巡る季節
春の夜風が緩やかに吹き抜ける、静かなひと時。明日から大学四年生になるけれど、がらりと何かが変わるわけでもなくて。図書館で借りていた本をまだ読み終えていないことに気付いて、そっと栞を挟んであるページを開く。美幸に薦められたミステリーは、クライマックスを残すばかりだ。
「わっ!」
突然、机から小さな振動を感じる。続いて、音楽が流れ出す。それが携帯の着信音だと分かった時には、心臓がビクンと飛び跳ねていた。
「もしもしっ」
「もしもし。こんばんは」
久しぶりに聞いた彼の声は、相変わらず穏やかだった。
「こっ、こんばんは……」
私も、相変わらず電話で話すことに慣れていない。
「今、時間、大丈夫?」
「はいっ」
「よかった。何してたの?」
「本、読んでました」
「そうなんだ」
彼が柔らかく笑っているのが、目の前にいなくても分かる。
「あのっ……ご用件は?」
「用件? あるけど。……駄目なの?」
「え?」
「用事がないと、君に電話しちゃ駄目?」
「いえっ!そんなことはっ!そういうつもりじゃ……」
クスクスと、電話の向こうから笑い声が聞こえてくる。
「ごめん。今のは、僕がいじわるだった」
「……っ」
何気ない会話で、いちいち胸がドキドキしてしまう。
「それで、用件だけどさ」
彼が、軽く咳払いをする。
「今週末、そっちに行こうと思うんだ。いいかな?」
「そうなんですか? 何しに?」
机の端に避けていた栞に手を伸ばす。
「何って……」
栞を挟んで、本を静かに閉じる。
「まだ市役所の手続きとか、あるんですか?」
空いている方の手で、本を持ち上げる。
「それ、本気で言ってる? よね、君は」
「え?」
フーッと、小さく息を吐く音が聞こえる。
「……君、自覚ある? 僕の、彼女の」
バサッ。
手に持っていた本が、先に落ちる。
「えーっ!?」
今度は、携帯まで手から滑り落ちそうになる。
「なんで、そんなに驚くかな」
彼が笑いをこらえているような口調になる。
「いやっ! だって……」
「だって?」
「だって……何、でしょう……」
あははっ、と高らかな笑い声が響く。
「すみませんっ!」
顔が一気に赤くなる。
「いいよ。許してあげる、君らしいから」
彼の穏やかな声に、そっと胸を撫で下ろす。
「とにかく。僕は君に会う為に、そっちに行くよ。都合はどうかな?」
「だっ、大丈夫ですっ!」
「なら、よかった。じゃあ、また週末に」
「はい」
「桜、まだ間に合うかな」
「たぶん、大丈夫だと思います」
「そうだね。今年も、君と見れるのが嬉しいよ」
「わっ、私もです」
和やかな沈黙が、彼と私の間を繋いでいく。本からこぼれ落ちてしまった栞を、月明かりが優しく包み込む。
「じゃあ、週末ね。楽しみにしてる」
「はい」
電話が終わっても、しばらくは携帯から耳を離さなかった。彼の声が、まだそこから響いてきそうで。ぬくもりが、まだ残っていそうで。
ようやく携帯を閉じても、今度は窓の外を見る。遠く離れていても。優しい夜風が、彼のあの温かい熱を運んできてくれそうで。
週末。外に出てみると、暖かい風が私のスカートをふわりと揺らす。いつもの道を、春の柔らかい日差しが照らしている。
天守閣へ続く坂道はやっぱり体力がいるけれど、追い風が少しだけ力を貸してくれる。
坂を登りきると、桜よりも先に彼を探し始める。
……あれ、いない。
不安の波が、一気に押し寄せる。
時間、間違えた? それとも、日にち? まさか、何かあったのかな。
震える手で、携帯を開く。その途端、急な風が、桜の花びらを舞い上がらせる。
「あの」
声をかけられて、後ろを振り向く。
「そのストラップ、どこで買ったの? 僕も色違い、持ってるんだ……なんてね」
「……っ」
彼の姿を見た瞬間、彼を突き飛ばしそうな勢いで抱きつく。
「会いたかった、ですっ」
「僕も。待たせてごめんね」
彼がゆっくりと頭を撫でる。
あの日。満開の桜が運んできてくれた出会いは。こんなに素敵な恋になって、咲き誇っています。
私たちを見守る晴れ渡った空に、心の中でそっと語りかけた。




