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第77話 撤退の提案

冬の朝、宰相府の大広間に、二つの旗が立てられていた。


 一方はアストラードの旗。もう一方はレガリオンの旗。旗の間のテーブルは、九年前、独立の調印の朝に見た机と同じ形をしていた。長い木の机で、表面に古い傷がある。占領期にも使われていた机だった。傷の上に、今日は白い布が敷かれていた。


 テーブルの片側に、カイル、ロラン、ケルヴェン。ルッツが記録係として隣の小机に控え、ヴァレンが陪席として端の椅子に座っていた。もう片側に、ヴァイスと随行官三名。


 窓の外では、ヴェルデンの冬の朝の霧が、中庭の石畳の上にまだ残っていた。





 「本日の議題は、先日確認した三点の正式交渉です」


 ケルヴェンが開会を宣言した。声は低く、一語ずつに間が置かれていた。三兄イルヴァンの声と同じ種類の静けさだったが、今日のケルヴェンの声には、自分の仕事を知っている者の硬さが加わっていた。


 ヴァイスが冊子を開いた。前回と同じ冊子だった。余白に前回の走り書きが見えた。


 「元老院は、三点の議題について交渉する権限を、本使節に委任しています。——宰相殿、ご提案をお聞かせください」





 カイルの喉の奥が、一瞬だけ乾いた。


 乾いたことに気づいてから、水は飲まなかった。代わりに、一拍だけ沈黙を置いた。テーブルの向こう側の四人の顔を、一人ずつ見た。ヴァイスの硬い目。随行官の一人が筆を構えている。もう一人が腕を組んでいる。三人目が窓の外を見ていた。——四人の中に、前回よりも緊張が多かった。


 「我々は、記録石技術の一部を、民生品への限定応用に絞って、貴国に提供する用意があります」


 テーブルの向こう側で、空気が動いた。随行官の筆が紙の上で止まった。腕を組んでいた者の腕が、わずかに解けた。ヴァイスだけが動かなかった。


 「その代わり、以下の三点を条件として要求します」


 カイルは紙を見なかった。この三点は、紙を見なくても言える。四年間、紙の上ではなく体の中に置いてきた言葉だった。


 「一つ。地脈の共同安全管理委員会の完全解消」


 「二つ。レガリオン軍の残留基地の完全撤収」


 「三つ。軍事同盟の解消と、自主防衛への移行」


 三つの条件を言い終えた後、大広間は静かだった。窓の外の霧が、少しだけ薄くなっていた。





 ヴァイスの筆が、冊子の余白に短い一行を書いた。


 「記録石技術の一部、と仰いましたが——具体的には」


 カイルはヴァレンの方に顔を向けた。ヴァレンが椅子から立った。





 ヴァレンの声は低かった。技術者の声だった。


 「記録石は、精製した魔素を情報相に凍結させて石に封じたものです。封じた後は、誰でも使えます。——種族を問いません」


 テーブルの向こう側で、随行官の一人が身を乗り出した。


 「種族を問わない?——人間族でも?」


 「はい。記録石は、使用時に封入された情報相の魔素を放出します。使用者は自分で魔素を引く必要がありません。ただし、受容には一定の魔素親和性が必要であり、効率は種族によって異なります。——しかし、使用は可能です」


 随行官の一人が、隣の者に小声で何かを言った。ヴァイスがそれを片手で制した。


 「ヴァレン殿。提供される技術の範囲は」


 「γ経路上の製品の形成図の一部です。民生品に限ります。形成灯、浄化石、成長畑具、保存具、煮炊き石、温度固定箱——これらの基本的な形成図を、段階的に提供します。記録石の技術移管を通じて、貴国の魔素操作師——規格化形成炉を扱う技能者の育成も支援します」


 ヴァイスは筆を動かしながら聞いていた。筆の動きが速かった。書きながら考えている手だった。


 「直接行使の技術は」


 「渡しません。——渡しようがありません。直接行使は竜人の身体を前提としており、物理的に移転できません」


 ヴァレンの声は、そこで少しだけ変わった。五十年の職人が、自分の仕事の境界線を引く時の声だった。





 ヴァイスが冊子を閉じた。閉じてから、テーブルの向こう側の随行官たちを一度だけ見渡した。


 随行官の一人——腕を組んでいた男——が小さく首を振った。もう一人が頷いた。三人目は窓の外を見たままだった。——三人の中に、二つの方向が見えた。カイルの目は、それを見逃さなかった。前回ケルヴェンが言った「親竜人派と強硬派」の対立が、この小さな仕草の中に出ていた。


 首を振っていた男——随行官の中で一番年嵩の男——が、椅子の脚を石の床に擦って引いた。


 立ち上がりかけた。


 腰が浮いて、胸の高さで一度だけ手が机の端にかかった。立つのか、座るのか、体の方が先に決めかけて、意識の方が止めようとしている動きだった。


 「——お待ちを」


 男が口を開いた。ヴァイスに向かって、しかし聞き手はテーブルの両側の全員だった。


 「レガリオンの軍をこの国から出し、安全管理の委員会を畳み、同盟を解く。——三点のいずれも、我が国が五年積み上げた地域秩序の骨組みです。一部技術の民生移管と引き換えるには、釣り合いが足りません。本国に持ち帰るまでもなく、元老院は一読で退けます」


 ヴァイスの表情が動かなかった。動かないことが、返事だった。——ヴァイスの筆が、冊子の余白の上で、一瞬だけ止まった。


 大広間の空気が、床の下から一度だけ冷えた気がした。ロランの横顔が、ほんのわずかに固くなった。ルッツの手の筆も止まっていた。ヴァレンは椅子の背に一本の指を置いたまま、何も言わなかった。


 カイルは、男の顔を見ていた。


 相手を否定する言葉も、味方を説得する言葉も、頭の中で一度も組み立てなかった。組み立てる前に、別のものが体の中で先に動いた。——前日の夜、ケルヴェンが短く言った一行だった。「……イルヴァン殿下でしたら、この種の場では、相手の名前ではなく、相手が背負っている国の名前にだけ話しかけておられました」。イルヴァンの教えを、今、事実として借りる。借りて、自分の言葉として返す。


 カイルは声を普段より低くした。怒りを抑えるためではなかった。広間の向こう側に座っている男ではなく、男の背後にあるレガリオンの議事堂に、声を届けるための低さだった。


 「——レガリオンに、お伝えいただきたい」


 男の体が、机の端にかかった手の位置で止まった。


 「この三点は、貴国が五年で積み上げた秩序を崩すためのものではない。貴国が五年背負い続けている重さを、双方で降ろすための線です。——同盟は解きます。しかし、同盟を解いた後の二国の関係を、どの高さに置くかは、今日、この机の上で決める話ではない。元老院が一読で退けるかどうか、元老院に直接、お問いいただきたい。使節殿の一読で退ける話ではない」


 広間が、一拍、静かになった。


 カイルは最後の一文を、男の目の前にではなく、机の真ん中の白い布の上に置いた。


 「——五年の重さは、貴国にも、我が国にも、同じだけ積まれています」


 男の指が、机の端から離れた。


 離れてから、ゆっくり腰が椅子に戻った。戻る途中で、男はヴァイスの顔を一瞬だけ見た。ヴァイスは男を見ていなかった。——ヴァイスの筆が、冊子の余白に、もう一文字書き足していた。


 広間の空気が、元の高さに戻った。窓の外の霧は、もう少しだけ薄くなっていた。


 ケルヴェンの右手が、机の下で、一度だけ開いて閉じた。——カイルがそれに気づいたのは、後からだった。





 ヴァイスが口を開いた。


 「宰相殿。この提案を、本国に持ち帰ります。元老院での審議に、二ヶ月を要する見込みです。——しかし、本使節としての個人的な所見を一つだけ申し上げることをお許しいただけるなら」


 「どうぞ」


 「この提案は、合理的です」


 ヴァイスの声は硬かった。だが、「合理的」という言葉の中に、硬さとは違うものが一瞬だけ混じった。——認めている、とカイルの体が感じた。





 使節団が大広間を出た後、ロランが短く報告した。


 「提案が受け入れられた場合の経済効果の試算は、先日お渡しした通りです。年間予算の約一割が自由になります。——加えて、記録石の限定輸出で新たな外貨収入が見込めます。試算は来週までに」


 カイルは頷いた。


 ケルヴェンが付け加えた。


 「ヴァイスが『合理的』と言ったのは、本使節の個人的な支持です。持ち帰って元老院で強硬派と争うことになりますが、合理性の根拠が揃っていれば、親竜人派が押せる可能性は高い」


 ルッツがもう一行添えた。


 「ヴァレン殿から連絡です。感応式鍵の試作が、昨夜、最終の動作確認を終えました。——所有者の痕跡を留める挙動が、繰り返し再現できる形まで来ています。春の調印式で公開できる段階です」


 カイルは頷いた。ヴェラリオスの手稿の四行のうち二つ目が、これで形になった。——残る一つ、取引記録石の方も、ヴァレンとラウルの側で並行して試作が進んでいる。魔素通信の方は、ラウルが秋から冬にかけて原理の詰めを続けており、二つの石の間の情報伝達は数度まで再現できたが、距離と安定性にはまだ難があった。試作の公開は年を越す、とヴァレンの連絡には添えてあった。


 「地脈調査官と精製所連合の合議は」


 「冬の間に四回。採掘量上限の算定手法について、たたき台がまとまりました。春の公布までに、両者の印を合わせる形に仕上げる目途です」





 その夜、アルブレヒト邸の食堂で夕食を終えた後、カイルは庭に出た。


 中庭の千年の木の下に、エリアが立っていた。冬の夜の空気の中で、観察ノートを閉じたまま、木の幹に手を当てていた。


 カイルはエリアの隣に立った。何も言わなかった。しばらく、二人とも黙っていた。冬の夜の空は晴れていて、星が出ていた。——この世界の星は、魔素の源だと信じられている。


 「交渉は、始まった」


 カイルが言った。一文だけだった。


 エリアはカイルの顔を見なかった。木の幹に当てた手を離さなかった。


 「——大きな一歩ですね」


 エリアの声は静かだった。問いではなかった。確認でもなかった。ただ、カイルの言葉を受け取った、という声だった。


 二人はもうしばらく、冬の夜の木の下に立っていた。木の枝には葉がなかった。冬の裸の枝が、星の光の中で細い線を描いていた。

【豆知識:三兄イルヴァンの足跡——処刑された外交官】


イルヴァン・ヴァルドラーク。享年百二十五歳。占領軍によって処刑された王族で、戦前から戦時を通じてアストラードの外交を一手に担っていました。

レガリオン・エテルネアとの関係を担当し、敗戦前夜には和平交渉を試みた——「交渉で時間を稼いだ知恵者」として、占領後に危険人物と見なされ処刑されました。彼の側近だったケルヴェンも危うかったところを、オルデンが密かに匿って生き延びさせています。

イルヴァンが王家の中で異色だったのは、外交を「血の系譜の延長」ではなく**国と国の事務**として扱った点でした。王族の交渉が儀礼と血統を媒介に動いていた大陸の中で、彼の構えは異質に映り、結果として占領軍にとっては「便利な王族」ではなく「危険な王族」になりました。その判断の方法だけが、ケルヴェン経由で十数年後に生き返ります。

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