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子連れで帰ったら、御曹司が偏愛してきた  作者: zhaozhao


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第3話 「抱きしめちゃダメ?」

 廊下が静かになった。イソジンとフロアワックスの匂いが鼻に入る。

 時計を見る。九時十分。

 九時半の取引先には、確実に間に合わない。


「社長」

 バッグを提げる。

「先にどうぞ。私は地下鉄で帰ります」


「いや。送る」


「篠宮玲」

 立ち上がり、かかとが床に当たる。

「面白い? もう別れてる」


 両手をポケットに突っ込み、顎が死ぬほど硬い。

 三秒の沈黙のあと、我慢が切れた。


「朝、園にいた子どもは、お前のか」


 来た。


「違う。甥」

 答えは速い。


「甥が、そんなにお前に似るのか」


 私に似てる? 心の中で冷笑する。

 きらの眉、薄い唇、殴りたくなる不機嫌な顔——ミニチュアのあなただ。並んで立ったら、DNA検査は要らない。

 だが今日は急すぎて、意図が読めない。首を張った。

「ええ。実の甥だから、私に似る」


「いいだろう」

 歯を噛む。

「今、父親に電話しろ。俺が直接聞く」


「……」


「かけろ」


「篠宮玲、もう一度言う。私たちは別れている」

 声を上げた。

「今は幸せにやってる。私の生活に、二度と入ってこないで」


 点滴の患者が声のほうを見る。

 篠宮玲は視線を一顧だにせず、冷たく聞いた。

「つまり、清算しろと」


「とっくに清算してるでしょう」


「いいだろう」

 携帯を取り出し、目の前へ突きつける。

 画面はQRコードだ。


「医療費、払え」


「これ、友だち追加です」

 私は言った。

「送金コードじゃない」


「追加しろ。それから送れ」


「……」

 スキャンした。

 備考を二字打って消し、三字に変える。うるさい奴。

 篠宮玲が余光で見て、口角が引きつった。


「直した」

 彼が言う。

「債権者だ」


「なんの債権者」


「医療費」

 別れの清算現場みたいに、一つずつ並べる。

「イソジン、綿棒、診察料、俺の休業補償。合計、二百万円」


「強盗?」

 飛び上がりそうになった。


「ロールス・ロイスの減価償却もある。車内でシートを汚した。イタリア製の手縫いカーフ、クリーニングが高い」


「それに——」


「それに、五年かけて探した費用だ」


「篠宮玲! 話は別、そんな——」


「何が、そんな、だ」

 口角が危険な弧を描く。

「抱くな、か。キスするな、か。昔みたいに、窓際に押しつけて——」


「篠宮玲!」


 身を起こし、また冷たい顔に戻る。

「いいだろう。話は別だ。合計五百七十五万円。何年も抱かせてくれた礼に、二割引き。四百六十万」


 四百六十万。

 私の全財産だ。

 携帯を握りしめ、送金画面で止まる。これを送ったら、下半期、息子と土を食う。


「当時は二十億の手切れ金を持って出ていった」

 篠宮玲は指を見つめ、声が薄い。

「四百六十万なんて、何でもないだろう」


 手が震えた。

 二十億。

 小切手は裂いた。一円も使っていない。


「払いたくないなら、それでもいい」

 彼が言う。

「送らせろ」


「結構です」

 歯を食いしばり、指が走る。暗証、確認、送金完了。


「送りました」

 画面を突きつける。

「着金したら、放して」


 篠宮玲は見もせず、携帯をポケットに突っ込み、一歩下がった。


「鈴原 昭」

「お前が俺に借りてるのは」

 一字ずつ。

「この四百六十万だけじゃない」


 言い終え、振り返って歩く。背中が廊下の奥へ消える。

 私はその場に立ち、携帯を宙に挙げたまま。

 四百六十万で、静かさを買ったと思え。

 自分に言った。


 三十分後、一ノ瀬の執務室。

 篠宮玲はソファに座り、細い指でその検診報告を、一枚、一枚、ゆっくりめくる。

 最後の頁で止まった。


「景」


「ん」


「五年前の盲腸手術」

 篠宮玲が目を上げ、声は軽くて安定している。

「カルテ、出してくれ」


 一ノ瀬の回転椅子が止まる。


「玲、最初から知ってたのか」


 篠宮玲は答えなかった。

 報告の「腹部陳旧性手術瘢痕」の一行を、長いあいだ見ていた。

 それから、笑った。

 笑いは目まで届かない。


「甥だと言った」


「うん」


「俺の子どもの頃と、そっくりだ」


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