第二十六話 棍棒の向こうに
アッシジのフランチェスコと友人の修道士たち
第二十六話 棍棒の向こうに
---
吹雪はなおも荒れ狂っていた。風は唸りを上げ、雪は横殴りに二人の身体を打つ。視界はほとんどなく、数歩先さえも白い闇に溶けていた。それでもフランチェスコは歩き続けた。その歩みは、風に揺れる灯りのように、確かにそこにあった。
フランチェスコは静かに歩きながら、その先を語り始めた。
「だが、レオ兄弟よ。」
「はい、父よ。」
「試練は、そこで終わらないかもしれない。」
レオは黙って耳を傾けた。父の言葉は、吹雪の中でも不思議なほど澄んで聞こえた。
「私たちがなおも門を叩き続けたとしよう。」
フランチェスコは扉を叩くように、軽く拳を握る。
――コン、コン。
その音が、雪の夜へ吸い込まれていくようだった。レオはその音を、自分の耳で聞いたような気がした。
「すると門番は、怒りに燃えて飛び出して来る。」
その声は先ほどよりも厳しかった。門番の怒りが、声の震えとなって現れていた。
「『厚かましい悪党どもめ! ここはお前たちの来る場所ではない。施しを受ける家へでも行け。ここには、お前たちに与える食べ物も寝床もない!』」
レオは思わず唇を噛んだ。そこまで言われるだろうか。同じ兄弟に向かって。しかも雪の夜に。自分たちはただ、暖を求めて門を叩いただけだ。それなのに、なぜここまで拒まれなければならないのか。
フランチェスコは静かに続ける。彼の声には、非難も怒りもなかった。ただ、淡々とした静けさだけがあった。
「もし、その侮辱を受けてもなお、心を乱さず、相手を憎まず、神が許された出来事として受け入れ、喜びをもって耐えることができたなら。」
フランチェスコは微笑んだ。その笑みは、凍てつく夜の中で温かかった。
「レオ兄弟よ。そこにも、完全なる喜びがある。」
レオは驚いた。侮辱されても。拒まれても。なお喜ぶ。それは人間にできることなのだろうか。彼の心には疑問が渦巻いていた。しかし同時に、父の言葉が真実であることも感じ取っていた。自分にはまだ理解できない。しかし、その先に何かがある。その予感だけは確かだった。
二人は雪を踏みしめながら歩き続けた。足元はさらに悪化していた。泥と雪が混ざり合い、滑りやすい地面が彼らの歩みを遅らせた。
やがてフランチェスコは、さらに静かな声になった。
「そして。寒さも空腹も限界となり、私たちが涙ながらに頼む。」
フランチェスコは小さく頭を下げる仕草をした。その仕草には、切実な願いが込められていた。
「『どうか、神の愛のために門を開けてください。』」
その願いは切実だった。夜を越せなければ命も危うい。誰もがそう思う場面である。自分たちは修道者だ。神の僕だ。その名において、慈悲を乞う。それならば、誰の心も動かされるはずだ。
しかし。フランチェスコは足を止めた。雪の中で振り返り、静かにレオを見つめる。その目は深く澄んでいた。
「門番は怒鳴る。」
その声には激しい怒気が宿っていた。先ほどまでの冷静さが嘘のように。
「『まだ帰らぬか、このならず者ども!』」
フランチェスコは右手をゆっくり持ち上げた。まるで一本の棍棒を握っているかのように。その仕草は、現実のもののように鮮明だった。
「門番は節くれだった棍棒を手に飛び出し、私たちの頭巾をつかみ、雪の上へ叩き倒し、容赦なく打ち据える。」
吹雪が二人の間を吹き抜けた。レオは息をのんだ。もう、それは侮辱ではない。暴力だった。理由もなく殴られ、地に伏せられる。人はそのとき、自分を守ろうとする。怒り、叫び、逃げようとする。それが自然だ。
しかしフランチェスコは静かだった。彼の声は、祈るように穏やかだった。
「もし、そのとき。私たちが、祝福された主イエス・キリストの御受難を思い、主もまた、理由なく辱められ、打たれ、十字架へ向かわれたことを思い起こし、その主への愛のゆえに、この苦しみを喜んで耐え忍ぶことができたなら。」
フランチェスコは雪空を見上げた。白い息が夜へ溶けていく。その息は、彼の祈りのように高く昇り、やがて闇の中へ消えた。
「レオ兄弟よ。そこにこそ。その苦しみのただ中にこそ。完全なる喜びがある。」
レオは何も答えられなかった。吹雪はなおも降り続いている。しかし彼の胸には、これまで知らなかった静かな光が、雪明かりのように灯り始めていた。それは弱々しい光だった。風に消えそうな光だった。しかし確かに、そこにあった。
彼はその光を手で覆うようにして、胸の内に抱きしめた。
雪の夜は深かった。しかし、その闇の中で、一つの真実が静かに輝いていた。それは、誰の目にも見えない小さな光だった。しかし、その光は永遠に消えることはなかった。
---
*棍棒の向こうに——フランチェスコは語った。完全なる喜びは、奇跡や成功の中にはない。それは、辱めと暴力のただ中にある。キリストが十字架で示されたように、無実の苦しみを愛をもって受け入れること。それこそが、最も深い喜びの源である。この教えは、フランチェスコの霊性の極みである。彼は決して苦しみを美化しなかった。しかし、苦しみを神と出会う場へと変えることを知っていた。その変容の力こそが、彼の生きた証であり、私たちへの遺産であった。*




