第78話 ザフィールの商人
春の朝、宰相府の応接室に入ってきた女性を見た時、カイルの体の奥で何かが一瞬だけ静かになった。
静かになったのは思考ではなかった。もっと深い場所だった。——部屋の空気が変わったのか、自分の感覚が変わったのか、判別がつかなかった。
女性は中年だった。魔人族。肌が少しだけ暗い色で、瞳が琥珀色だった。角は竜人の角とは形が違い、額の少し上から後ろに向かって短く弧を描いていた。異色の角だった。布で隠してはいなかった。——ザフィールの人間が角を隠さないのは、彼らの中では角が権威の象徴ではなく、感覚の器官だからだ、とケルヴェンの事前資料に書いてあった。
「ナシーム。ザフィール長老会議の使節として参りました」
声は低く、落ち着いていた。だが声の底に、カイルが聞き慣れない種類の振動があった。言葉の振動ではなかった。言葉の裏にある何かが、声に乗って届いていた。
ケルヴェンが外交プロトコルを整えた。座席、茶、議題の確認。ロランが経済的な議論の準備を脇に控えて待っていた。
「議題は二点です」
カイルが切り出した。
「一つ。ザフィール産の粗魔素の、アストラードへの安定供給について」
ナシームが頷いた。静かな頷きだった。
「もう一つ。我が国の民生応用技術の一部——治癒具と成長畑具の限定的な提供について」
ナシームがもう一度頷いた。
「長老会議は、両方に同意しています。——条件の詰めに入れます」
交渉は、穏やかではなかった。
ザフィールの粗魔素は、南西部の乾燥地帯の地脈から採れる特殊な品質のもので、アストラードの精製所では扱いにくいが、研究機関では実験用の貴重な資源として価値があった。ヴァレンが先月の書簡で「あの品質の粗魔素があれば、成長系の新しい実験ができる」と書いていた。
ロランが供給量と価格の骨格を提示した。——ザフィール側の最初の回答は、供給量で二割下、価格で三割上、契約期間を半分に縮めた条件だった。
「長老会議は、粗魔素を『取り崩すべき資源』ではなく『預かるべき恵み』として位置づけております」
ナシームの声は低いままだった。硬さはなかったが、譲る気配もなかった。
「乾燥地帯の地脈は、我々の民の背骨の下にございます。背骨を削って他国に送り出すのに、商人の相場の値は、正直なところ、合いません。——ご提案の年間量は、我々の民の一年の使用量の三倍を超えております」
ロランが帳面の余白に速い字で何かを書いた。書きながら、一度だけカイルの顔を見た。——数字の根拠を、もう一段、開示するかどうかの確認の目だった。カイルは小さく頷いた。
「研究機関の用途は、貴国で使われる用途とは別の経路です。粗魔素の中でも、我々が必要としているのは、特定の相に偏った微量成分です。貴国の民の生活で使われる主成分は、我々にとって副産物として返却することも可能です」
ナシームの目が、一拍、遠くに行った。——ロランの「返却する」の一語を、帳面ではなく体の中で置き直している目だった。
「……副産物、の量は」
「量と純度は、今日の机の上で確定はできませんが、年間受領量のおおよそ六割から七割。研究機関の精製後に、輸送費用をこちらが負担します」
ナシームは帳面を閉じた。閉じてから、もう一度開いた。別の頁だった。——長老会議から託された交渉範囲の、別の枠を開いた動きだった。
「その条件なら、年間量は七割まで譲れます。価格は、我々の元老会議の議決を経る必要があります。——契約期間については、三年を超えることは、今日は、お約束できません」
ロランの帳面の字が、一度止まった。
「五年を最低線と考えていました」
「大地の状態に、五年先までの保証が出せません。——ご事情はお察ししますが、我々の立場としては、三年ごとに見直す条項を入れていただくことが、最低線です」
カイルが、初めてここで声を出した。
「三年で構わない。——ただし、三年の満了時に再契約の優先権を、我が国に置いてください」
ナシームが、琥珀色の目をカイルに向けた。少しの間、沈黙があった。その沈黙の中で、ナシームはカイルの顔を見ているというより、カイルの声が通ってきた向こう側の、別の場所を見ているように見えた。
「——優先権は、お受けいたします」
治癒具と成長畑具の提供条件でも、ザフィール側は細かく粘った。魔人族の体質に合わせた仕様の修正、貴族層への優先配分の拒否、使用後の廃材の本国引き取り——三点について、ケルヴェンが一つずつ調停し、ヴァレンの名前で事後の書面で追認する条件で、辛うじて今日の机の上に収まった。
治癒具と成長畑具の提供条件は、レガリオンへの提供条件よりも幅が狭かった。ザフィールは小国であり、軍事的な脅威はない。しかし、魔人族の魔素感応能力は他種族と根本的に異なるため、記録石の提供は今回の議題に含めなかった。
交渉の途中で、カイルはナシームの目が二度、遠くに行くのを見た。
一度目は、ロランが粗魔素の月間供給量の数字を読み上げた時だった。ナシームの琥珀色の目が、ロランの帳面ではなく、窓の外の何もない場所を見た。窓の外には宰相府の中庭があるだけだった。中庭の石畳と、枯れ始めた冬の草と、遠くの塔の旗。——何を見ていたのか、カイルには分からなかった。
二度目は、カイルが治癒具の提供条件を説明した時だった。ナシームの目が、もう一度遠くに行った。今度は窓の外ではなく、床の方だった。石の床を見ていた。——いや、床を見ていたのではない。床の下を見ていた。
カイルの体の奥で、最初に入室した時と同じ静かさが、もう一度触れた。
交渉は二の刻で終わった。条件の骨格は合意に達した。ケルヴェンが正式な書面を来週までに準備すると告げ、ナシームは頷いた。
席を立つ時、ナシームがカイルの方を見た。初めて、正面から目を合わせた。
琥珀色の瞳の中に、カイルが見たことのない種類の光があった。光というよりも、深さだった。瞳の奥に、別の場所が見えているような目だった。
「宰相閣下。取引は成立いたします。——しかし」
ナシームの声が、少しだけ変わった。外交の声ではなくなった。
「一つだけ、お伝えしてよいでしょうか」
「どうぞ」
ナシームは一歩、カイルに近づいた。声が小さくなった。ケルヴェンとロランは三歩後ろにいた。
「大地が、嫌がり始めています」
カイルの右手の指先が、一瞬だけ冷えた。冷えた理由は分からなかった。
「どういう意味ですか」
ナシームは答えなかった。琥珀色の目が、もう一度、床の下の何かを見た。
「お気をつけください」
それだけ言って、ナシームは踵を返した。扉の方へ歩き出す背中は、商人の背中だった。外交的な背中だった。——しかし最後の一言だけは、商人の言葉ではなかった。
ナシームが応接室を出た後、ケルヴェンが一歩前に出た。
「閣下。あの最後の言葉は、何か深い意味があるように聞こえました」
「聞こえた」
「記録しておきます」
カイルは頷いた。ケルヴェンの筆が帳面に走った。「ザフィール使節ナシーム。帰り際に。——大地が、嫌がり始めています」。
ロランが付け加えた。
「魔人族は、魔素に対して他種族とは異なる感覚を持つと聞いています。あの言葉が何を指しているか、今の時点では判断できませんが——」
「判断できない。——だから記録しておく」
カイルはそう言って、自分の右手の指先をもう一度見た。冷えはもう消えていた。消えたことのほうが、冷えていたことよりも、少しだけ不安だった。——しかし不安は不安のまま、今日の紙の端に置いた。今日は、ザフィールとの国交が成立した日だった。
午後、ロランが取引の経済効果を試算した報告を持ってきた。
「ザフィールの粗魔素は、年間の精製魔素総量の約三パーセントに相当します。量としては大きくありませんが、品質が研究機関にとって貴重です。——長期契約が成立すれば、ヴァレン殿が要望していた成長系の大規模実験が可能になります」
ルッツが付け加えた。
「研究機関の側では、ザフィール産の粗魔素を受け入れる精製の工程を新たに設計する必要があります。通常の精製所では品質が異なりすぎて扱えません。——ヴァレン殿に相談済みです。専用の小型精製炉を研究機関内に設置する方針で」
カイルは頷いた。三パーセント。小さい数字だった。だが、その三パーセントが研究機関の実験の幅を広げるなら、数字以上の意味がある。
その夜、書斎で、カイルはナシームの言葉をもう一度頭の中で聞き直した。
「大地が、嫌がり始めています。」
言葉の意味は分からなかった。大地。嫌がる。——地脈のことを言っているのか。魔素の何かを感じ取っているのか。魔人族の感応能力は、他種族が持たない認知を可能にするという。彼女が「感じている」ものが、自分には見えない。
見えないものは、今は紙の端に置いておくしかなかった。
今日はザフィールとの国交が一歩進んだ日だった。レガリオンとの完全撤退交渉も進行中。魔素学院は春に二期生を迎える。四本柱の制度設計は法条文が一条ずつ形になりつつある。——全てが動いている。全てが良い方向に動いている。
カイルは紙を閉じようとした時、書斎の扉が軽く叩かれた。
エリアだった。手に観察ノートを持っていた。今夜のエリアの目は、いつもの穏やかさとは少し違っていた。
「夜分にすみません。——今日の使節の方が言った言葉を、ケルヴェンさんから聞きました」
「大地が嫌がっている、という」
「はい」
エリアはノートを開いた。去年の夏から今年の春までの数字の列が並んでいた。カイルが前に見せてもらった芋の成長速度の記録だった。
「あの方の言葉を聞いて、思い出したことがあります。——私の観察ノートにも、似たものがあるのです」
エリアの指が、数字の列の右端を追った。
「成長畑具の横の芋の成長速度が、以前お見せしたあの夏から、ずっと落ち続けています。去年の秋に、また一段下がりました。あの時はまだ、原因が分かりませんでした。——今も分かりません。ただ」
エリアの声が、少しだけ低くなった。
「『嫌がっている』という言葉を聞いた時、数字が頭に浮かびました。植物は嫌がりません。ただ遅くなるだけです。遅くなっている理由が、土でもなく、具でもないなら——土の下の何かが変わっているのではないか、と」
カイルはエリアのノートの数字を見た。微かな下降。計測誤差の範囲と言えば言える程度の。——だが、ナシームの言葉と並べた時、その微かさが別の重みを持った。
「ヴァレン殿に見せたか」
「まだです。——数字だけでは、何も言えません。感覚と数字を並べて人に見せるのは、学者としては躊躇います」
「見せてくれ。ヴァレン殿にも、見せよう」
エリアは一度だけ頷いた。ノートを閉じた。閉じる時、指がいつもより少しだけ強く表紙を押さえていた。
「——おやすみなさい」
エリアが出ていった後、カイルは蝋燭を吹き消した。
暗くなった書斎で、三つのものが、同じ一つの机の上に並んで見えた。——ナシームの「大地が嫌がっている」。エリアの、成長畑具の横の芋の速度の、去年の秋からの微かな下降。そして、半年前に研究機関の金庫室で、ラウルが机の上に落とした一行——「記録石は、渡した先で、増える」。
三つは、互いに結びつく根拠を今夜は持っていなかった。持っていないまま、同じ机の上に並んでいる、という事実だけが、カイルの体の奥に一度、冷たく降りた。——降りた場所は、冬の朝の石と同じ場所だった。夏の工員の掌の石と、オルデンの死の朝の寝台の縁と、同じ場所だった。
並べて記録しておく。それ以上のことは、今夜はしない。三つの紙は、それぞれ別の人の手で書かれていた。別の人の手で書かれたものを、一つの机の上に並べるのが、自分の席の仕事だった。——並べただけでは、何も動かなかった。動かなかったことを、今夜、カイルは知っていた。知っていて、並べた。
千年の木の若葉が、春の夜風の中で静かに揺れていた。夜の庭の底に、大地の音は聞こえなかった。——少なくとも、カイルの耳には。
【豆知識:ザフィールの「長老合議制」と内向きの社会】
ザフィールの政治は**長老合議制**——年長の感応者たちの合議で国の意思が決まる、大陸では珍しい形式です。
魔人族の魔素との関わりは、他種族のように「魔素を操る」のではなく「**魔素と対話する**」感応型で、これは政治意思決定にも反映されます。声の大きい者ではなく、長年にわたって地脈や大気や水脈の変化を**聞いてきた**者たちが、最後の判断を下す国です。
人口三百万の小国でありながら他国に侵食されずに来たのも、外向きに伸びる力で押し返したのではなく、内向きに深く沈むことで侵食する側の足元を不安定にする、という独特の防衛様式があったため。商人ナシームが残す言葉が、その聴き方の延長線上にあります。




