96.疑惑
我が夫が見知らぬ女性と一緒に、見知らぬ店に入っていった。
一国の命運がかかったシリアスな状況下で、まさかこんなレディコミじみたイベントが発生するなんて誰が予想できただろうか。
「アンゼリカさん、僕たち……見ちゃいけないもの、見ちゃった……?」
写し狐が不安そうな目を私に向けてきた。
私たちの夫婦のことで、神獣に要らん心配をさせてしまっている。
というか、私だってまだショックから全然立ち直れていないのだ。
そりゃ、私とシラーは契約結婚のような関係だけど、初期に比べれば随分と仲良くなれた自負はある。
彼は私の無実を信じて助けてくれたし、酷い扱いを受けたことなんて一度もない。だからといって、それが恋愛感情かどうかはまた別問題だ。
そもそも、私はシラーにどう思われているのだろう。これまで敢えて聞かなかったし、そんな必要もないと割り切っていたのに、今さらながら素朴な疑問が湧いてくる。
その引き金となったのは、間違いなく今の光景だ。
「僕……その辺の人間に化けて、二人の様子をこっそり見てくる」
「!?」
私が悶々と考え込んでいる隙に、写し狐が意を決した様子で突拍子もないことを言い出す。
そのまま果敢に馬車から飛び出そうとするので、私は「ストップ! ストップ!」と即座に待ったをかけた。
「神獣の能力を浮気調査に使うなんて恐れ多いでしょ! ラヴォント殿下に合わせる顔がないわよ!」
「だ、だって、アンゼリカさんが今にも死にそうな顔してるから……」
「え……私の顔面、そんなに深刻なことになってるの?」
「ばっちり死相が出ちゃってる」
「そんなに!?」
まだ不貞が確定したわけではないのに、どんだけ精神的ダメージを受けてるんだ。
自分の豆腐メンタルに呆れつつ、カーテンを指先で少しだけ開いて外の様子を窺う。
シラーが馬車の真ん前に立っていた。
「本日は営業終了でーす」
動揺のあまり、私は勢いよくカーテンを閉めてしまった。直後、「顔を見せろ」と言わんばかりに、とんとんと窓を叩かれる。
その圧に逆らえず再びカーテンを開けると、シラーが冷ややかな視線をこちらに投げている。あ、これは逃げられませんね。私は観念して馬車を降りた。
「君はこんなところで何をしているんだ」
「あ、ええと……ララが王都の友人に会いたいって言うから、その付き添いで参りましたの」
背中をだらだらと冷や汗が伝う。咄嗟に言い訳をひねり出したものの、シラーは何かを探るような鋭い眼差しで馬車をじっと見つめている。
明らかに怪しまれてるわ。当然、このタイミングでララが戻ってきてくれるはずもなく、私たちの間に何とも気まずい沈黙が流れる。
すると、シラーが溜め息交じりに一言。
「……君のことだから、やましいことはできるとは思えないが」
私に対しての言葉というより、自分自身に言い聞かせるような物言いだった。
ん? もしかして、私の浮気を疑っていらっしゃる?
ご自分はどこぞの女性を連れ歩いていたくせに、どの口が仰ってんの?
そう思った瞬間、私の頭の中で怒りのスイッチが、カチリと音を立てるのが聞こえた気がした。
写し狐が御者台で固唾を呑んで見守る中、私は笑顔で口を開いた。
「ところで、旦那様こそこんなところで何をしていましたの?」
いや、ここはさっさとあの女の人を問い詰めるべきでしょ。いくらでも逃げ道が作れるような質問をしてどうする。
でも、初手で核心を突いて真っ黒だった場合、どんな顔をすればいいのか分からない。
だから小出しに探りを入れて、心の準備をしていきたかった。
そんな私の心に吹き荒れる時化を知ってか知らずか、シラーは先ほど女性と入っていった店に視線を向けた。
「アドレー夫人と、あの店に来ていた」
「……アドレー夫人?」
「城の料理長の妻だ。君も顔くらいは知っていると思ったが」
「…………料理長の、奥さん?」
「彼女もクロードを可愛がっているらしくてな。彼の件でいくつか相談に乗った礼に、案内してもらったんだ」
顔色一つ変えることなく、シラーが淡々と説明をする。嘘をついている気配は微塵も感じられない。
そこへタイミング良く店から例の女性が出てきて、こちらに駆け寄ってくる。
「あら、アンゼリカ様ではありませんか。いつも主人が世話になっております」
そう言って、恭しく頭を下げる。その柔和な笑顔には見覚えがあった。マティス伯爵領の子供たちが城で保護されていた時、世話係の私にお礼を言いに来てくれたあの人だ。
はい、綺麗さっぱり忘れてました。
情けなさと安堵が一気に押し寄せ、私は糸が切れた人形のように、その場に片膝をついた。
「アンゼリカ!?」
シラーの焦った声が、やけに大きく響き渡った。




