霧の彼方
side ノア
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その頃ノアは水晶宮の客人棟にいた。
午前の日差しがカーテン越しに差し込み、金糸のような光が机の上の書状を照らしている。その静けさを破ったのは、扉を叩く控えめな音だった。
現れたのは王妃付きの侍従だった。整った所作で頭を下げると、感情の読めない声で告げる。
「ノアリウス・アルヴェイン公子、並びにフレディ・ベネット伯爵。
両名には明日正午までの出立を命じられました。
国境まで護衛をお付けいたします。王妃陛下のご厚意により、帰路の安全は保証されております」
フレディ伯爵が低く息を吐いた。
「……そう来たか」
侍従の冷ややかな口調に、ノアの胸の奥がひやりとした。
―まるで“用が済んだ客”の扱いだ。
堪えきれず、ノアは低く問う。
「エリシア様は?ここに着いてからまだお話しもできていません。せめて……」
「聖域に入られた方にお会いすることは、いかなる立場であれ許されません」
静かな声だった。だが、それが絶対の掟であることを感じさせる。
「どうして聖域に?」
ノアは拳を握りしめた。
「エルダールで最も安全な場所ですから。神子見習いとして聖域に入ったお方を傷つける者はこの国にはおりません」
エルダールは神聖国だ。神は絶対的存在であり、セレスティアで育ったノアには想像のつかない世界がそこにある。
"神子"つまり神の化身として神殿に入れば、安全なのは確かだろう。しかし、"聖域に入れば誰とも会えなくなる"その掟が彼女を縛ることになるのは確かだ。
「それでは……まるで、閉じ込めるようではないか」
王妃は昨夜、穏やかな笑みで彼らを迎えてくれたはずだ。けれど、王都に来てから、どこか違和感があった。歓待は丁寧すぎるほどで、笑顔の裏に測るような視線を感じた。
そして今、ようやくその理由が分かった気がした。
王妃はエリシアを守ろうとしているわけではない。
“閉ざす”のだ。
聖域という名の、光に満ちた檻の中に。
「王妃陛下のご判断です。安全を第一に――」
「安全?」
ノアは一歩踏み出した。
「彼女を囲い、誰とも会わせず、それが安全だと?私にはそうは思えない」
思わず漏れたノア言葉に、侍従の目がわずかに鋭くなった。
沈黙が落ちた。
侍従は視線をそらし、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「エリシア様は“信託の特別な方”です。余人の理解を超える役割を負われている。王妃様はそれを“守る”ために隔てを設けられたのです」
「信託?」
ノアは侍従が漏らした一言を聞き逃さなかったが、侍従は溜息をつくように首を横に振る。
「これ以上は、いくら大国セレスティアの使徒と言えどもお教えられません」
それが理屈だと分かっていても、納得などできるはずがない。
「ですが!」
今にも侍従に飛びかかりそうな勢いのノアの腕を伯爵が掴んだ。
「ノア、落ち着け」
伯爵がノアにしか届かない声で囁いた。
今の自分が冷静さを欠いていることはノア自身が一番よく理解している。
だが、何か嫌な予感がする。
「ここで王妃との関係が悪化すれば、皇女様はエルダールに居られなくなるぞ。今は耐える時だ」
伯爵の言葉に、ノアは従うしか無かった。自分の個人的な感情で彼女を危険に晒すわけにはいかない。
それでも、胸の奥から込み上げてくるのは、理屈ではない焦燥と、"彼女に会いたい"というただ一つの願いだった。
「……せめて、話をする時間をください」
「それは――」
侍従の口が拒絶の形を作る。
だが、ノアは遮った。
「ほんの一刻でいい。私たちはここまで、命を懸けて彼女を護ってきた。その忠誠を、最後に証明させてほしい」
声は震えていなかった。
けれど、その瞳の奥には、必死に押し殺した感情が宿っていた。
侍従は一瞬、言葉を失ったようにノアを見つめ――
やがて静かに息を吐いた。
「……わかりました。ですが、私には判断しかねますので王妃殿下に確認して参ります」
「感謝します」
深々と頭を下げるノアの姿に、侍従はわずかに目を細めた。その表情には、わずかな哀れみの色が混じっていた。
――――――――
翌朝、侍従が去ると、ノアは深く息を吐き、静まり返った回廊を歩いた。足音がやけに響く。
水晶宮の庭に差し込む朝の光は白く冷たく、どこか現実味がなかった。
王妃の許可で与えられた“わずか一刻”――それが、彼女に会える最後の時間だった。
庭には薄く朝霧が立ちこめ、白い石畳の上に冷たい露が光っていた。花壇の向こうにひとり佇む白い影。その姿を見つけただけで、息が止まりそうになった。
「……ノア」
振り返ったエリシアは、神殿の衣をまとっていた。白銀の刺繍が、光を受けて淡く揺れる。昨日までの“皇女”ではなく、まるで“神の化身”そのものだった。
「私たちに帰国命令が出ました」
彼女の唇が震える。
その表情を見た瞬間、ノアの胸の奥で何かが軋んだ。
「……帰国命令、ですか」
言葉に出して、ようやく自分がどれほど無力なのかを思い知る。拳が震えた。あの日、彼女を守ると誓ったのに――ここで、また何もできずに置いていくのか。
沈黙が流れる。
風にヴェールが揺れ、彼女の金の髪が朝日を受けて煌めいた。
「私とエルダールを出ましょう」
思考より先に、声が出ていた。
それは理性ではなく、願望に近いものだった。
ノアの言葉にエリシアが顔を上げる。
その瞳には涙の光が見えたが、それでも彼女は笑おうとした。
「……ノア、私はもう大丈夫です。あなたがいてくれたから、ここまで来られた」
気丈に振舞おうとする彼女の指先がわずかに震えているのを、ノアは見逃さなかった。
「共に参りましょう!私が貴女を守ります!」
「そんなことを言っては……ノアが危険に」
「危険でもいい。あなたを失う方が、何倍も恐ろしい」
彼女の瞳は何か決心したように真っ直ぐにノアを見つめた。
まるであの日見た皇太子妃の瞳のようだ――。
「私はノアが危険な目に遭うくらいなら、今ここで舌を切って死にます」
「どうして……」
「私は本気です」
言葉が続かなかった。
代わりに、エリシアがノアの手を取った。
指先が冷たい。
だが、その冷たさの奥に、確かな温もりがあった。
「ありがとう……ノア」
遠くで、侍従の呼ぶ声が響いた。
刻限だ。
エリシアはそっと抱き寄せるようにノアの胸に顔を埋めた。
「ノア、いずれ、時の流れと共に私達家族のことを誰も思い出さなくなるでしょう。私の名前も誰も呼ぶことはなくなります……。それでも、ノアだけは覚えておいてください。私の名前を、母上とレオン、父上と公爵が笑いあっていたあの庭園を」
その言葉に、ノアの世界が崩れ落ちる。
彼女が離れた瞬間、やっと言葉の意味を理解できた。
彼女はもう自分とは会わないつもりで、これが彼女からの別れの言葉であると―。
エリシアが背を向けた瞬間、急に現実が押し寄せてくる。
「――必ず、迎えに行きます!」
声が震えた。叫ぶように放ったその言葉は、白い霧の中で静かに消えていった。




