第71話 魔素学院の開学
学院の開学の朝、カイルは邸を早めに出た。
中市街の学院に向かう道の途中、下市街の広場を一つ横切る必要があった。広場は朝市が終わった直後の時刻で、石畳の上に果物の皮と野菜の切れ端が散らばっていた。人はまばらだった。ただ、広場の西の隅だけ、十人ほどの子供と、その母親たちが円になって座っていた。
円の中心に、リーネがいた。
絵本を膝の上に広げて、声に出して読んでいた。リーネ自身が描いた絵本だった。——薪を割らなくてよくなった朝の、女の人の話。夏の夕に書き始めた頁が、今は完成して綴じられていた。
「『——花瓶に、花が一本、立っている。薪があった場所に、花が、立っている』」
子供たちは静かだった。リーネの声の一拍一拍を、耳で拾っていた。母親たちは、子供の背中に手を当てて、自分もリーネの絵を覗き込んでいた。
読み終わった後、一人の母親がリーネに近寄った。
「リーネさん。——今月、うちの三番目の息子が、熱を出した。治癒具は高くて、代書屋のミレナさんに『どこに行けばいいか』って聞きに行ったんだけど、——結局、薬草で治った。ミレナさんのところに書いてもらった陳情書、まだ宰相府に届いていないかな」
リーネは絵本を閉じた。
「届いてると思うよ。届いてるけど、返事が来るまで時間がかかる。——うちの兄に、今度、聞いておく」
「いいの、責めてるんじゃない。ただ、子供が熱出した夜、もう少し手近に何かあればって」
「分かる。——書いておく」
リーネは絵本の裏表紙に、鉛筆で短くメモを取った。「三番目の息子の熱。治癒具高い。夜の手近な何か」。文字は下手ではなかったが、代書屋の字とは違った。絵本作家の字だった。
別の母親が、別のことを言い出した。「配給の話、下市街の奥の方にも来るの?」「隣の通りの形成術師が、うちの壁を勝手に直したって言ってるんだけど」「昔のほうが、わたしたちは、分かりやすかった気がする」——声は矛盾していた。増えてほしいと言う声と、増えすぎると戸惑うと言う声が、同じ円の中に並んでいた。
リーネは全部を鉛筆で書き留めた。整理はしなかった。整理は、代書屋に行ってミレナに頼む仕事だった。リーネは「聞く人」で、ミレナは「書く人」で、その二つが下市街の路地の中で繋がっていた。
カイルは広場の角に立って、その様子を一度だけ眺めた。近寄らなかった。
子供たちの中に、十年後の学院の第二期生か第三期生になる顔がいるかもしれなかった。母親たちの中に、代書屋に持ち込まれる陳情書の筆者がいた。リーネの絵本の中で、下市街の家庭の一日が記録されていた。
——リーネは書記官ではない。戦争を知らない世代だった。だから、繁栄を「当たり前」として絵本に描ける。造形サービスが届かない家の子供の熱を、「届いていない」という怒りではなく、「いつか届くだろう」という期待で書ける。その書き方が、今の下市街の空気に合っていた。
カイルは広場の角で一度だけ息を整えた。去年の交渉卓で狡猾さの手つきを知って以来、自分の目には、この広場の空気が少し遠くに見えるようになっていた。見えたが、遠くても、消さないための工夫は学院の中にあった。——ヴァレンの声が、この子供たちにいずれ届く。届くまでに十年かかる。リーネの絵本の中の花が、薪のあった場所で咲き続ける朝が、続く間に。
広場を横切って、中市街の学院に向かった。
春の朝、学院の前に人が並んでいた。
建物は中市街の南寄り、研究機関から徒歩で四半刻の場所にあった。旧貴族の二つの屋敷を繋いで改修した石造りの二階建てで、正面の壁は白く塗り直されていた。壁の上に、真新しい板の看板が一枚。「アストラード魔素学院」。研究機関の看板と同じ書体で、ヴァレンが自分の手で書いたものだった。
並んでいたのは三十七人だった。
カイルは建物の前に立って、三十七の顔を一つずつ見た。前列に、角の細い若い竜人が数人いた。中ほどに、人間族の少年が三人並んでいた。後列に、鉱人族の娘が一人、肩幅の広い体を少し縮めていた。——その隣に、獣人族の若者が一人。耳が大きく、目が鋭かった。列の端に、名前を知らない顔がいくつもあった。
下市街の子。農村から馬車で二日かけて来た子。旧貴族の家系の末の子。形成術師の弟子だった子。粉屋の子。漁師の子。記録石で読み書きを覚えたばかりの子。——名簿にはそう書かれていた。名簿をルッツが作り、ヴァレンが一人ずつ面談し、カイルが最終承認した。三十七人。第一期生。
——多い、と思った。
思った瞬間に、自分でも意外だった。三十七は、宰相府に届く請願の一束より少ない。配給権の試算に並ぶ地区の数より少ない。数字としては、大きくなかった。それなのに、顔が並んだ列の前に立つと、数字にはない重さがあった。
書記官だった頃の工房街には、顔見知りの職人が二十人ほどいた。全員の名前を、親の代までを、子供の数までを、カイルは覚えていた。二十は「抱えられる」数だった。——三十七は、抱えられる数の外にあった。面談の時にヴァレンが一人ずつ要点を書いた紙は、既に机の引き出しの中にある。しかし紙を読み直さなければ、今朝の三十七人の顔と、紙の上の名前を、一対一で結び直せる自信がなかった。
四年前の初夏、書斎の余白に「学校」と書いた朝、学校というのは顔と名前が一致している場所のつもりだった。今日、その場所は、顔と名前が一致しない場所として開いた。——記憶の仕方が、変わる。変えなければ、この先、五十人、百人、千人を一人ずつ知る宰相にはなれない。書記官の目と、宰相の目は、別の目だった。
それでも、三十七の顔の一つひとつを、カイルはもう一度、端から端まで見た。覚えきれないことを知った上で、それでも一度は見る、という動作だけは、残すことにした。
ヴァレンが建物の扉の前に立った。眼鏡を外し、レンズを拭き、かけ直した。二年前、研究機関の開設の朝と同じ仕草だった。
「今日から、この場所は学院です」
声は低かった。広場の端までは届かなかった。だが三十七人の体が、一斉にヴァレンの方を向いた。——聞こえないのではなく、聞こえるように体を整えていた。研究機関で見たのと同じ反応だった。
「学院は、血統を問いません。種族を問いません。——才能と、意志だけを問います」
ヴァレンは三十七人の顔を、右端から左端まで一度だけ見渡した。
「才能というのは、最初から持っているものだけを指しません。時間をかけて育てられるものも、才能です。今日、あなた方の中で一番不器用な者が、十年後に一番遠くまで届いている、ということが起こります。——私はそれを、五十年かけて知りました」
ヴァレンは一度、息を置いた。
「ここで学ぶのは技です。しかし、技だけを学ぶのでは、技は閉じます。——技と並んで、世を読む力も、育ててほしい。自分の手の中の技が、外で何に触れているかを見る目を」
言い終えて、ヴァレンはもう一度眼鏡のつるを指先で直した。——その一言は、他の行より、少しだけ、声の置き方が違った。長く考えた末に、今朝、足した一行のようだった。
三十七人は静かだった。前列の竜人の少年が一度だけ唾を飲んだのが、朝の静けさの中で聞こえた。
カイルが前に出た。
演説は用意していなかった。紙を持っていなかった。——ヴァレンの後に何を言うべきかは、紙の上ではなく、目の前の三十七の顔の中にあった。
「技術立国は、人を育てることから始まる。人は育つのに時間がかかる。——だから、今日から始める」
二文だった。それ以上は言わなかった。
三十七人の中の一人——人間族の少年——が、口元を一度だけ動かした。何かを呟いたのか、それとも笑おうとして止めたのか、カイルには分からなかった。だが、あの口元の動きは、恐れではなかった。
開学式の後、ヴァレンが三十七人を建物の中に案内した。カイルは建物の外に残った。
外に残ったのは、中が彼らの場所だからだった。宰相が中に立ち入ると、学院は宰相府の延長になる。学院は宰相府の延長ではない。ヴァレンの場所だった。
建物の中から、机の脚が石の床に当たる音が聞こえた。三十七人が席に着いている音だった。その音を聞きながら、カイルは四年前の初夏の早朝を思い出していた。——アルブレヒト邸の書斎で、提案書の下の余白に「学校」と一語だけ書いた朝。あの一語が、今日、三十七の体の重みを持って、この建物の中に入った。
一語が三十七人になるのに、四年かかった。
午前のうちに、ロランが宰相府で予算の報告をした。
「学院の初年度予算は、研究機関予算の三分の一です。建物の改修費は接収金の残額から。教員はヴァレン殿の研究機関からの兼任四名と、外部から招聘した二名。——来年度以降、第二期生を受け入れるなら、教員の増員が必要になります」
カイルは数字を聞きながら、今朝の三十七人の顔を頭の中で並べていた。数字は数字だった。しかし数字の先に、机の脚が石の床に当たる音があった。
「第二期生の見込みは」
「ヴァレン殿が、秋までに領国中の形成術師組合に推薦枠を設ける予定です。来年は五十人前後を見込んでいます」
三十七人が五十人になる。五十人が百人になる。——その先に、四年前の初夏にオルデンに語った「母集団の底上げ」がある。
午後、ケルヴェンが短い一言を添えた。
「コヴァルドとエテルネアから、学院への留学の問い合わせが来ています。コヴァルドは鉱人族の若い鍛冶見習い三名。エテルネアは妖霊族の学術院の研究生二名です」
カイルの手が、机の上で一度だけ止まった。
他国の若者が、この国の学院に来ようとしている。——まだ開学の日なのに。
「受け入れるか」
「受け入れは来年以降が現実的です。しかし問い合わせが来たということ自体が、外交上の成果です。——この国が教育を輸出し始めた、ということです」
教育を輸出する。——その言葉が、カイルの頭の中で、γ経路の製品リストの隣に並んだ。製品は石の中に入っている。教育は人の中に入っている。どちらも、出したら戻ってこない。
夕方、カイルは研究機関に立ち寄った。
建物の一階では、壁際のラウルの机が空いていなかった。ラウルは机の上に紙を何枚も広げて、何かの設計図を引いていた。開学式には来なかった。来る気もなかったのだろう。社会的な行事はラウルの世界の外にあった。
カイルはラウルの背中を一瞬だけ見た。声はかけなかった。ラウルの鉛筆の音だけが、研究機関の一階に響いていた。——その音は、今朝の学院の建物の中の机の音と、同じ種類の音ではなかった。だが同じ国の、同じ時間の中の音だった。
研究機関を出て、石畳の通りを歩き始めた時、名簿の中の一つの名前が浮かんだ。
セノン。
竜人族、五十代前半。民間商家の見習い。——名簿の上では、三十七人の中の一人だった。カイルが面談した時の記憶は薄かった。静かな目をした若者だった。それだけだった。
カイルはその名前を、今夜は頭の中に留めなかった。三十七人の一人として、学院の中に入った。——それだけで、今日は十分だった。
その夜、アルブレヒト邸の書斎で、カイルは紙の上に「37」と書いた。
その下に、「50(来年)」と書いた。その下に、「100(三年後?)」と書いた。
数字の列を見下ろした。——四年前の初夏の朝、研究機関の構想を書斎で書き上げた時、設計の側には二つの名前しか書けなかった。ヴァレン。ラウル。今日、設計の側に、三十七人の名前が加わった。
まだ二つの名前の重さには遠い。だが、三十七人の中の誰かが、いつか、ヴァレンの隣に立つ日が来る。——その日を、自分は見届けるだろうか。見届けなくても、三十七人は育つ。育つように、場所を作った。場所があれば、人は育つ。
窓の外で、千年の木の新しい若葉が、春の夜風に揺れていた。四年前と同じ初夏の風ではなかった。だが、木は同じ木だった。
【豆知識:「公的中等教育機関」という新しいかたち】
魔素学院は、アストラードにとって**初の公的中等教育機関**です。戦前のアストラードでは、形成術の継承は親方ギルドの徒弟制度——「親方と弟子の家の中で何年もかけて伝える」形——が標準で、学校という制度自体が魔法・形成の世界には存在しませんでした。
入学資格を**筆記と実技の試験だけ**にすることは、血統や家門の壁を制度として取り払う宣言でもあります。学院(中等教育)と研究機関(大学院相当)の二段構えにすることで、若いうちに発掘される才能と、長く独学で粘る才能の両方を国の制度の中に組み込むかたちが、ここに整いました。




