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4.4.2.女の遺体

 ソアラは顔の潰れた女の死体を鬼気迫る表情で、両目を裂けるほどに見開いて、アライソが怯むほどの気迫を放って見詰めていた。その様子は余りにも真剣であり周囲も最早見えていなかった。彼女の意識はただ目の前の死体と自らの内面にのみ没入していた。


 その唇が戦慄(わなな)いて、言葉のようなものを紡ぎ始めた。


ソア「こいつ、この女じゃ。この女には見覚えがある」


 一つ大きく息を吸い、


ソア「そうじゃ、この女じゃ。おお、深い暗い記憶の陰から浮かび上がり、我の後ろをついて来た、我を追い、追い着こうと迫って来た、我と共に歩んでいたのは、この女じゃ。


 この女。思い出したぞ、この女。この顔を見て。


 こいつ、この女は。


 愚かな女じゃ。このように死んでおる。


 こいつ、この女。


 我が西岸から離れる前に、この女は死んだのじゃ。我をここから逃がそうとして。


 愚かな女じゃ。我をここから逃がそうとして、そしてこの様。死におった!」


 深沈とした静寂が流れた。真空のような空間をアライソは彼女の元へ一歩、一歩と歩み寄った。


アラ「ソアラ、将軍……?」


 話し掛けるつもりはなかったが、自然とそのような声が口を突いて出た。彼女は振り返るでもなく微動だにせず女の死体に被さっていた。


ソア「おう。そうじゃ。ソアラ将軍じゃ。我を呼んで何とするのか。この女が。馬鹿なのじゃ。死んでしまった、


 この女は。


 あの日、龍()が襲い来たったあの日の夕暮れ、鎮西軍は既に東軍からの報を受け、彼奴(きゃつ)らのような侵略を企む不逞(ふてい)(やから)が来やらんとも覚えており、備えは万全の状態にあった。従って龍奴の姿がいざ西の海の果てに現れようとも狼狽(うろた)えることなど微塵もなく、むしろ遂に来たったと奮い立った。


 だが問題は城仕えの従者達じゃ。彼らは兵士ではない。戦闘の訓練など受けておらん。東軍からの書状により、城が落ちるのは覚悟していた。それで兵らはまずは従者達を逃がそうとした。その準備も整えてある。将軍職たる我は自ら采を振るい、彼らを速やかに脱出させようとした。


 しかし想定外であったのは、龍奴の侵攻が余りにも速かったことじゃ。水平線にあの姿を捉えてから岸辺に接するまでは距離からすれば一瞬と言っても良いくらいだった。


 従者がまだ逃げ切りもしない内に彼奴の攻城は始まった。茜の空を乱して暗雲を浮かべ、荒れ狂う風を呼び寄せた。


 外からは早くも兵達の(とき)の声が湧き上がり、それを掻き消すような暴風の音が鳴り響いた。瞬時の静寂が走ったかと思うと雷鳴が(とどろ)き渡った。そしてそれは城を撃っているのだろう、城壁は震え、従者の向かう行方には遮るように砂塵が舞う。


 遂には梁が砕かれたか、壁が割れて天井は落ちる。崩落、倒壊、荒れる城内を従者達は逃げて行く。兵士達は一心不乱に誘導し。戦場から轟き来たる音声に速くその場へ向かわなければと焦りつつ、ソアラは彼らの指揮を執る。


 龍奴の攻城の激しさは愈々(いよいよ)増して行くようじゃ。音も、震えも。彼奴と対している兵らも持ち堪えていられないのだろうか、周りの景色は壁紙が剥がれるように崩れて行く。


 従者の脱出は城の崩壊から間に合うか、間に合わないか。必死になって駈けて行く彼らの背中は。いや、どうにか間に合った! 最後尾の一人が城門から走り出たのと城の瓦解は同時であった。


 草原を彼方へ逃げて行く従者達の姿を眺めやり、そして我は振り返った。今このソアラの立つ城門こそ形を成しているが、優美を誇っていた我らが城塞は既に瓦礫の山となっている。その小山の上であの憎々しい龍奴は尾を打ち振るい暴れ回って礫石(れきせき)を飛ばす。


 周囲には槍持つ兵も三々五々と集っているが、彼奴と対峙していた兵達は一体どうなってしまったか。潰れた城の下敷きか。憎らしい。恨めしい。しかし彼らは民たる従者らを逃がす時間を稼いだのだ。神兵の役割は見事果たした。素晴らしい死に様であった。誇りに思う。


 それから瓦礫の散り交う城跡で第二戦が始まった。今度は我も奴に向かう。両の袖から羂索(けんさく)を伸ばし、他の兵らは各々の得物(えもの)をその手にして。怒涛のように龍を襲った。


 確かに城こそ壊されたとはいうものの、こうした散開戦こそ西軍の得意とするもの。如何(いか)で暴力を放つ龍とは(いえど)も我らの攻撃はそう易々とは受け切れまい。


 一見、我らが押せているいるように見えた。だが、ああ、あの龍奴は何たること。彼奴は攻め立てられているように見えて、実は我らの様子を眺めていただけなのだ。


 反撃が始まった。奴の尾の一振り、怒号の一声、ただそれだけで兵士達は一纏めに吹き飛ばされて行く。兵士達の決死の突撃も何の意味も持たないのか。


 敗北か。


 否! たとえ我らが散り果てようとも、この西岸から先には行かせないぞ! たとえ我らが壊滅しようが、民の住む処へは行かせない! 我らの(かばね)が路傍の石と()り果てようとも敵はこの場に食い止める!


 我が羂索は()り合わされて縄となり、縄を編んで網とする。その網で龍を捕らえた! が、引き千切られて暴れ狂う。


 しかしよい。一瞬たろうと奴の動きは封じられる。その一瞬に攻撃し、その一瞬を積み重ねて行けばよい。勝機はそれじゃ!


 我は何度も羂索を飛ばし、奴の足をば(から)め捕る。振り払うための瞬時の隙。そこへ打撃を何度も加える。


 それをどれだけ繰り返したか。龍奴は疲弊を未だ知らぬ。しかし延々とそれを続ければ、いずれは決定打も与えられよう。


 だが、ああ、何たることか。龍奴の暴れ狂った尾の一振りが、城門近くの壁を砕いた。そこには、ああ、壁の陰には一人の侍女が隠れておったのじゃ。怪我でもしたのか、突然の襲来に混乱したのか、逃げ遅れた女が一人、隠れておった……! 可哀想に恐怖に震え。足腰も立たぬようじゃった。


 ここに居ては四方へ飛び散る龍奴の暴力にいつ巻き込まれるか知れはしない。


 兵ならぬ者がこの場に取り残されているのを見て我は焦った。兵ではない者を死なせてはならぬ。


 そして更に悪いことには、龍奴は首を巡らせて、侍女の姿をはっきりと見た! 侍女は(おのの)く両目を見開いて、龍を見ていた。両者の視線が咬み合った!


 すぐさま我は彼女の元へと駈けた。視界の端では龍奴がゆっくりと口を広げて行きつつあった。侍女はと言えば自失して、気力も抜けて最早(もはや)戦慄(わなな)きすらもしていない。


 そうして侍女まで後七歩、六歩、そこまで来てからようやく彼女の顔が意識に映った。それまではただ民としてしか見ていなかった。そして初めて見た彼女の顔は。


 木偶(でく)のようにただ(うずくま)るのみの彼女とは、我そのものであったのだ。我がそこにへたり込んでいた。侍女たる我が、龍奴の暴力に吹き散らされるのを待っていた」


 一息吐き、


ソア「愚かな女よ」


 遺体を見詰める目の輝きが一層に増し、


ソア「この女は我のために死におったのだ」


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