第6話 彼女が彼を助けた理由 Ⅱ
「電車で、私をあの……、刃物持った痴漢から助けてくれたの、貴方、ですよね」
女の子は言い澱みつつも、同じように尋ねることを繰り返した。そうして、計三回、同じ意味合いの問いかけを少年にしてきたこととなる。
その目は、一見、不安を現しているだけのように見えて、実のところ、確信と期待に満ちている。
「……」
だからそれをしっかりと読み取ってしまっている彼は何も言えない……。相反した感覚を両方とも信じてしまったが故に。
それに加え、何故か女の子が顔を赤らめて、恥ずかしそうにしかし嬉しそうにしているというちんぷんかんぷん要素が上乗せされていて、少々引いているというのもあったが。
だから慎重になり、この二週間当たりの記憶を今度は丁寧になぞっていく。そして、異常に気付いた。
(ん……? 記憶、の、空白……? 長い……。凡そ、十数時間……。丁度一週間前。朝出る前までの記憶しか、無い……。そして、そこから続く記憶は、次の日の朝、目を覚ましたときになっている。綺麗にすっぽり、空いている……。朝部分の重複になっているから分かりにくいとはいえ、どうして、さっき……、いや、今まで、気付かなかった……? これは、明らかに、作為的だ……。となると、母ちゃんに俺が頼んだか、一方的に記憶を弄られたか、ってことだ……)
そして、自身の右手の掌。そこについた傷を見つめる。
(まさか……? だが、それなら、辻褄は合う……。だが、一体、どれだけヤバい事実が隠されている……? 決めつけるには未だ……、いや、決めた。なら、確かめてしまえばいい。今、ここで。願わくば、杞憂で終わってくれ……)
前置きもクソも無く、
「それは今日からぴったり一週間前?」
何気ない感じを装って、いきなりぶっ込んだ。そして、彼女から返ってきた反応を見て、物凄く嫌な予感がした……。
「あぁ、良かった。やっぱりそうじゃないですか! あのとき貴方、覆面被ってましたけど、顔以外、声も、姿も、私、ちゃんと、覚えてるんですよ!」
彼女はとても嬉しそうに、目を輝かせて彼ににそう言ったのだから。彼は、自身の軽率さを後悔した……。
余裕など無くなってしまい、彼女が乗る予定の電車が駅に入ってきていることも気付かずに、青褪めて俯いていた……。
ガシャン!
彼女が乗る予定だった電車が駅から出る為に扉を閉めた音で我にかえった彼は、彼女が電車に乗っておらず、自身の前に立って、未だ目を輝かせて、こちらが何か言って来るのを待ち焦がれているのを見て、再び俯いて、唯、考える。
自身が、この女の子が痴漢に襲われているところに電車で出くわして、自身が女の子を助けた。なら、それは、武勇伝だ。決して悪いことではない。いいことだ。誇らしいことだ。なら、どうしてそれを自身は忘れているのか……?
(母ちゃんが俺のその日の記憶を消したのだとしたら、いつもの悪ノリの可能性がある。母ちゃんに、何があったか兄貴に手伝って貰って問い質せば、いつものようにすぐ吐くだろう。だが、もし、俺が母ちゃんに、頼んだのだとしたら……? もし、後者なら、俺は一体、何を葬りたかったんだ……?)
彼は再び顔を上げて、未だ返事を急かすこともせず、相変わらず期待の目を自身に向けている彼女をじっくり見て、ごくり、と生唾を飲み込んだ。
(もしかして、この子を俺が助ける際に密着したとしたら? 何かさりげなく手を出していた、とか、か? 胸に触れた? いや、それ位なら多分俺は唯の役得だと判断するだろう。じゃあ、彼女から香ってくる匂い、か? 髪の毛の一本? それか、汗? ……。それに劣情を抱いた? ……。物凄く、ありそうだ……)
今現在、彼女から香る向日葵の香りのせいもあるのか、流れ出した汗。幸い今のところは掌からであるが、それが顔に現れるまでそう時間は無い。そう思った彼は、一旦彼女との距離を空けながら風上へ移ろうとしたが、
ガシッ!
(なっ……!)
「その右手の傷、あのときのですよね、間違いなく。そんな傷、あんなことでもないと付く筈ないですから!」
彼の右手を掴みながら、息が掛かる程の近距離で、彼女は間違いなく、笑顔でそう言った。
彼は固まっていた。彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめながら、未だ彼の手を握っていた。が、彼が固まっているのに気づいて、
「ご、ごめんなさい……。私を助けてくれた人が遂に見つかった、って思うとつい……」
はっとしたように手を放し、そう謝りつつ、至近距離から一歩退いた。
「……」
彼は無言であったが、頭はもう、フリーズ状態から戻ってきていた。彼女の表情から、申し訳なさよりも喜びが色濃く出ていたことに気付いてない訳がなかった。
(ということは、俺が活躍したことはもう間違い無い。英雄的、白馬に乗った王子様的なロールをして、彼女を救ったのだろう。で、右手のこの傷はその勲章、ってところか。……。おかしい……。なら、記憶の消去は母ちゃんの独断じゃないな、これは……。俺が頼んで消して貰ったに違いない……。母ちゃんなら、掌にこんなヒントになりそうなもの、絶対残しはしない。傷を治すか、それとも、もっともらしい理由を植え付けてきているだろう。……。俺は一体、この子にどれだけヤバいことをやった、この子の匂いをどう、悪用した……?)
とうとう彼の額から汗が流れ始め、顔に露骨な動揺が浮かんできていたが、それを彼女が指摘することはなかった。というのも、
ヒュゥゥゥゥ、ゴゴンゴゴン!
電車が駅に入り込んできたから。彼女が電車がホームに入ってきたのを見ている隙に、自身の汗を拭い、表情を繕ったから。
「おっと、もう次の電車が来てしまったか。流石にこれ以上待たせると母も怒るだろうから、もう行くよ。じゃあまた、後日」
そう言い残して電車に乗り込んだところで、
「あっ、私、」
また彼女の声に呼び留められ、振り向いた。が、今度は電車から出ようとはしない。自身に問題があると分かっているから。
(後日じゃないと困るんだ、俺が。だから、すまない。また、今度、だ)
もじもじ恥ずかしそうに何か言い出そうとしつつも、その為の一歩が踏み出せないで終わるかと思っていると、
「とっても恥ずかしいけど、勇気持って言います。だっていいんです。パンツと、お漏らしと、見られたなんて、……気にしてません。いや、恥ずかしいですけど……。で、でも、貴方は必要だから処理してくれたんですよね! そ、それに私、あのとき気絶してた訳ですしぃぃ!」
彼女は顔を真っ赤にして、照れ隠しにか、どんどん早口になりつつ、とんでもないことを言ってのけた……。
「あ、ああ……。はは……」
彼は、引き攣りながら笑うしかなかった……。そして、内心、罪悪感に押し潰されそうになっていた。間違い無く自分は、彼女経由で、匂いにおけるR-18の世界に手を出したのだ、と。
汗も流れ出し、到底繕えているとはいえない……。それを少年は分かっている。分かっている、が、繕おうと努力することを止める訳にもいかなかった……。そして、その裏でどうやってこの状況を乗り切ろうか考えていたが、
(確定……。これは、俺が記憶を消すことを選んだ理由だ……。家に帰ったら、先ず、何やら保持していないか、徹底的に調べなくては……。何か、彼女由来のそういうブツがもし存在したとなったら……)
割とどうしようもないということに気付いて、頭が真っ白になり、引き攣り笑いを壊れたロボットのように続け――我にかえったときには、彼女はもう見えなくなっており、電車は駅から出て数分経っているようであり、電車のその車両に自分以外乗っていないことを確認し、胸を撫で下ろしながらその場にへたり込むのだった。