最後の希望
東の空が白みはじめ、薄い霧が森のあたりをゆっくりと包んでいた。
起床にはまだ早い。けれど、胸のざわめきが眠りを遠ざけていた。
私はそっと寝台を抜け出し、外の冷気を吸い込んだ。
肌を刺すような冷たさが、眠れぬ目を冴えさせる。
そのとき――
「……おはようございます」
静かな声に振り返ると、ノアが立っていた。
夜明けの光を背に、いつも通りの穏やかな顔。けれど、目の下にはかすかな疲れが滲んでいる。
それがなぜか、胸を締めつけた。
「おはようございます……少しは眠れましたか?」
「はい。交代の時間までぐっすりでした」
彼の言葉は変わらず落ち着いていた。
けれど、あの焚き火の夜の光が、まだ彼の瞳の奥に残っているようで――。
胸の奥がひどくざわめいた。
眠れなかったのは、冷えた地面のせいじゃない。きっと。
「冷えますから、外套をどうぞ」
ノアが差し出したのは、ベネット邸を出るときに「北方は寒いから」と渡された厚手の外套だった。
彼の指先が布越しに少し触れただけで、心臓が跳ねる。
「……お手伝いしましょうか?」
「だ、大丈夫です。……自分でできますから」
思わず声が強くなり、ノアが瞬きをする。
慌てて背を向け、外套に腕を通す。
頬だけが、どうしようもなく熱い。
ノアは何も言わず、少し離れた場所で馬具の点検を始めた。
金具の擦れる音が、やけに鮮明に響く。
見ないようにしても、意識の端でずっと彼を追っていた。
――昨夜まで彼は「従者」だった。
けれど今は、隣に立つたびに心の奥が落ち着かなくなる。
知らなかった感情が、静かに輪郭を持ち始めていた。
「……そろそろ出発の時間ですね」
ウィリアムの声に我に返り、私は頷いた。
馬車に乗り込むと、朝霧の街道をゆっくりと進み始める。
沈黙が長く伸びるたび、昨夜の記憶が胸をくすぐった。
「おやおや……朝からずいぶん静かだな」
フレディ伯爵が、からかうように笑う。
その眼差しに悪戯の光が宿っていた。
「なにか気まずいことでもあったのかね? 若いのにずいぶんとおとなしい」
「い、いえ! そんなことは……!」
思わず声を上げると、伯爵は愉快そうに笑った。
「はっはっは。そうかそうか。ノア、お前まで黙っていると、馬まで眠ってしまうぞ」
「申し訳ありません。……昨夜は少し考え事をしていましたので」
「ふむ。考え事、ねぇ」
伯爵の口元がにやりと歪む。
「若い者らしい悩みだ」とでも言いたげな視線に、私は顔を逸らした。
頬がかすかに熱を帯びる。
「まぁいい。道中は長い。話し相手ぐらいしてやれ、ノア。黙っていると余計に怪しまれるぞ?」
「……承知しました、伯爵」
ノアの声は少しだけ硬かった。
それを面白がるように、伯爵はまた笑った。
笑い声に、馬車の空気がわずかにほぐれる。
けれど私の鼓動は、まだ落ち着かない。
窓の外、木々の隙間から朝日が差しこむ。
その眩しさに目を細めながら、私は小さく息を吐いた。
――この想いは、誰にも知られてはいけない。
「……次の休憩で、食料の確認をしておきましょう」
ノアが静かに言う。
「ええ、分かりました。……ノア」
名前を呼ぶと、彼が一瞬だけこちらを見た。
その視線が絡んだほんの刹那、
またも伯爵のにやりとした笑みが横から差し込む。
胸の奥が、少し痛くて、少しあたたかかった。
――――――――――
数日後――。
その日の夜はやけに静かだった。
風が冷たく、街外れの石畳をかすかに揺らしていた。遠くでは小さな宿場町の灯りが滲む。
その揺らぎを見つめていると、なんだか胸の奥までざわついて、落ち着かない。何か、良くないことが起きる前触れのように思えた。
馬車は砂埃に覆われたまま、街道沿いの木陰に静かに止まっていた。
私はそこで、国境付近の検問情報を集めに向かった伯爵とウィリアムの帰りを待っていた。
外ではノアが無言で周囲を警戒している。その背中はいつも通り頼もしいのに、なぜか今日は胸が重くて息が浅い。馬車は砂埃にまみれたまま、街道沿いの木陰に停まっていた。
「戻りました」
ウィリアムの声が夜気を裂いた。
「お疲れ様でした」
ノアの言葉にベネット伯爵が低く返す。
「今日はここで休もう。馬も限界だ」
労いの言葉をかけようと馬車を降りると、二人の顔に張り詰めた影があった。旅の疲れだけではない――もっと深い何か。
その〝異変〟に気づいた瞬間、心臓がどくりと重く跳ねた。
いつも穏やかな彼が目を合わせようとしない。
ノアもまた、無言のまま彼を見つめていた。
「……何かありましたか?」
唇が震えて、思ったより掠れた声になった。
伯爵が短く息を吐いた。その手が、ほんのわずかに震えている。
「隠せるわけ…ないか……二人とも落ち着いて聞いてほしい。帝都の近況を聞いてきた」
その言葉の“重さ”が、空気をゆっくりと圧し潰していくようだった。
伯爵は唇を固く結び、そして――
「――皇太子殿下が……お亡くなりになったそうだ」
世界が、止まった。
耳鳴りがした。遠くの焚き火の音さえ消えていく。
言葉が、意味を持つまでにずいぶん時間がかかった。
いや、理解したくなかっただけかもしれない。
「……そんな、嘘……」
足に力が入らなくなり、膝が崩れた。石畳の冷たさが、やけに鮮明だった。
お父様は…離宮に向かわれたはず。離宮にはたくさんの衛兵が控えていたはずなのに……。
「なんで……どうして……」
声が震え、次第に泣き声へと変わっていく。
その瞬間、肩を支えたのはノアだった。
強くも優しい手が、背中に触れる。
彼は何も言わなかった。
その沈黙が、逆に胸を締め付けた。
慰めの言葉すら届かないほど、現実が残酷なのだと分かってしまうから。
涙が止まらず、ノアの胸を濡らしていく。
冷え込んだ夜気の中で、私の涙だけが熱を持っていた。
「お父様には……会えると……信じていたのに……」
声に出した瞬間、胸の奥が破れたように痛んだ。
ノアの手が髪をそっと撫でる。
その優しさが余計に辛くて、私はさらに泣いた。
“帰る場所も、家族も、未来も――
ひとつずつ、手の中からこぼれていく。”
現実を受け止める力なんて、もう残っていなかった。
どれほど泣いたのかわからない。
気づけば、ノアが私の身体を抱き上げ、焚き火の近くに座らせてくれた。
その温もりだけが、唯一の現実だった。
伯爵は夜空を仰ぎ、誰にも届かないほど小さく呟いた。
「……ロペス、フェリックス、アメリア……
この国は、いったいどこまで失うのだ……」




