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第70話 四つの柱の構想

冬の朝、宰相府の執務室で、カイルはロランにヴェラリオスの冊子とオルデンの遺書を渡した。


 「鍵が開いた。——読んでくれ」


 ロランは机の上で冊子を開いた。確率の記法を目で追い、ヴェラリオスの古い字を指で辿り、オルデンの走り書きを一行ずつ照らし合わせた。読み終わるまでに、しばらくかかった。


 便箋を机に戻した時、ロランの視線は遺書の最後の一行で止まっていた。「お前の記録を、読みたかった」——その一行の上で、目が微かに濡れた。


 ロランがオルデンの遠縁であることを、カイルはこの瞬間に初めて体で理解した。血の繋がりではない。字の上に残っている声の震えを、ロランも聞き取れる、ということだった。


 「……オルデン閣下は、これを二十年、解いておられたのですね」


 カイルは頷いた。


 「二十年かけて、半ばまで。——残りの半ばを、私が、今日から始める」


 ロランは便箋の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。やがて自分の帳面を開き、指で押さえた。


 「——閣下。春から私が手をつけてきた四つの仕事は、私が思っていたより、ずっと高い場所に置くべきものだったようです」


 その声は、責めの声ではなかった。自分の半年の仕事の位置を測り直す声だった。





 カイルは白い紙を一枚、二人の間に置いた。昨夜書斎で書いた四語を、もう一度書き写した。


 「魔素本位制。配給権。所有=再形成権。法定評価基準。」


 ロランは四語を見てから、自分の鞄から薄い帳面を取り出した。中には商家登録数と充足率の表、そして鑑定人の不揃いな推定値の記録が並んでいた。


 「この四つは——」


 「独立ではない。噛み合わせだ」


 カイルは四語を線で繋いだ。


 一つ目、魔素本位制。——春から試験流通させている魔素通貨の、上の位置。


 「お前が便利な通貨として出したものを、柱として立て直す」


 「柱として立てるなら、早く回すより、長く続けることが先です」


 ロランの返しは早かった。半年試した者の返しだった。


 二つ目、配給権。——全世帯に、生存に必要な最低限の魔素へのアクセスを、権利として保障する。


 「権利、ですか」


 「ヴェラリオスの言葉だ。配給は上から配る。権利は下から請求できる」


 三つ目、所有=再形成権。——物の所有を、再形成の優先権として定義し直す。


 「所有が再形成の権利になるなら——」ロランの目が一瞬だけ広がった。「土地も建物も道具も、全てが『権利の束』として書き直せます」


 「旧い所有権の体系は、魔素のない時代のものだ」


 四つ目、法定評価基準。——ここでロランは別の頁を開いた。過去半年、下市街と中市街の鑑定人たちが同じ壁、同じ台に対して出した推定値が並んでいた。二十数件。同じ物に対して、二割近い幅があった。


 「前の三本は、社会の柱です。この四つ目は、前の三本を立てる地面です。魔素は測れません。鑑定人が五人集まれば、五つの数字が出る。本位制の裏付けも、所有権の実体も、配給権の公平も、全て『推定が正しい』という前提の上にあります。前提が崩れれば、柱ごと虚構になる」


 「立てるには——」


 「統一の測定手法を国が定める。鑑定人を国家資格にする。金融機関の帳簿を宰相府が監査できる権限を法で置く。——この三つが同時でなければ、一つだけでは骨抜きにされます」


 ロランは帳面を閉じ、もう一度開いた。


 「閣下。この四つは——噛み合うと、かなり大きい」


 「大きい。だから、不完全なまま置いておけない」





 ロランは冊子を手に取り、指で頁を繰り戻した。


 「殿下。——柱の四本と、冊子の根・杭・屋根の配置は、昨夜ご覧の通りです。問題は、どう運ぶか、です」


 ロランの指が根の二行——「地脈の産は無尽ではない」と「精製の炉は二つの印で」——を指した。


 「採掘量の上限を誰が決めるか。地脈調査官は監督府の下の人間で、独立機関はまだありません。精製所連合は接収からの返還を受けたばかりで、内部の合議が整っていません。杭の一行——『精製の瓶が世の経済の杭』——も、精製所側の管理者も、国の監督も、どちらもまだ形になっていない。屋根の一行——『飢饉の年にも研究に回せ』——も、法で優先権を書き込まなければ、真っ先に削られます」


 ロランは自分の帳面を再び開いた。過去半年、下市街で試した「幅で書く」帳簿形式の見本が三枚綴じてあった。


 「四つ目の柱の実務は、私の側で試した分があります。ただ、これを条文に落とすには、私の経済の言葉だけでは届きません。民衆の暮らしの言葉で書ける手が、別に要ります」


 ロランは筆を止めて、冊子をもう一度見た。


 「三百年前の言葉を、私たちの言葉に置き換え、運ぶ手を配るだけです。——オルデン閣下の走り書きも、この柱を組もうとした跡だったのでしょう」





 カイルは頷いてから、ロランの帳面の「媒」の一字に視線を止めた。——「帳簿は消ゆる媒に乗せよ」。消ゆる媒、という言葉が、カイルの中で、別の技術と結びつき始めていた。


 「——ロラン。媒の話だが」


 ロランが顔を上げた。


 「紙では、書き足しも抜き差しもできる。鑑定人の資格も、監査の権限も、帳簿そのものが書き換えられるなら、骨抜きになる」


 「そうです」


 「記録石の技術で、媒が作れるかもしれない」


 ロランの目が少しだけ広がった。


 「記録石は、形成図を情報相魔素に封じる。封じた後は、流動相からやり直さない限り書き換えられない。取引の記録を形成図として石に封じれば、紙のように書き足せない」


 動くかどうかは、まだ分からなかった。しかし、三百年前の「消ゆる媒」の一行が、今日の記録石の技術と繋がる線は見えた。


 「ヴァレンとラウルに打診する。ルッツに試作の枠組みを作らせる」


 ロランが頷いた。


 「それが動けば、四つ目の柱の地面は、確かに立ちます」





 ロランは筆を一度止めてから、別の頁に新しい構造を描き始めた。


 「——閣下。本位制の運用にも、『二つの印』の応用が要ります。精製の側の共同は、国と精製所連合の話です。通貨の流通の側にも、同じ構造が要ります」


 「組み直します。——商人ギルドに働きかけて、まず彼らの手で、相対測定の標準手順を作ってもらう。政府はその手順を追認して、法で認める。民間ギルド認証が先、国家法的追認が後。二層構造です。商人は自分たちの量りを信じます。信じる量りに国が印を押す形なら、動きます」


 カイルはその構造を一度だけ頭の中で転がした。——昨秋の案は「国が通貨を発行する」だった。ロランは今朝、「民間がやっていることを国が追認する」に変えていた。前に出る主体が変わった。変えたのは、冬のロラン自身の判断だった。


 「メルケン殿の協力は」


 「冬の間に三度、お話しました。——師は、国が前に出ない形なら、商会の顔として動く、と仰っています」


 カイルは頷いた。


 ロランの筆が再び動いた。


 「配給権を保障するなら、年間にどれだけ配れるかの上限を先に定めなければなりません。上限がなければ、権利だけが膨らんで、約束だけの空手形になります」


 筆が一度止まり、ロランは冊子に目を落としてから続けた。


 「『飢饉の年にも研究に回せ』。——魔素が足りなくなった時に真っ先に削られるのが研究だと、三百年前に見抜いていた。法で守らなければ、研究は政治の都合で最初に死にます」


 カイルの手は、紙の上で止まっていた。四語の下の線を見た。四本の柱。——しかし柱だけでは建物は立たない。


 「柱を支える根と、杭と、屋根が要る」


 自分の口から出たのに、昨夜の冊子で三百年前の男がすでに書いていた構造だった。


 「根は、採掘量の上限と、精製所との共同管理。杭は、精製の瓶に封じた時の認証。屋根は、研究への優先割当」ロランが続けた。「この三つが揃って、初めて四本の柱は立ちます」


 カイルは四語の下に、三語を書き足した。


 「根。杭。屋根。」


 四語と三語。七つの言葉が紙の上に並んだ。





 午後、ケルヴェンが短い報告書を持ってきた。四本柱の制度が実現した場合の各国の反応の試算だった。コヴァルドは自国の鉱物通貨との比較で関心を持つ。マルカは港湾通過税との整合を気にする。エテルネアは学術的に注視する。レガリオンについては、一行だけ書かれていた。「元老院は、通貨の物理的裏付けという概念を、脅威と機会の両方として認識する可能性がある」。


 カイルはその報告書を机の端に置いた。レガリオンの一行は、今日は読み返さなかった。——今日の仕事は、国内の骨格を立てることだった。


 畳んだ紙を開き直し、七語を見下ろした。


 本位制の二層構造はロランが描いた。採掘量の上限はルッツとロランの目が両方要る。法定評価基準には商人ギルドとメルケンの協力が要る。研究への優先割当にはヴァレンと研究機関の側からの声が要る。——どの一つも、自分の手では最後まで運べない。


 「俺には、この穴を埋める力がない」


 ロランに向けた言葉ではなかった。自分の耳に届かせるための言葉だった。


 ロランは顔を上げたが、何も言わなかった。


 ——オルデンの椅子に初めて座った朝から、閣僚は「仕事を分担する同僚」だった。今朝、それでは足りないと気づいた。七語の重さは、カイル一人では持ち上がらなかった。一人で持ち上がらないから、他の者の手に預ける。預けた側は預けられた側の手を信じるしかない。信じた時だけ、重さが動く。


 閣僚は「重荷を預けている相手」だった。その重さに他人の手が触れることを、今朝、カイルは受け入れた。


 もう一つ、別の名前が、この部屋に要ることも、はっきりと見えた。


 「ミレナに、来てもらう」


 ロランの目が少しだけ動いた。ミレナ——下市街の代書屋。アルブレヒト邸の大家。カイルの従姉。——アルブレヒト家は戦前、王家の法典を代々起草し管理してきた学究・文官の家だった。接収で家業は細り、邸の大書庫に国から委託された法典資料が残るだけになっているが、血筋は続いている。ロランの顔に浮かんだのは、驚きより納得の色だった。


 「制度を作るには、法の言葉が要る。私は政策を書ける。お前は経済を書ける。ケルヴェンは外交を書ける。——だが、民衆の暮らしの言葉を法の言葉に翻訳できる者が、この宰相府にはいない」





 翌日の午後、宰相府の応接室にミレナが来た。


 丸メガネ。顎で揃えた金色の髪。代書屋の装い。インクの染みが指先に残っていた。廊下を歩く時、掃除夫の老人が壁際に寄ったが、ミレナは会釈もせず、真っ直ぐ応接室の扉まで歩いた。——この廊下は、彼女の先祖たちが法典の束を抱えて往復していた廊下だった。


 カイルが立って迎えた。ミレナは椅子に座る前に、部屋を一度だけ見回した。壁の紋章、窓の外の旗、机の上のインク壺。確かめ終えてから、座った。


 「呼ばれたから来た。——用件は」


 「仕事を頼みたい」


 「代書屋に」


 「代書屋に、だ。——それに、アルブレヒトの血を継ぐ者に」


 ミレナの丸メガネの奥で、目が少しだけ細くなった。客の話の嘘と真を最初の三文で見分ける目。——だがその底に、別のものが一瞬だけ動いた。並べて言われることが稀な二つの呼ばれ方を、並べて言われた時の目だった。


 「——言って」


 カイルは紙を一枚、ミレナの前に置いた。上に四語。魔素本位制。配給権。所有=再形成権。法定評価基準。その下に、小さな字で三語。


 ミレナの目の細まり方が変わった。邸の大書庫の奥で、国から委託された法典資料の角を毎月自分の手で揃えてきた者の目に。


 「法にするの」


 声が半音、低くなった。


 「する。——民衆の言葉を、法律の言葉に翻訳してほしい。法を作る側の言葉では届かない場所がある。お前の客が毎日持ってくる書類の言葉でなければ、届かない場所がある」


 ミレナの指が、紙の縁を一度だけ叩いた。


 「わたしは、王族からの依頼は受けない」


 冷たい声ではなかった。ただ、線が一本引かれた。その向こう側に、カイルの王族としての肩書きが置かれた。


 「うちの家は、代々、王家の法典を書いてきた。王家の命令で、じゃない。王家の命令を、民の言葉で成り立つ法に翻訳してきた。王族が『こう書け』と命じる仕事は、受けない。それは翻訳じゃない。転写だ」


 カイルは何も言わなかった。


 ミレナは紙の上の四語をもう一度見てから、カイルの顔を見た。


 「——でも、あんたはあの人の仕事を引き継いでるだけなのは知ってる」


 あの人。——オルデンの名前は出なかった。しかしこの部屋の中で「あの人」が誰を指すかは、二人の間で一つしかなかった。


 「わたしにできるのは、書くことだけです」


 その一文の末尾だけが、代書屋の砕けた口調から、少しだけ離れていた。下市街の机ではなく、大書庫の机の方から、一瞬だけ届いた末尾だった。





 ミレナが帰った後、カイルはしばらく応接室に残っていた。


 椅子の革が、まだ少しだけ温かかった。代書屋のインクの匂いが、空気の中に薄く残っていた。


 「あんたはあの人の仕事を引き継いでるだけ」——その一文が、遺書の言葉より軽く、遺書の言葉より近い場所から届いていた。死者の字ではなく、生きている人間の声で、オルデンの名前が呼ばれた。呼ばれた場所は、宰相府の応接室ではなく、下市街の代書屋の机の上だった。


 カイルは紙を畳み直して、胸の内側に入れた。——三百年前の骨組みと、二年前の遺書と、今日の代書屋の一文が、同じ紙の上に載った。





 その日の夕刻、ロランは書記官の控室を一度だけ抜け出して、下市街の代書屋の角まで足を運んだ。名乗るつもりはなかった。ミレナの机の上の紙の束を、扉の外から目だけで確かめて、帰る、と自分に言い聞かせていた。——しかしミレナはすでに紙から顔を上げていた。扉の框に映ったロランの丸い影を、代書屋の机の上の気配として捉えていた。


 「あんた、午後の応接室で壁際にいた人」


 「——はい」


 「入りなさい。茶は出ないけど」


 ロランは一度だけ履物を鳴らして、机の前の椅子に座った。ミレナは机の上の束の一番下から一枚を引き抜いた。——「作り直した椅子は、誰のものか」と、二度下手な字で書かれた紙だった。ロランはその紙を、声に出さずに二度読んだ。読み終わった時、自分の帳面の頁を一枚、ミレナの机の方に滑らせた。「届かない家々」の列だった。


 同じ通りを、別の側から見ている二枚の紙だった。ロランは頁を閉じなかった。ミレナも紙を仕舞わなかった。しばらく、二つの紙は代書屋の机の上に並んだままだった。


 「明日から、七語の下に、一行ずつ書きます」


 ミレナの声は、代書屋の声のままだった。


 「書けるだけ書く。書けない行は、空けておく。空いた行は、あんたが持ち帰って、次の会議で話す」


 「はい」


 ロランは、自分の声が少しだけ低くなっているのに気づいた。冬の応接室の声とは違う声だった。——下市街の机の上でだけ出る声だった。





 冬の窓の外で、宰相府の塔の旗が、北風に引かれて鳴っていた。

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