「染めの場に立たせぬ」と義母に見本裂を渡された私は、口を出さぬ約束を守ります——三月で藍が建たなくなりましたわね
【祝言の翌朝・甕場】
「その裂を離せ」
指より先に、胸の奥が引かれた。惣一はわたくしの手から見本裂を抜き取り、甕の縁を見もしないで、お義母様へ差し出した。
藍の泡は細かく、低い。昨夜の冷えなら藁ひと束、それで朝には機嫌を直すでしょうに、人間のほうは朝からずいぶん景気よく十年を踏みつけますこと。
「これは母上が預かる。おまえに染めの場へ立たせるつもりはない」
職人衆が顔を見合わせた。一人が口の端を持ち上げると、ほかの者も安心して笑った。主人が笑ってよいと決めたものは、皆で笑えば怖くない。小心が束になると、なかなかの声量でございます。
「嫁いで十年、よく雑事を務めた。それは認めよう。だが家の色に口を挟むのは別の話だ」
「惣一の差配で、これだけ評判になったのですものねえ」
お義母様は見本裂を胸へ当て、帯留めの脇で色を比べた。その帯留めなら藍が三甕建ちますわね。三甕分を胸につけた方が、灰汁の日を一度も数えない。世の中とは贅沢にできております。
「誰が建てても同じですものねえ」
「まったくだ」
「まったく」
職人衆まできれいに重なった。泡は一粒として同じ形にならないのに、人の口は揃うのだから不思議ですこと。
わたくしは甕の縁へ残った藍を親指で拭い、泡を七つまで数えた。八つ目は縁へ届かず消えた。あら、そちらのほうが大事。
「小夜。聞いているのか」
「はい、旦那様。よく聞いておりますわ」
「ならば手を引け。今後は、言われた家のことだけしていればよい」
お義母様は見本裂を畳んだ。十年、朝ごと色を足してきた一枚が、まるで昨日届いた贈り物のように、その袖へ収まった。
「承りましたわ」
頭を下げながら、わたくしは泡の消え方を数えた。藁ひと束で済むのは今朝まで。昼を越せば二束、それでも足りなければ一反。何でも反物に直すのは悪い癖ですけれど、夫のご威光は一体何反で売れるのでしょう。買い手がいれば、ですが。
* * *
【十日後・甕場】
冷えた藍は、腹を立てた猫より始末が悪い。呼んでも返事をせず、温めすぎれば爪を立てる。今朝の甕は爪どころか、尻尾まで丸めて眠っていた。
藁は焚かれていなかった。わたくしは甕場の入口で湯桶を抱えたまま、惣一が帳面を開くのを眺めた。帳面は昨日と同じ顔をしておりますが、空は昨日と同じではございません。
「灰汁を足せ。決めた通りの刻に攪ぜろ」
「ですが、旦那様。泡が——」
「手順を崩すからおかしくなる。もう一度、最初からだ」
職人は柄杓を握り直した。作蔵さんだけが甕へ耳を寄せ、それからわたくしの顔を見た。
「小夜さん」
「湯桶でしたら、台所へ運ぶところですわ」
「何を焚く」
「朝餉のお味噌汁でございます」
「聞こえん」
「お味噌汁ですわ、作蔵さん」
作蔵さんは甕の脇に積まれた藁を見た。わたくしも見た。二人とも、味噌汁にあれほど藁を使えば屋敷中が煮立つと思っただけでございます。きっと。
「小夜、そこに立つな。職人が迷う」
「失礼いたしましたわ」
わたくしは一歩退いた。口を開かなければ、藁ひと束が一反になり、昼には二反、明日には問屋の眉間の皺まで付いて三反。旦那様は太っ腹でいらっしゃる。反物を甕へ沈める前から、ずいぶん景気よく損を染めておられる。
惣一は同じ刻に同じだけ灰汁を足させた。泡は大きく二つ浮かび、縁へ届く前に潰れた。
作蔵さんが耳を澄ます。わたくしの指は湯桶の取っ手を三度なぞったが、それ以上は動かさなかった。
「起きん」
「決められた手順だ。起きないはずがない」
「甕は、帳面を読まん」
「何だと」
「聞こえん」
作蔵さんは耳が遠い。都合の悪い声だけ遠くなる耳なら、一反払ってでも欲しいところですわ。
わたくしは台所へ戻った。朝餉の味噌汁はちょうどよい温みで、誰にも褒められず、きちんと空になった。
* * *
【二十日後・問屋の店先】
返された反物は、店先の板へ置かれた途端、ひどく寒そうに見えた。端は春の空、真ん中は雨の翌朝。これを一枚の青と言い張るなら、三反分の景色が楽しめてお得ですわね。問屋は一文も得だと思わなかったようですが。
「このむらでは受け取れません」
反物の端が、惣一の前へ押し戻された。職人衆は揃って足元を見た。笑い声は持ってきていないらしい。便利な忘れ物ですこと。
「小夜さんが、女の仕事を怠るからではなくて?」
お義母様が語尾を長くした。よく伸びる声でございます。これほど均一に伸ばせるなら、反物の色も伸ばしていただきたい。
「甕場に近づくなと命じています」
「それでも嫁でしょう。家の具合くらい見ておくものですものねえ」
口を出せば出過ぎ、出さなければ怠り。お義母様の秤は見事ですわ。載せる相手によって、皿の底から重りが生えてまいります。
惣一は反物を抱え、わたくしを一度だけ見た。
「今夜までに納め直す」
「旦那様、藍が足りません」
「用意しろ」
誰に、と尋ねた職人はいなかった。わたくしも尋ねず、帯の内側から手銭を出した。朝餉の豆、冬の炭、春に買い替えるつもりだった足袋。並べれば半反にもならない銭が、ころりと板へ落ちた。
「こちらで藍をいただけますか」
問屋は惣一ではなく、わたくしの銭を数えた。一枚ずつ減るたび、足の指が冷えていく。新しい足袋が藍へ化けるとは。まあ、足袋を甕へ入れるよりは上等でしょう。
その夜、家の明かりが消えてから、わたくしは返された一反を甕へ沈めた。冷えた藍へ藁を足し、泡が小さく揃うまで待つ。口は出しておりません。手と銭と眠りを出しただけ。旦那様のお言葉は穴が大きくて助かりますわ。
作蔵さんが暗がりから顔を出した。
「誰だ」
「泥棒でございます」
「小夜さんか」
「泥棒より先に分かってくださいませ」
作蔵さんは甕へ耳を寄せた。わたくしは反物を引き上げ、夜気の下で色を見た。むらの境が消えるまで、あと一度。
「寝んのか」
「この一反が寝かせてくれませんの。ずいぶん甘えた反物ですわ」
「甕が呼んどる」
「でしたら、朝まで付き合います」
作蔵さんは藁を一本だけ足元へ寄せた。それ以上は手を出さず、わたくしが攪ぜる音を聞いていた。
夜明け前、反物は深い青へ揃った。指先は冷え、腹は空っぽ。これで婚家の面目が一反、わたくしの朝餉が一膳消えました。差し引きは考えないことにいたしましょう。考えると、お腹が余計に鳴りますもの。
* * *
【その夜・甕場】
「誰の許しで触った」
染め直した反物を見ても、惣一の眉はほどけなかった。見本裂を甕の縁へ広げ、二つの青を比べている。お義母様の箪笥から持ち出したらしく、十年の裂は久しぶりに藍の匂いを吸っていた。
「問屋へ納めるためでございます」
「余計なことをするな。女が陰で手を回せば、職人の面目が潰れる」
わたくしの手銭は潰れても、面目は潰してはいけないらしい。職人の面目とは高価なものですこと。足袋と朝餉と一晩を合わせても、まだ足りません。
「家のためと思ったのでしょうけれどねえ。出しゃばる癖は直してもらわないと」
お義母様は染め上がった反物を撫でた。その指はよい色だけを選んで触り、代金を出した銭には触れない。美しいものをご覧になる目は確かですわ。見たくないものを見ない腕前まで、実に確か。
「小夜。今後は一切、染めに口を出すな。陰でも勝手をするな」
惣一は見本裂を指先で叩いた。青が震えた。
わたくしの頭の中から、反物の数が消えた。帯留めも、藁も、足袋も、問屋へ返す銭も、何反にもならなかった。
「わたくしはこの一枚を、十年、わたくしの色だと思うて染めておりました」
惣一の指が止まった。お義母様は裂ではなく、わたくしの顔を見た。
「何の話だ」
「承知いたしました。では、一切口を出さずにおります」
「最初からそうしていればよい」
「はい、旦那様」
見本裂の端が甕の外へ垂れていた。わたくしは濡れないところまで一度だけ戻し、指を離した。
これで一反も埋めません。
作蔵さんが入口に立っていた。わたくしはその脇を通り、見本裂を残したまま婚家を出た。
「小夜さん」
「今夜は、もう呼ばれておりませんの」
振り返らなかった。背中で聞いた甕の音は、誰かを追うように一度だけ低く鳴った。
* * *
【一月後・講元の家】
槙様の前に座る作蔵さんは、膝へ両手を置いていた。甕場では藍より物静かな方ですが、今日はわたくしまで呼びつけ、朝から同じ話を三度しております。耳が遠い方というのは、人の話を聞かない代わりに、自分の話はよく聞かせます。
「返された一反を、誰が染め直した」
「小夜さんだ」
「銭は」
「小夜さんだ」
「夜の見回りは」
「小夜さんだ」
槙様はわたくしを見た。黒い瞳に、言い訳を差し込めそうな隙はない。ありがたいことですわ。言い訳まで反物へ換算し始めたら、わたくしの頭は問屋より忙しくなります。
「ほかの夜は」
「十年、半分ずつだ。わしと小夜さんで聞いた」
「半分ではございませんわ。作蔵さんのほうが——」
「聞こえん」
やはり都合がよろしい。わたくしが口を閉じると、作蔵さんは槙様へ顔を戻した。
「冷えた晩は、あの人が先に起きた。暑い晩は、泡が荒れる前に水を見た。わしは音を聞いた。あの人は、音になる前から知っとった」
「惣一は知っていたのか」
「知らん。見とらんから」
槙様は一度だけ頷いた。長い弁明も、家の苦労の目録も求めなかった。
「二十年前、私も黙れと言われました」
それだけだった。何を残し、何を持たずに出たのか、槙様は続けない。袖口から出た指が膝を二度撫で、それから止まった。
「講の側で確かめます。小夜さん、あなたは何もしなくてよい」
「ですが、婚家のことでございますから」
「だからです」
結論だけ置かれ、逃げ道も役目も塞がれた。何もしなくてよいとは、難しいご命令ですこと。十年で一度も教わっておりません。
隣の間から女衆が甘酒を運んできた。湯気の立つ椀が、なぜかわたくしの前へ先に置かれる。
「冷めないうちにお飲み」
「皆様の分をお配りいたしますわ」
「もう配ってあるよ」
見れば、本当に全員が椀を持っていた。わたくしだけが、空いた手で人の世話を探している。これは困りました。働かずに甘いものだけ頂戴するなど、罰が当たるかもしれません。できれば、もう一杯いただいた後で。
椀へ口をつけると、温みが舌から腹へ落ちた。甕のためではない。反物のためでも、惣一の面目のためでもない。
「甘いですわ」
「甘酒だからね」
「それは、たいへん理にかなっております」
女衆が笑った。誰かを小さくする笑いではなく、わたくしの椀へもう半分注ぐための笑いだった。
* * *
【三月後・染屋】
藍は起きなかった。決めた刻に灰汁を足し、決めた回数だけ攪ぜ、惣一が帳面の行を指で追っても、泡は甕の底から二つ浮かんで潰れた。
(染めなど、誰が建てても同じことだ——)
惣一は柄杓を奪い、同じ手順をもう一度繰り返した。同じことを二度すれば、同じ失敗が二つ出来上がる。反物なら二反、注文なら二倍、損なら目を閉じたい量でございます。
甕場の隅には、返された反物が重なっていた。春の空、雨の朝、薄曇り。景色の品揃えだけは豊富ですわね。問屋が風流を解さないのが惜しまれます。
槙様はわたくしを連れて、入口からその様子を見ていた。確かめるのは講の側。わたくしは本当に何もせず、袖の中で指を組んでいる。働かない指は落ち着かないけれど、これはこれで鍛錬でございます。
「小夜、見ているなら分かるだろう。何が足りない」
惣一がこちらを向いた。人前で言い切る声は消え、理由を欲しがる声だけが残っていた。
「わたくしは染めに口を出さぬよう、申しつけられておりますわ」
「今は聞いている」
「旦那様のご差配に、わたくしが重ねて申し上げることはございません」
お義母様が職人衆を振り返った。
「誰か分かる者はいないの? いつもしていたことでしょう、ねえ」
誰も手を挙げなかった。祝言の翌朝に笑った者も、主人の言葉を繰り返した者も、沈んだ甕の前では指先まで行儀がよい。人は三月でずいぶん慎ましくなれるものですこと。
作蔵さんが甕へ耳を寄せた。
「音がない」
「だから何が違うのだ」
「あの人が寝ずに聞いてたから、藍が起きてたんだ」
「妻が夜に見回る程度で——」
「染め直した一反も、小夜さんだ。銭も小夜さん。十年、沈む前に起こした」
「なぜ今まで言わなかった!」
「聞かれんかった」
作蔵さんは惣一を見なかった。眠った甕へ耳を当てたまま、それ以上は何も足さない。
槙様が店先へ歩いた。軒に掛けられた染め講の看板へ手を伸ばし、紐を外す。木の板が一度壁へ当たり、乾いた音を立てて、その腕へ収まった。
「講の名は、今日から使わせません」
「お待ちください、槙様。これは一時の不調です」
「三月、見ました」
「ならば小夜に直させます。家の者ですから」
惣一の顔から、藍より先に色が抜けた。命じる声を探して口を開くが、出てきたのは問いだけだった。
「小夜。なぜ黙っていた」
まあ。三月かけて育てた問いが、それでございますか。
「旦那様のお言葉を守っておりますの」
胸の内で、きれいに帳尻が合った。お約束は守り抜くと、看板一枚分ほど重くなるのですね。大変よい勉強になりましたわ!
「小夜さん、あなたからも槙様へ——」
「惣一の店なのよ。嫁なら助けるものでしょう、ねえ」
お義母様がわたくしの袖をつかもうとした。その間へ、作蔵さんの腕が差し込まれる。
「危ない」
「何がですの」
「甕のそばだ」
甕までは三歩あった。作蔵さんの耳には、その三歩が聞こえなかったのでしょう。
槙様は看板を抱え、店先を出た。わたくしもその後へ続く。背中で惣一の声がしたが、講の看板が外された軒には、もう命令を留める場所がなかった。
* * *
【翌年の春・新しい甕場】
新しい甕の泡は、春の朝へ細かな冠を浮かべていた。指を伸ばせば触れられる。それでもわたくしは甕の前で待った。
縁には、あの見本裂が掛けられている。講が婚家から受け取り、槙様が返してくださった一枚は、冬を越しても青かった。十年の色を、今朝の泡が下から照らしている。
「小夜さん」
作蔵さんの声がした。
「小夜さんの甕だ。見てくれ」
「はい」
名を呼ばれてから、わたくしは甕へ触れた。縁の温みを指の腹で確かめ、泡を一つ掬う。昨夜の冷えは浅い。藁は要らない。朝餉の火をこちらへ盗めば、甘酒まで冷めてしまいますもの。
「起きますわ」
「聞こえん」
「起きますわ、作蔵さん」
「そうか」
短い返事の後ろで、女衆が蓋を開けた。甘酒の湯気が流れてきて、藍の匂いと混じる。甕ひとつ、反物なら何反、などと数えかけて、やめた。ここでは足袋も朝餉も眠りも、勝手に藍へ化けたりしない。
門の外で声がした。
「小夜」
惣一が立っていた。去年より細い羽織を着て、供もなく、両手を下げている。命じる者の立ち方ではなかった。
「話がある」
「甕が起きるところですの」
「戻ってくれ」
女衆は口を挟まず、槙様も振り返らなかった。作蔵さんだけが甕へ耳を寄せている。わたくしに代わって誰かが断じる場ではない。けれど、わたくしが婚家の失敗を背負う場でも、もうなかった。
「家の藍が建たない。職人も離れた。おまえが戻れば、また以前のようにできる」
「以前のように、でございますか」
「今度は、おまえの意見も聞く。甕場へ入ることも許す」
許す。なんと大盤振る舞いでしょう。わたくしの腕と眠りと名を持参すれば、わたくし自身を置く隅を下さるそうです。反物に直す気にもなりませんわ。
惣一は門へ手を掛けた。わたくしは甕と、その縁の見本裂を一度見た。
「立たせるつもりはない」
惣一の手が止まった。門は作蔵さんが内側から閉め、掛け金を落とした。
「小夜さん」
「はい、ただいま」
わたくしは甕へ戻った。泡は小さく揃い、見本裂の青を映している。
女衆の輪へ座ると、温かい椀が手渡された。今度は配る相手を探さず、そのまま両手で受け取った。
「小夜さんの甕、と呼ばれましたわ。甘酒も温かい。春からずいぶん景気のよい話ですこと」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




