4.2.5.地下世界
その懸念は当たっていた。事実として既に温和であるはずの蝙蝠に襲われていた。それらとて神界の生物である以上は穏やかで人に向かって来るはすがない。にも関わらずそれらが敵意を持って向かって来たというのは、洞窟内を這い行く胚の発する瘴気の悪影響を受けた結果であった。
満ちる瘴気は洞窟内の生き物を冒していた。
ソア「あまり、よくない。本来ならばここの動物達も害のない生き物じゃ。捨て置き瘴気が抜けるのを待てば良い。じゃが、我らに向かい来るのであれば戦わねばならん。非力と言えど数はいる。あれとの決着を付ける前に消耗してはことじゃ」
言う通りだった。アライソは神薬のお陰で擦り傷一つ負ってはいなかったが、何度かぶつかられており、もしも薬がなかったら切り傷くらいは出来ていただろう。その傷口から瘴気が入ればどうなっていたか知れない。
ソアラに至っては特別な加護など何もない。だから一層用心し、肌には一切触れさせないようにしていたものの、それでも着物には所々にぶつかられた土の跡があり、掠れた箇所も出来ていた。
しかし蝙蝠だけであったらどれだけ楽であっただろうか。アライソは見知らぬ鳥が蝙蝠に交じっていたのを見た。
ソア「善知鳥じゃな。あれも地上であれば愛らしい鳥であるというのに」
ここでは肉を啄ばみ血を啜る忌まわしい魔鳥と化していた。冥府に飛び交い腐肉を漁る。悍ましく不吉な生き物となった。
鋼の翼はソアラの袂を切り裂いて、銅の嘴は防ぐ鉄扇と金音を立てた。アライソは肉体の優位性から危険に晒されることはなかったが、それでも攻撃的なこの鳥に無数に集られるのは手間だった。
暗闇であるからには片手は松明で塞がって、狭い場所では大太刀も使えず、ソアラに関しては袖から武器を取り出すのにも一苦労で、戦い方が限られた。
冥鳥が飛ぶ、蜘蛛が落ちる、毒虫が這う。松明の明かりだけが頼りの闇の閉塞感にも苛まれた。それでも彼らは意志を堅固に、粘液の跡を辿って行った。
途上、巨大な土蜘蛛に遭遇した。これもまた何もなければ小さく素朴な生き物であったというのに。蜘蛛はその巣によって幸運を捉える吉虫だった。糸は頑強にして切れることなく縋るものを救い上げた。
魔物と化して人にも勝る体躯と化したそれへ向かって、人間と神人は刃を向けた。アライソは羽衣に力を通して棒状にし、ソアラは片袖を振るって手元に落とした手槍を握った。
間合を詰めて行く最中に蜘蛛は、大量の糸を吐き出して、彼ら二人の走駆を阻んだ。放射状に吐き出されるその糸は、避けも出来ない迫り来る壁となり、一呼吸か二呼吸の後には彼らを包み込んでしまうように思われた。
アライソは羽衣を広げて二人と糸との間に漂わせた。糸は羽衣に触れて、透過し、背後まで行き過ぎた。
ソアラは手槍を投げた。蜘蛛は前肢でそれを弾いた。アライソは羽衣の両端を握り、引いて張り、姿勢を低くした。横向きに地昇華を放つつもりでいた。
ソア「やめろ! 粘液が剥がれる!」
はっとして構えを解いた。もしも放っていたら風圧で胚の残した粘液の跡は消えてしまっていただろう。
大蜘蛛を前にして、彼らは武器を存分に振るえず、足場も乱さずに戦わなければならなかった。
再び蜘蛛が糸の束を散らして吐いた。それはアライソの振るう羽衣で流し通された。蜘蛛の吐き出す糸はもう脅威ではない。背後でべちゃっと音がした。それでもこれは倒さなければならない。粘液の跡は蜘蛛の下を通り、行方は阻まれ、やり過ごすことは出来なかった。
ソアラは片腕を回していた。
ソア「巴穂」
縒り捻じられた羂索の束が奔騰した。それは蜘蛛を正面から捉え、後退りさせた。が、それを見た瞬間にソアラは攻撃を止めて索を引き戻した。蜘蛛が地を滑れば粘液の跡が搔き乱される。
倒すにしても蜘蛛に暴れさせることも許されない。
と、その時に風を切る音がして、背後から蝙蝠の群れが押し寄せた。蜘蛛の糸に驚いたのだろう。
アライソは自分の肉体に傷が付かないのを知っており、そのため一端を握った羽衣をソアラの方へ投げた。彼女は羽衣に守られた。だがアライソは多数の蝙蝠に次々と襲われ、ついにはよろめいた。
蜘蛛の糸が彼のみを狙った。たとえ糸に瘴気が混じっていなくとも、当たれば粘着き体の自由は利かなくなる。
間一髪、彼は羽衣を手繰り寄せて自分を守った。
睨むと蜘蛛の脚元には、糸に絡まれた蝙蝠が落ちて地面に貼り付き、藻掻いていた。