう」


 その言葉に、胸の奥がふわっと温かくなった。


「また会える?」

「きっと会えます」


 その時、遠くから母の呼ぶ声が聞こえた。


「あっ、行かなきゃ!」


 私は慌てて駆け出し、ふと思い出したように振り返って叫んだ。


「約束ですよ、天使さま!」


「――はい」


 少年は小さく微笑み、そっと花を見つめた。

 その背後から、男の声が聞こえる。


「公子様、そろそろ公爵様がお戻りになります」


「そうですか。では参りましょう」


 少年は白い花を見つめた。

 風が通り抜け、花弁がわずかに揺れる。その香りが彼の胸をくすぐった。


 「あの方が、私の仕えるお方……とても可愛らしいお方ですね」


 花は何も答えず、ただ静かに、香りだけを残した。


まるで“約束”が形を持たず、香りとなってこの場所に留まったかのように。

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