第17話-2 日本列島は今日も曇り
「同期開始、同期開始、同期開始」
ユウナの兄である俺は、完全に気が狂っていた。
焦点の合わない灰色の瞳で右手を見つめて、『同期開始』と呪詛のように、隊舎の外で呟いていた。
福岡から脱出した後、俺は覚醒能力を失くしていた。あれから、十字架のミズキからも返事がない。
さらに、気晴らしとしてナガトがくれた本は、1ページ目を何日間も繰り返している。この1ページより先の文字が読めないんだ。
与えられた部屋の中で、俺は時間を忘れてサイコロを振り続けていたらしく、「6の目が出ない」と何度も口にしていたようだ。
俺の心を読むのを止めたナガトに「外へ出たらどう」と冷たく言われて、渋々、俺は外へ出るくらいだった。
それでも、俺は無くした覚醒能力にすがり付く哀れな男だった。
足下に置かれた日本刀『六紋村正』の存在に、ようやく俺は気づく。
すでに、妹のユウナの姿はない。妹は兄を見捨てた後だった。
この意味は理解できるけど、俺の心の受け入れは追いつかない。
折れた刀の前で、俺は膝を折り土下座した。
今さら、謝ってどうなる。不安を通り越した恐怖が俺の頭の中に巡る。
すると、ノゾミの声が聞こえた。
『イツキ』
「ひぃ、あああああああああ!」
両耳を手で塞いで、頭を振り続けた。
なぜか涙が出ない。でも胸が苦しい。あれから、ずっと眠れない夜が続いていた。
冷静に考えれば、もうカシマノゾミはこの世にいない。間違いなく、彼女は白い世界へ還った。
なのに、どうして彼女の死を受け入れられないのだろう。クリーチャーを殺したなら、人間だって何人も殺したじゃないか。
じゃあ、今、俺の前にいるのは誰なんだ。
俺の目線に合わせて、地面に膝をついたのは、青年軍人だった。
それがナガトの声だと気付いて、半狂乱だった俺は正気を取り戻す。
優しい声でもナガトは、幽霊のような声の俺を甘やかさない。
何日間もかけて、俺の状況を見て、冷静にタイミングを計っていたらしい。
軍の通知文を右手で持ち、俺の目に突きつけて、彼は冷ややかに言った。
「イツキ、一度、軍からの除隊を勧めるわ」
「ナガト?」
「すごく疲れた顔をしているわ。何歳老けたのよ」
「俺は何も出来ない。何もしたくない。俺、どこに行ったらいいんだ」
「あなたの瞳、今、何も見えていないのね。まぁ、そんなもんだと思うわ」
「そんなものって何だよ! ……ごめん」
ナガトの赤い右瞳が揺れたように見えた。
いや、違う。俺は意識せず、涙を流していたらしい。
少しの刺激で、俺の感情は制御不能になる。
こんな無価値な俺は、もはや軍人ではない。
落ちぶれた俺を見ても、ナガトは動揺しない。
その理由を彼は淡々と語った。
「私は今、こんな世界になって良かったと思うわ。国軍が崩壊すれば、もう父親の七光りって言われなくなるし、それに偽善的に他人へ話しかける必要もない。せいせいしているの」
「どうやったら……捨てられるんだ……」
「何の話かしら? もう私、優しいだけじゃないのよ。自分の口で話してみなさい」
今日のナガトは、どこまでも意地悪だった。でも、不思議と俺の気持ちを受け入れてくれている気がする。
俺は震える口で、過去を捨てたいと言った。
「昨日までの自分だよ」
「過去は変わらない。それに今、自分が生きること以上に、必要なことってあるのかしら」
「だとしても! 今、お前にはあっても! 今の俺には何があるってんだよ!」
「知らないわよ。今、何かを持っていたとしても無意味ね。いずれ、人はみんな死ぬのよ。自分の寿命を考えたら、何も捨てられずに、ただ必死にしがみついている方が不幸よ」
水のような受け答えでナガトは、俺の言葉を躱している。
余裕のなかった俺には、よく意味が分からなかった。最近の俺、脳の活動が10%くらいに自分でも思えていたからだ。
だけど、ナガトは何かを、もしくは誰かを知っている。
誰かのモノマネをして、俺に何かを伝えようとしていると感じる。
分かっているけど、ナガトが俺の傍から今日ここで離れるとしても、今感じた俺の思いを口にするのは怖かった。




