最終話:推し
目を開けると、そこは見慣れたアパートの一室だった。
テーブルに突っ伏していたらしい。頬に木目の跡がついている。
(戻った……戻ったんだ)
震える手でスマホを取る。
日付を確認した。
(今は、何日……?)
SNSのアプリを開く。ぷよまるくんの最終話。コメント欄には、まだ戸惑いの声が並んでいた。
『え、これで終わり?』
『嘘だろ……』
時間は――進んでいなかった。
あの日、あの瞬間から、一秒も経っていない。
気づけば、涙が溢れていた。
全部、覚えている。
黒田さんの、あの穏やかな声だけが、繰り返し耳に蘇った。
(黒田さん……)
彼は、残った。
あの世界を、あの世界の人たちを、好きになったからと。
でも私は、帰ることを選んだ。
(あっ、そうだ!)
涙を拭う間もなく、私は思い出したことを、すぐに行動へ移した。
◆◇◆
あれから、たくさんの季節が過ぎていった。
大きく変わったことが、いくつかある。
一つは、脱毛クリニックの仕事を辞めたこと。
「河瀬さん、302号室の中田さん、ナースコールが鳴っているんだけど、私ちょっと手が離せなくて……見てもらえますか?」
「分かりました」
私は今、病棟勤務の看護師に戻っていた。
ナースステーションを出て、廊下を早足で進む。
途中、処置室の前を通りかかると、一年目の看護師が点滴台を前に固まっているのが見えた。
「土屋さん、大丈夫?」
声をかけると、彼女は弾かれたように振り返った。
「河瀬さん、すみません……点滴の準備に手間取ってしまって」
私は彼女の目を見ながら声をかける。
「最初から何でもできる人なんて、いないからさ。一つずつ確認していこうよ」
「はい……」
「焦ると、かえって時間がかかることもあるしね。土屋さんは一年目の私よりも優秀だよ。自信持って。ね?」
そう言うと、彼女は小さく深呼吸した。
「ありがとうございます。頑張ります」
もう一度処置に向き直る新人の姿。
その姿を見て、昔の自分を思い出した。
ナースコールが鳴るたびに緊張していた頃。
分からないことばかりで、先輩たちに助けてもらっていた頃。
バイタル測定、点滴管理、記録。そして時には、患者さんの急変対応。
やることは尽きない。プレッシャーもある。
それでも――積み重ねていくしかない。
これが、私の選んだ道なのだから。
もう一つ。ハムスターのぷよまるくんが復活した。
連載が再開され、「異世界転生ぷよまるくん」として、文字通り復活を果たしたのだ。
SNSの反応は賛否両論――というより、否定的な意見が大きく目立っていた。
『失望しました』
『完全な商業主義』
一方で、肯定的な声もあった。
『なんか可愛い』
『ハムスターが双剣持っててウケる』
私はというと、今でも陰ながらぷよまるくんを推し続けていた。
それよりも――
最近は、青いスライムのグッズばかりを集めるようになっていた。
(あの子に、少しでも近いものを……)
家の中で、スライムのぬいぐるみが少し増えた。
そしてもう一つ。
今日は、ある場所へ向かっていた。
中村さんから届いた、一枚の招待状。
私は彼に指定された会場へと足を運んでいた。
◆◇◆
あの夜のことを、私は忘れていなかった。
帰宅後すぐ、わずかな可能性に賭けて彼の名前を検索した。
本名で活動している保証はどこにもなく、半ば諦めに近い気持ちでもあった。
それでも――その名前は確かに見つかった。
すぐに連絡を取り、やり取りが始まった。
舞台俳優として活動していた彼は、一部では知られていたものの、世間的にはまだ無名に近い存在だった。
しかし、そこからの躍進は目を見張るものがあった。
漫画やゲームを原作とした舞台作品、いわゆる“2.5次元”作品への出演をきっかけに注目を集め、着実に演技の幅を広げていった。
そして初めて出演した映画で、性別も年齢も性格も異なる、複数の人格を持つ役柄を演じた。決して容易な役ではなかったはずだ。それでも彼は、その期待に見事に応えてみせた。
案内された席に座ると、会場は程なくして静まり返った。
司会者の声が響く。
「それでは、発表します。今年の最優秀助演男優賞は――中村凪さんです」
どよめきと拍手が起きる。
拍手が収まりきらないうちに、司会が続けた。
「中村さんは、先ほどの発表の通り、新人俳優賞とのダブル受賞となります」
どよめきが、一段と大きくなった。
壇上に立った彼が、マイクを握った。
「こんな賞をいただけるなんて、夢みたいです。関係者の皆さんに感謝したいです。それと、僕は一人っ子なんですが……お姉さんと、お兄さんのように思っている人たちがいます」
会場が静まり返る。
「その二人に、心から感謝を伝えたいです。その人たちがいなければ、役者を続けることも、今この場に立つことも、きっとできなかったと思います」
言葉が途切れる。
「一緒に過ごした時間は、一生忘れません」
彼は、わずかに微笑んだ。
「この役についてですが、監督とは――」
私は客席から、彼の姿を静かに見届けていた。
黒田さんも、きっとどこかで見ている。
そんな気がした。
◆◇◆
そして、最後にもう一つ。
「姐さん、このコスなんですけど、僕は身長足りますか?」
「問題ないでしょ。台使うとか、カメラを下から構えて見上げる構図にすればいいし」
「なるほどー」
中村さんと私は、二人でコスプレを始めていた。
きっかけは、彼の提案だった。
「姐さん、コスプレ似合うと思うんですけど、やりませんか?」
「えー……」
最初は気乗りしなかった。
しかし気づけば、すっかり夢中になっていた。
SNSアカウントを開設し、投稿を始める。
「アカウント名、どうします?」
「一択でしょ」
私は迷うことなく入力した。
「うーん、分かりますけど、少しダサくないですか? こじらせた中学生みたいというか」
「じゃあ、これなら?」
数字を付け加える。
「いや、数字を足すと余計にダサいですよ。しかもそれ、被り回避の発想が雑すぎますって」
「でも、悪くないでしょ?」
「まあ……正直、嫌いじゃないですけど……」
「じゃあ決まりね」
次のコスは、あの旅の衣装だった。
銀髪の美少女――あの女性になった中村さんと、黒田さん。それぞれの役でコスプレをすることになっていた。
「僕が黒田さん役だと、身長足りませんよ。別の人を呼びませんか? それに、二人だと姐さんの役がいなくなりますし」
「いいの。今回は私が銀髪ウィッグでやるから」
「……はいはい、分かりました」
私にとっては、この二人の再現で十分だった。
だって、私の目に映っていたのは、最後まで黒田さんと中村さんの二人だけだったから。
「やっぱり、黒田さん役のクオリティは少し落ちるなぁ……」
「ひどい! それを言うなら姐さんだって僕には及びませんよ!」
「うん、分かってる。だからこれから研究していくつもり」
「え、思ってた反応と違う……」
コスプレ用のアカウントは、今では私にとって大切な宝物になっていた。
「今度シスターの格好するから、中村さん、スキンヘッドいける?」
「さすがにドロワ役は厳しいって……」
そう言って、私たちは笑い合った。
私はそっと自分の右手を見つめる。
あの日、彼と手を重ねた温もりが、今も残っているような気がした。
過ごした日々は、忘れない。
いやそれどころか――
推しとの日々を、更新していくつもりだ。
これから先も、ずっと。
〜Fin〜
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この作品を通して、人の二面性や多面性を、愛を持って描いてみたいと思っていました。
アレキサンドライトのように、光源によって違う色を見せる宝石があるように、人もまた、見る場所や相手によって、違う一面を見せるのかもしれない。
どこを切り取っても、まるでゴールドのように輝いている人がいてもおかしくないのかもしれない。
宝石のような見た目の美しさだけではなく、その内側に別の強さを持っている人だっているかもしれない。
そして、自分自身にも、まだ知らない一面や、いつの間にか忘れてしまった一面があるのかもしれない。
そんなことを考えながら、この物語を書いていました。
そんな考えもあって、各エピソードタイトルは、人物を形容したり、特定したりするような表現にしてみました。
この作品を読んでくださった皆さまの心に、何か一つでも残るものを届けられていたのなら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。
そして、この物語を読み終えたあと、あなたの大切な人たちや自分にも、まだ知らない一面があるかもしれない。
そんな眼差しを、少しだけ向けてもらえたら嬉しいです。
最後に、ここまで一緒に旅をしてくださって、本当にありがとうございました。
それでは、またどこかで。




