4.3.9.見えるもの
人は罪を犯しながら生きて行く。生きて行くにはそれは仕方のないことだ。その点だけで言えば人も魔物も同じものだ。しかし、魔物の内には神はいない。人間の心には神がいる。その差によって、人間と魔物は別のものになる。
アラ「魔物などではない」
左目に大太刀を納めた後にも彼の手には魔物の殻皮を切った感覚が残っていた。
アラ「私は人間だ」
室内は壁も床も黒焦げていたが、窓から入り込む風によって煙も塵も吹き流されて蕭然とし、深沈と静まり返っていた。清らかに晴れ渡った空間はアライソの心中と同様だった。窓からは茜色の空が覗いていた。
朱色に輝く空を心静かに眺めていると、静寂を破る足音が響いた。
その方へ振り向いたと同時、階段の口からソアラが跳び上がって来た。それまでと同じく襟元をはだけて、両手に羂索の束を握りつつ。
ソア「おう! 卍蓋の外の音は止んで開いて見れば外殻は動かず倒れていた。さてはと思い、ここまで追って来たのだが、アライソ、貴様、貴様の首尾はどうなった!」
落ち着いた声音で答えた。
アラ「魔物は討ち果たしました」
ソア「よし、よくやった!」
アラ「殻は粉々に砕け散って風に流され、粘液も乾いて砕け、散りました」
ソア「終わったな。しかし彼奴め、よくも我らを追わせおって。西へと急がねばならぬのに」
アラ「ええ」
と、二人は窓辺へ歩み寄った。夕陽の浮かぶ西方の窓だった。
ソア「しかし追わされたとは言え、彼奴の向かった先がこちらであったのはまだマシか。西の果てはもう近い。その窓からも西の海が見えるはずじゃ」
言われてアライソは窓枠に手を掛け、外を眺めた。が、視界に映ったものを見て言葉を失った。思わず手に力が入った。目は離せずに、ただただ見入るばかりであった。驚愕と焦燥に汗が滴った。
アラ「あれは……。あれが!」
隣で屹然として風景を睨んでいるソアラが鼻を鳴らして吐き捨てた。
ソア「あれが、あれだ。忌々しくも」
西の果ての海岸が見えた。その向こうの海原の上空には分厚く黒い群雲が広がって、うねり乱れていた。暴風が吹き荒れているのだろう、忙しなく形を変えていた。千切れて飛び立つ端切れもあった。
その黒雲の一点が台風の目のように渦を巻いていた。そこが雲の中心、風の源だとすぐに察した。その渦の真下には、そこには真白い色をして、うねうねと細長い、鱗を雨に濡らして光らせる、この距離からでもはっきり見える、巨大な龍が暴れていた。海面は龍の尾に叩かれて荒波を上げた。
乱雲はその龍に率いられていた。龍の動きに合わせて乱れ、蠢き、風が吹き荒れていた。
アラ「龍がこの地に!」
ソア「そうだ。書状にあった悪龍がここにも来おった。西軍は持ち堪えているが。ええ! 忌々しい!」
アラ「違います! あれは東方を襲ったものではありません! 東方の龍は青い……」
ソア「何を?」
アラ「そして南方の赤い龍ともまた違う」
ソア「何を! 南も!」
アラ「そうです。私はそのために来たのです。東方のみならず南方までも龍に襲われ、鎮南軍は壊滅したと。そしてそれらを襲ったのは別の個体であったのだと。青い龍と赤い龍、侵略するものは少なくとも二頭いる」
ソア「そしてあの龍は白い……。では三頭か。いや、南軍は滅びて南方はどうなった! 民草は無事か!」
アラ「ええ、それについては。私が南方へ行った時にはいませんでした。着いた時には既に立ち去り、その報せを聞いたのです。そして南軍の方と話し合い、私がこちらへの伝令の任を受けました」
ソア「何故それを早く言わん! いや言ったところで同じことか。我らも襲われ救援には向かえん。こちらは持ち堪えているとは言っても手一杯じゃ。他方へ回せる兵はおらん」
アラ「こちらもこうなっているとは知らず。他の兵の方々のいる所で話そうと」
ソア「まあ良いわ。我に何かを言える筋合はない」
二人の見詰める西の先では変わらず龍が海原を荒らしていた。アライソは動揺もし焦燥もしていたが、しかしソアラは既に知っていたこととはいえ妙に落ち着き払っていた。自分の部下であるはずの兵を急ぎ助けに行こうともしない。静かに凪ぎ渡った眼差しで海の様子を眺めていた。
その目の色に気が付いた時、アライソの脳裏にはそもそもの疑問が浮かび上がった。
アラ「ソアラ将軍。龍は今でもあの地を襲っています。これまでの話からするに、貴女が西岸にいた時にも襲っていたはず。それなのに何故、貴女は戦場を離れて私と出会った辺りを彷徨っていたのですか」
やや深沈とした声音のその質問に、ソアラはつまらなそうに鼻を鳴らして素っ気なく答えた。
ソア「それは我が逃げたからじゃ」
アラ「逃げたとは」
ソア「言葉の通りじゃ。我はあの龍から逃げておった。死にたくはないからの」
余りにも当たり前だというような口振りにアライソは衝撃を受けた。
アラ「将軍、何を」
ソア「変なことは言っておらんが? 誰でも死にたくはないであろう?」
アラ「しかし! 将軍はこれまで人々を守ろうと、必死で、魔物と戦っていたではありませんか」
ソア「そうじゃな。民を守るのが兵の役目じゃからな」
アラ「では何故! あの龍が暴れ回れば人々にも被害が出るのは分かるはず。それなのにどうして逃げたのですか!」
ソア「あの場にいたら我も死ぬ」
返す言葉がなかった。それにこれまでの彼女の戦いを見ていた彼にはそれが本心だとは思えなかった。はっと気が付き、叫ぶようにして言った。
アラ「しかし! 貴女は私と一緒に西方へ行こうとしていました。龍がいるのにも関わらず」
それに対する答えは淡々としていた。
ソア「貴様が行きたいと言ったからの。連れて行って貴様を置いたらまた直ぐに逃げ帰るつもりであった」
アラ「しかし、しかし! 貴女は神兵の務めをしばしば口にし、自分が将軍であることにも誇りを持っていたではありませんか。そんな貴女が逃げるなど」
ソアラは彼を一顧だにせず、じっと西の海を眺めていた。無言であった。
アライソはそんな彼女の横顔を縋るように見詰めていた。冷淡そのものであった彼女の目が、大きく見張られた。そして驚きの調子の混じった声を出し、アライソに見ている先を指し示した。
ソア「おい、アライソ、見ろ! 龍が、様子が変だとも思っていたが、立ち去って行く! 黒雲と共に陸地からどんどん離れて行き、白い背を向けて最早岸辺を振り返りもせん! 汀の波も治まったようじゃ。大海原の向こうへ、向こうへ。背も雲も小さく向こうへ消えて行く。立ち去るのか? 奴は岸辺を荒らすだけで満足したのか? 上陸せずに立ち去るというのか? 東方や南方と同じように」
言われて再び視線を送ったアライソの目にも様子が見えた。龍は白い糸のように細くなり、黒雲も海に紛れる一個の点となっていた。そしてそれらは水平線に挟まれて、その彼方へと消え去った。
あれらの龍は、やはり、岸を荒らして兵を殺してそれで良しとするのだろうか。いずれにしても、話の上だけではない、ついに目でも見た白い龍はアライソの視界から消え去った。
ソア「ちょうど良いわ! 西の果てまでもう直ぐじゃ。あれがいないなら安全じゃ。アライソ、貴様を西の果てまで連れて行ってやるぞ!」
意気揚々と語られるその言葉にはどこか虚しさが混じっていた。
アラ「あれが龍」
ついに目にした龍の姿が思考の中を去来しつつもアライソは、ソアラに促されるまま窓辺から離れて階段へと足早に向かった。




