第20話 自分で上げるのか
新幹線で、きらは一路眠った。
篠宮玲は七本、電話を取った。
八本目が入ったとき、一目見て、スピーカーにする。
「社長、抑えきれません」
広報の声が焦り切っている。
「凛の文は転送二十万を超え、『篠宮御曹司の隠し子』はトレンド三位です。営業アカウント三本を買い、文案の口径は揃えてあります。狙いどころは『たかり女の押し込み』です」
「トレンドを落とすのに、どれだけ」
「金なら三十分。ですが社長——落とせば心虚、事実認定です。ネットはそれを食いません」
眉間を摘まむ。
手を伸ばし、携帯を取り上げた。
「昭?」
「凛の文は」
私は言った。
「核が三つ。一、私が二十億を受け取った。二、子どもを連れて家を奪いに来た。三、子どもを感情カードにした」
「そのとおり」
「なら、一つずつ剥がす」
五年ログインしていなかった自分のSNSを開く。パスワードは、まだ覚えている。
「感情カードなら、証拠カードで打つ」
篠宮玲が私を見る。
「自分で上げるのか」
「篠宮玲」
顔を上げる。
「五年、着せられた罪は、一人で担ってきた。締めも、この手で締める」
数秒見て、散った髪を耳の後ろへ寄せてくれる。
「いい」
言う。
「隣にいる」
夜八時、江都。
きらを佐藤さん宅に預け、パソコンを開く。篠宮玲が隣に座り、書類を一通ずつデスクトップへ送る。
一条目は写真だ。
紙屑一把。元の形には戻らない破片が、五年前の封筒に沈んでいる。
文:
【五年前、篠宮家は二十億の小切手を渡し、息子から離れろと言った。裂いた破片を今日まで残したのは、いつかこのまま撮って見せるため。二十億、一円も動いていない。誰が受け取り、誰が受け取っていないか。銀行の流れは嘘をつかない。】
二条目、流れの截図。
三回の振込、備考:協力費、慰撫費、残金。
文:
【実の両親の口座の流れです。打ったのは綾瀬家。額は六千九百万。備考の「協力」の中身は、中絶を勧め、消えろと勧め、二度と江都へ戻るなと勧めること。】
【出産の日、十一時間痛みました。同意書の家族サイン欄は、空欄でした。】
三条目、調査報告。
機微を切り、核の数頁だけ残す。
【父の工場が潰れた調査です。得意先を奪った会社の法人は、綾瀬凛の叔父。融資を引いた銀行の副頭取は、いま綾瀬家企業の副社長。先に家を破産させ、恩人の顔で金を渡す——綾瀬さん、短文を書くとき、この頁も一緒に書きますか。】
四条目は、二行だけ。
【最後に、子どもについて。】
【盗撮の写真は、証拠保全のうえ通報済み。モザイクなしの未成年、投稿者も拡散者も、一人残さない。似てるのは誰か、と問われた件——私に似ています。それで十分です。】
最後を送り、携帯を卓に伏せる。
指先は冷たく、心拍は安定している。
篠宮玲は最初から最後まで黙り、四条目を送るとき、卓の縁に置いた手を握った。
*
九時半、一条目が爆発する。
十時、四条すべてがトレンドに乗る。
世論の風は、肉眼で見えるほど逆転した。
最高評価は:
【小切手の破片を五年——この人、ただ者じゃない。凛は何で打つ】
二番:
【協力費、慰撫費、残金。この三語を味わって。綾瀬家、人の親を外注にした?】
三番から脱線:
【「家族サイン欄が空欄」だけが目に入る……夜中に泣いた】
凛のコメント欄は、すでに陥落している。
【十年の幼なじみ? ごめん、相手は五年のシングルマザー。何で比べる】
【未成年の無修正、違法では。通報した?】
十一時、篠宮グループ公式が声明を出した。
長くない。三段。
一段:五年前の小切手は、当時の経営層(名指しせず)が黙認して切った。篠宮家は鈴原 昭氏に正式に謝罪する。
二段:綾瀬家が篠宮名義で出した金は、司法手続を開始し、全額追及する。
三段——
【孫の姓は鈴原。篠宮のほうから、門を請うた。】
落款:篠宮 厳。
創業者、三十年で初めて個人名の声明だ。
ネットが割れた。
【当主が自ら印を押した? どんな嫁ぎ先だ】
【「孫の姓は鈴原、こちらから請うた」——今年度いちばん硬い声明、これ以外にない】
【凛:たかり女の押し込み。厳:高嶺、こちらです】
十一時半、夫人の内容証明が届く。
被告:綾瀬 凛。案由:未成年の肖像、名誉、プライバシー侵害、侮辱誹謗。
弁護士事務所は、全国十指。
零時ちょうど、篠宮玲が投稿した。
開設以来、三条しかない。すべてグループ告知。
四条目は、手を繋いだ写真。一隻は節がはっきりし、一隻は常年ペンを握った薄い胼胝。
文は一句。
【五年、まだ追いつけていない。鈴原さん、名前をくれないか】
コメントが一気に十万を超える。
【???社長、縛られてたら瞬いて】
【五年追った? 誰が誰を】
【鈴原さん! 名前を!! 全国が祝儀を待ってる】
その投稿を見て、隣の人を見る。
「上げる前に」
私は言った。
「相談、できなかったの」
「したら、止められる」
顔を変えない。
「……」
「とにかく」
間を置く。
「全員、返事を待ってる」
凛が文を消したのは、午前二時だ。
消す前に謝罪を一条。言葉は曖昧で、すべて「不実の情報を信じた」へ押し付ける。
誰も買わない。
午前四時、警察発表。綾瀬某、個人情報侵害の疑いで任意。綾瀬家企業の税務および商事の端緒は、経済事件へ移送。
夜が明ける頃、トレンドに残るのは一条。
#鈴原さん名前をくれ#
起きてそれを見て、三秒、黙った。
篠宮玲はもう身なりを整え、居間で朝刊のタブレットを見ている。十年越しの約束を待つみたいに、暇そうだ。
「今日は月曜だ」
彼が言う。
「だから」
「区役所が、開く」
出がけ、ふいに手を出す。
「戸籍謄本」
引き出しから袋を出し、渡す。
開けて、一瞬、止まる。
私の戸籍、住民の頁は私一人。筆頭:鈴原 昭。
「大学で分籍した」
私は言った。
「それから自分で持ってた」
「だから」
目を上げ、ゆっくり笑う。
「この五年、誰も婚を縛れなかった」
「あなたも含めて」
私は言った。
「社長、考えてから入りなさい。今なら、まだ間に合う」
答えはない。
手を握り、十指を絡め、区役所へ引いていく。
午前九時二十八分、赤い二つを受け取った。
撮影で、カメラマンが言う。
「寄って、笑って」
篠宮玲が顔を寄せ、耳元で低く言う。
「鈴原 昭、今なら本音を言える」
「何の」
「園の門前のあの日」
彼が言う。
「故意だ。きらを見た一秒から、一生逃げられない方法を考えてた」
「……それは、自首よ」
「ああ」
目まで曲がって笑う。
「一生で、刑に服する」
シャッターが落ちた。
*
夜、篠宮玲が私を、いつもの場所へ連れていく。
画机のスタンドがついている。梧桐の素描は、元の位置に留まったまま。
幹は剛く、樹冠は——
近づいて見る。
いつの間にか、樹冠は補完されていた。枝が層をなし、筆は拙いが真剣で、葉を一枚ずつ積んである。
樹冠の真ん中に、ごく小さく、見えにくい三字。
名前ではない。
日付だ。
五年前、別れた日。
手を伸ばし、指先をその三字の上に浮かせ、触れない。
「今は」
後ろから抱き、顎が肩に乗る。
「お前が締めだ」
ペンを渡される。
絵の右下に、一画ずつ、自分の名を記す。
書き終え、ペンを奪われ、落款の横に、彼の名。
二つの名が隣り合い、間に五年の空白がある。
「昭」
「ん」
「あの四百六十万は」
彼が言う。
「ずっと受け取ってない」
「知ってる」
「利子を今日まで転がすと——」
屈み、髪の先に口をつける。
「借りは、この一生で返せ」
窓の外、向かいのネオンが升目に瞬く。
誰かの心拍みたいだ。
画紙の梧桐は、ようやく描き終わった。
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