3.2.6.進展 ②
瀬羅が住んでいるのは高層マンションの中層だった。広々としたその部屋は、片付いていてインテリアもシックに纏められていた。革張りのソファに座ると、瀬羅はキッチンからよく磨かれたグラスを二つとミネラルウォーターのペットボトルを持って来た。酒でやや火照った体に水は染みた。
しかし、瀬羅が儲けていることは分かっていたが、マンションを買えるほどだったとは思っていなかった。
デートをしていたいつかの日に、彼女は彼の経済状態はそれほど気にしていないと言っていた。いざとなったら自分が稼げばいいから、と。ただ仕事が上手く行っていない状況では本人が卑屈にしまうだろうから、上手く行くのを待っていた、と。もっとも、あの日に告白したのは酒の勢いだったが。
部屋の様子を見ていると、自分が稼ぐと言っていたのは本当だったのだと分かった。そんなことを考えている内に彼女が言った。
──私がこの仕事を始めるって言った時にね、安定しない仕事だから、生活費は出さないにしても、せめて住むところだけは、ってお父さんが買ってくれて。
苦笑した。
──過保護だよね。まあ、結局は貰っちゃったんだけど。
彼女の羽振りの良さに納得が行った。
──貴方の方はどう? 親御さんはどんな感じ?
悪意もない何でもない質問だった。ただの世間話だった。だから無感動に答えた。
──私は、親はもういない。親戚と呼べる人も。年の離れた妹は一人いるけど、今はどうしているんだか。血縁だとか、家族だとか、そういうのはない。
──そうなんだ。
瀬羅は口を閉じ、それから、
──寂しいね。
と、身を寄せて来た。荒磯は何ともなしにグラスに残った水を見ていた。それでも彼女が涙ぐんでいるのが分かった。まさか同情しているのだろうか。瀬羅は続けた。
──私は、貴方が友達付き合いをしている人がいないのを知っている。親族はいない、親身になってくれる人もいない。それで貴方は寂しくないの?
──別に。これが自分にとっての普通だからね。
──私は寂しい。貴方がそう思っているのが寂しい。周りに誰もいないのが当り前だと思わないで。
──そうは言っても仕方のないことだから。そんなものだよ。
瀬羅はこちらの手を握り、
──そんなことはないよ。
そう言いながら顔を上げ、荒磯の目を覗き込んだ。
──貴方には、貴方を大切に思う人がいる。貴方が幸せなら嬉しくなって、そうでないなら悲しくなる人がいる。貴方に幸せになって欲しい人がいる。
嘘のない眼だった。潤んだ瞳から強く真剣な光が放たれていた。彼女は優しい人だと荒磯は思った。
彼女は手を離し、彼の顔を両手で挟んだ。一心に見詰める彼女の瞳には、慈しみが溢れていた。余りにも真っ直ぐな、真摯な瞳に荒磯は飲み込まれそうだった。混じり気のない純粋な意志が伝わって来、彼女がこれから取る行動が予知された。
辛うじて口を開き、
──酔っていますね。
とだけ言った。その言葉にも瀬羅は怯まず、
──そんなことは、どちらでもいいこと。
顔を近付けた。彼女の手が荒磯の首筋に回り、うなじを撫でた。手は落ちて背中を擦った。荒磯は息が詰まった。
ようやく離れたかと思うと、こちらを見詰め続ける彼女の指が、スーツのボタンに触れていた。瀬羅は男のジャケットをプレゼントの包装紙を剥ぐようにして脱がせた。彼の服はこうするために選ばれたかのようだった。脱がせることを目的として、そしてそれを前提として選ばれたかのようだった。
荒磯は震える手で相手の腕を握った。止めるためではなかった、置き場所が分からなかったからだ。瀬羅はその手を自分の肩に回させた。手は女の肌に触れた。
躊躇いながらもドレスをずらした。うっすらと唇を開ける彼女の、その瞳は朦朧として、溶けて流れてしまいそうだった。
瀬羅の体は熱かった。荒磯は人間の肌というものを初めて知った。生きる人間の肌というものが、血の流れる肉体というものが、これほど熱いものだと初めて知った。
翌朝目が覚めると、ベッドの隣で瀬羅がこちらに背を向けて眠っていた。腰から下を覆うシーツが丸みを帯びて体の輪郭を浮かび上がらせていた。レースのカーテン越しに差し込む光が生身の肩を照らしていた。
荒磯は怖れを感じて、彼女が目覚めるのも待たずに、逃げるようにして帰った。




