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第28話 不完全な夜明け

独立の日は、七年前と同じ霧で始まった。


 カイルが自室の窓を開けた時、高原を覆う白い霧が、王宮の塔の足元まで這い上がってきていた。七年前、レガリオン軍が初めてこの国に入ってきた日——あの朝も、こんな霧だった。カイルはその時、六十五歳になったばかりの末王子で、域外民政局から王宮に戻ったばかりだった。降伏条件の内容も知らず、ただ窓から霧を見ていた。


 七年が経った。カイルは七十二歳になっていた。竜人族の中では、まだ「若い成人」と呼ばれる年齢だった。体はまだ成長途上で、角もこれから伸びる可能性があった。


 霧の向こう、下市街の工房街の煙突が見えた。いつもなら昼夜の区別なく何本も立ち上っていた煙が、今朝は細く、本数も少なかった。タルシス紛争の決着が近づき、この半月ほどで特需の発注は日ごとに減っていた。独立と、特需の終わり——二つが、ほぼ同じ歩みで、この朝に向かっていた。


 カイルは角の布を巻き直した。





 朝、監督府の前に、多くの人が集まっていた。


 竜人族と、人間族の兵士たち。独立の宣言の後、監督府は今日を以て正式に閉鎖される。レガリオン軍の大部分は本国に戻り、一部だけが条約で認められた基地に残る。アルマン執政官は今日、最後の務めを果たして本国に帰る。


 カイルは宰相府を出て、監督府に向かった。アルマンに別れを告げるためだった。


 監督府の灰色の煉瓦の建物は、七年前と同じ姿だった。しかし、屋根の上の旗竿から、レガリオンの紋章の旗は既に降ろされていた。替わりに、まだ何も掲げられていなかった。これから、独立したアストラードの新しい旗が掲げられる予定だった。設計はまだ決まっていない。七年間、旗を掲げることのなかった国が、これから旗をどうするか、話し合いはこれから始まる。


 アルマンが玄関に立っていた。


 軍服。七年前と同じ、がっしりとした体格。胸の勲章。しかし、顔は七年分、年老いていた。日焼けはそのままだったが、口髭の白髪が増えていた。


 カイルが近づいた。


「——若い王子」


 アルマンが笑った。いつもの呼び方。七年間、変わらなかった呼び方。


「——執政官閣下」


「君とこの場所で話すのも、最後になるな」


 アルマンは周囲を見回した。監督府の玄関。正面に広がる上市街の石畳。遠くの光の谷。七年間、毎日のように見てきた風景。


「——君たちの国は、変わった。良い方向に」


 アルマンが言った。穏やかな声。


 カイルは答えられなかった。アルマンの言葉は、半分は正しく、半分は間違っていた。国は変わった。しかし、「良い方向に」と呼べるかどうかは、誰が見るかで変わる。アルマンが見ている「変化」と、オルデンが設計した「変化」と、下市街の民衆が感じている「変化」は、同じではなかった。


 しかし、カイルはアルマンの言葉を否定しなかった。否定する言葉を持っていなかった。


「——ありがとうございます、執政官閣下」


「——若い王子」


 アルマンが少し身を屈めた。カイルの角を見た。布に巻かれたままの角。


「最後に、君の角を見せてくれないか。——君の角を、一度も見ずに去るのは、寂しい」


 カイルは迷った。


 しかし、迷いの向こうで、手が動いた。布を解いた。布の下の角が、霧の光の中に現れた。


 カイルの角は、王族の中で最も貧相だった。小さく、捻れていて、まだ若い角の粗い肌理を残していた。レイグの角のような力強さも、セルヴァンの角のような左右対称の美しさもなかった。兄たちの角と並べば、明らかに見劣りのする角だった。


 アルマンは、その角を見つめた。


 長い間、見つめていた。


 それから、小さく頷いた。


「——見事な角だ」


 カイルは息を止めた。


「アルマン閣下、私の角は——」


「——若い王子。角の美しさは、大きさや形ではない。私は、君たちの文化を理解していない軍人だ。しかし、七年間、君たちの国を見てきて、一つだけ分かったことがある。——角の形は、その竜人の人生の形だ。君の角は、君の人生の形をしている。見事でないはずがない」


 アルマンが頭を下げた。カイルも頭を下げた。


「——元気でな、若い王子」


 アルマンは振り返らずに去った。馬車の方へ向かった。歩く姿勢は、七年前と同じ軍人の姿勢だった。しかし、歩幅が少しだけ短くなっていた。


 カイルは角に布を巻き直した。


 そして、気づいた。——アルマンは最後まで、自分の報告書がオルデンの交渉の武器になったことを知らなかった。自分の善意が、どう利用されたかを知らないまま、満足して去っていった。それが、アルマンの幸福だったのかもしれない。あるいは、アルマンの最大の悲劇だったのかもしれない。カイルには、どちらとも判断できなかった。





 監督府を離れてから、カイルは下市街に向かった。


 バルトの工房まで、石畳の坂を下りた。工房街の奥の路地に入った。バルトの家——いや、工房——の扉は、開いていた。中から、石を打つ音がしていた。


 カイルが入り口に立った。バルトは奥で、石を削っていた。振り返らなかった。振り返らずに言った。


「——終わったな」


「……はい」


 バルトは手を止めなかった。石の粉が、バルトの服と髪に積もっていた。繕われた作業着は、七年前の魔法兵団長の軍服とは、何の共通点もなかった。


「独立したそうだな」


「……はい」


「軍事同盟と引き換えの独立だ。——俺たちの完全独立案は、どこにも通らなかった」


「……はい」


 バルトは石を一つ削り上げた。形を整えた。それから、カイルに背を向けたまま言った。


「——お前は宰相殿と、上手くやっている」


「……はい」


「俺はお前のように器用じゃねえ。これからも不器用に生きる」


「……はい」


 会話はそれだけだった。バルトは振り返らなかった。


 カイルが立ち去ろうとした時、奥の部屋から子供が走ってきた。バルトの娘。十五歳——人間で言えば五、六歳ほどの少女。手に、小さな布の包みを持っていた。


 カイルの前で止まった。


「——これ」


 少女がカイルに包みを差し出した。


「お父さんが、お前に渡せって」


 カイルは包みを受け取った。小さかった。軽かった。


「……何だろう」


「干し果物。おうちで採れたやつ」


 少女が言った。少女の角は、まだ小さく、白い産毛のような細い筋だけがあった。これから伸びていく角だった。


 カイルは少女の頭に手を置いた。レイグの癖。無意識だった。置いてから、自分がレイグの癖を真似していることに気づいた。


 少女は笑った。少女は振り返って、バルトの方に走っていった。バルトは振り返らずに石を削っていた。しかし、石を打つ音のリズムが、少しだけ緩やかになっていた。


 カイルは工房を出た。


 包みを開けた。中に、干した果実が数個。王族が日常で食べるものではなかった。平民の家庭で、子供のおやつになる程度の、安価な保存食。


 カイルは一つ口に入れた。甘みと酸味。しかし、それだけではなかった。——石の粉の、微かな匂いが混じっていた。バルトの工房で、バルトの家で、バルトの娘が包んだ果実。


 カイルはもう一つを食べなかった。残りは、懐に仕舞った。家に持ち帰って、リーネと分けて食べようと思った。





 宰相府に戻った時、カイルはまっすぐにトーヴァの書庫に向かった。


 トーヴァは、棚の整理をしていた。七年分の書類を整理し直していた。独立後、宰相府の書類の分類を変更する必要があった。レガリオン占領期の書類と、独立後の書類を分けるため。


「——殿下」


 トーヴァがカイルを見た。


 カイルは立ち止まった。書庫の入り口で、長い間、動かなかった。トーヴァは手を止めて、待っていた。


「……ヨアンさんの話を、また聞かせてください」


 カイルは言った。声は小さかった。


 トーヴァは少しの間、カイルを見た。それから、頷いた。


「——ええ。いつでも」


 それだけだった。


 しかし、その「いつでも」の中に、三年分の重さがあった。査察団の到着前夜、書庫で安定報告書を仕上げながら、トーヴァが初めてヨアンの名前を声に出した夜。あの夜、カイルはヨアンの名前を記憶した。「記録に載らない名前を、記憶する」という約束を、自分の中で結んだ。三年以上、その約束は有効だった。そして今日、独立の朝、カイルはその約束を更新した。


 トーヴァは棚の整理に戻った。カイルは書庫を出た。


 書庫の扉を閉めながら、カイルは気づいた。——トーヴァは、ヨアンの話を急いで話そうとはしなかった。「いつでも」と答えた。急がない約束が、急がないまま、続いていく。それが、カイルにとって、一番ありがたい形だった。





 夕方、オルデンの執務室に戻った。


 オルデンは茶を淹れていた。二つの茶碗に。昨日と同じ、一昨日と同じ、そしてこれからも同じ習慣になる動作。湯気が立った。オルデンが茶碗をカイルの前に置いた。


 カイルは茶碗を両手で包んだ。


「——おめでとうございます、宰相閣下」


 オルデンは答えなかった。茶を一口飲んだ。


「……これからだ」


 それだけ。


 しかしカイルは、その「これからだ」の中に、オルデンの意思の全てを感じた。独立は終着点ではない。始まりでもない。ただ、次の段階への入り口だった。次の段階は、占領よりも複雑かもしれない。経済成長、国際関係の再構築、国内の各派閥の調整、密輸の証拠の扱い、そして——副室長の派閥との長期的な関係。どれ一つ、単純ではなかった。


 オルデンはもう一度茶を飲んだ。今度は、手が止まらなかった。しかしカイルは覚えていた。昨日の、あの一瞬の停止。七年間の重さが、一瞬だけ表に出た瞬間。オルデンはもう若くはなかった。百七十代後半。竜人族としては壮年の後期に入る年齢。これから先、オルデンがあと何年、この国の舵を取れるか、カイルには分からなかった。分からないが、予感だけはあった。——この人は、いつか、私に何かを託して、静かに退く日が来る。


 その予感を、カイルは記録に書かなかった。胸の奥にしまっていた。





 夜、王宮の自室に戻ると、リーネが扉の前で待っていた。


 角の布を外していた。リーネの角は、末妹らしい細く優美な形で、金色の筋が美しく走っていた。七年間、布に巻かれていた角が、今夜、初めて剥き出しになっていた。


「カイル兄」


 リーネが笑った。


「カイル兄も、外していいんだよ」


 カイルは扉の前で止まった。


 リーネは無邪気な目でカイルを見ていた。末妹の視点では、「独立したのだから、角は隠さなくていい」というのは、当然の結論だった。論理的に正しかった。


 カイルは角の布に手をかけた。


 解こうとした。


 ——解けなかった。


 指が、布の結び目の手前で止まった。動かなかった。


「……リーネ」


 カイルは小さく微笑んだ。微笑みは、うまくできなかった。


「……俺は、まだだ」


「……まだ?」


「——うん。もう少し、このままにしておく」


「——どうして?」


 リーネの目に、少し不安の色が浮かんだ。


 カイルはリーネの頭に手を置いた。レイグの癖。今日は、意識してその癖を使った。


「——うまく言えないんだ。しかし、俺には、外す資格がまだない。もう少し、このままで、自分の中で整理したい」


「——カイル兄は、独立したのに、誇りを持っちゃいけないの?」


 リーネの言葉は、カイルの胸の奥を突いた。


 誇りを持ってはいけないわけではなかった。しかし、カイルの中には、誇りを名乗るための、まだ越えていない一歩があった。——域外民政局での過去。徴用命令書に押した印。レイグの訃報を受けた夜、カイルが何をしていたか。バルトに会う時、バルトがカイルを「小僧」と呼ぶ時、二人の間にある「あの場所」の沈黙。


 全て、誰にも語っていなかった。語る資格をまだ、持っていなかった。語れないまま、角だけを晒すことは、カイルには許されないことのように感じた。


「——リーネ。俺は、誇りを持ってはいけないわけじゃない。ただ、俺にとっての誇りは、まだ少し、遠いところにあるんだ。それが近づいてきた時に、布を外す。——今夜は、まだ、その時じゃない」


 リーネは少しの間、カイルを見た。


 それから、頷いた。


「——うん。分かった」


 リーネは笑った。今度は、完全な笑いだった。


「——でもね、カイル兄。兄にとっての誇りが近づいてきたら、教えて。その時は、私が布を外すの手伝う」


 カイルは頷いた。


「——頼む」


 リーネは階段を下りていった。末妹の足音が、廊下の向こうに消えた。





 自室に入り、机に向かった。


 机の上には、今日もペンと、記録の綴じ本が置かれていた。「閣下に提出する記録」と、「閣下に提出しない記録」の二冊。カイルはまず、閣下に提出する記録に、今日の出来事を書いた。独立の宣言。アルマンとの別れ。調印式の様子。オルデンとの茶。


 それから、もう一冊——「閣下に提出しない記録」を開いた。


 新しい頁に、数行を書いた。


 「七年の占領が終わった」


 「これは終わりではない」


 「始まりですらない」


 「始まりの終わりだ」


 ペンを置いた。


 書いた言葉を、もう一度読んだ。


 「始まりの終わり」——それが何を意味するのか、カイルにはまだ完全には分かっていなかった。占領期という一つの時代が終わった。しかし、次の時代は、まだ始まっていなかった。独立は、宣言されただけで、国の形としてはまだ確立していなかった。経済、政治、国際関係、国内の各派閥——全てがこれから組み立て直される必要があった。オルデンは「これからだ」と言った。カイルも、同じ言葉を胸の中で繰り返した。


 「これから」。


 しかし、「これから」の前に、一つだけ終わったものがあった。


 七年前、イルヴァンの処刑の朝から始まった、カイルの「記録する者」としての七年間。その七年間は、今夜、終わった。明日から、カイルは何者になるのか——まだ分からなかった。分からないまま、次の朝を迎えることになる。


 カイルはペンを置いて、窓の外を見た。


 光の谷が光っていた。七年前と同じ光。しかし、今夜は、その光を見ているカイルが、七年前の自分ではなかった。その事実だけが、カイルには確かなことだった。


 窓の外で、高原の風が、石の壁を撫でていた。


 遠くで、工房街の鎚の音が、かすかに聞こえていた。夜でも、職人たちは働いていた。独立の夜でも、彼らの鎚は止まらなかった。止まらない鎚の音が、カイルの耳の奥で、低く響いていた。


 ——これからだ。


 カイルは胸の中で、もう一度、その言葉を繰り返した。


 角に巻かれた布は、まだ解けていなかった。解けないまま、カイルは七年目の夜を終えた。





 (第一章 完)

【豆知識:沈黙の記録者】


カイルが毎夜書き続ける「記録」——それは単なる日記ではなく、起こった事実を正確な順番で紙に固定する作業です。感情は書かず、解釈も加えず、「何時に誰が何を言い、誰がどこに立っていたか」だけを、同じ書式で何年分も積み上げていきます。

彼の記録帳にはもう一つ欄が作られています。「閣下に提出しない記録」——書いたら判断が生じてしまう事柄を仕分ける場所です。記録という行為そのものが、占領下の末弟が生き延びるために選んだ防衛手段でした。



第一章「占領」完結です! ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

屈辱と忍耐の時代は終わり、明日からはいよいよ第二章(反撃と再建のフェーズ)へ突入します。カイルたちの本当の戦いはここからです。

もし「第一章面白かった!」「第二章も読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひページ下の【★】を最大まで押して応援していただけると、作者のモチベーションが限界突破します! 引き続きよろしくお願いいたします!

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