3.2.5.進展 ①
そうして仕事が順調に進んでいる間に、彼は瀬羅を食事に誘った。以前に奢ってもらった際の礼だった。借りを返すためだけの義務的な食事でしかなかった。
それなのに、彼女はこちらの感情を知らないとは言え、大袈裟と呼べるほどに嬉しがり、はしゃいだ。今の収入からすれば安すぎる店でもあり、綺麗だとも洒落ているとも言えず、むしろ辛気臭く小汚いくらいだったのに、彼女はそんなことは気にもせず、ただ二人で食事が出来ること、荒磯から誘われたことを純粋に喜んでいた。
決して美味いとは言えない料理と、売り物とは思えないほどに酷い安酒を、この前と同じように沢山食べ、飲んでいた。他愛もない話を延々と続ける瀬羅は、一緒にいる間、常に満面の笑みを浮かべていた。感情に正直でありすぎる彼女は、隠しも照れもなくストレートに好意を向けていた。
無邪気とすら言えるそれを受けて荒磯も悪い気持はしなかった。
それから半月と経たない内にまた瀬羅から食事に誘われた。この時も彼女の奢りだった。今はもう金もあるのだから自分で払う、と荒磯は言ったのだが、強いて彼女は全額を支払った。そして彼女は、それじゃあ次は荒磯さんが奢って、と言った。彼も彼女の意図を飲み込めていた。
そうして二人はしばしば一緒に食事をする仲となった。食事の後には腹ごなしに夜の街を歩くようにもなった。湾岸まで行って夜の海を眺めたり、展望台で夜景を見たりするようにもなった。素朴で愛らしいデートだった。
次第に彼らはこれといった用事もないのに会うようになった。彼らの仕事は一回につき五から十日ほど神界へ行き、それが月に二回か多くとも三回。戻って暫くは現実世界に体を慣らす必要はあるが、それ以外は休みだった。彼らは暇が合えば平日の昼間から学生のように遊ぶようになった。
面白そうなイベントをやっていると聞けば他県にまで行き、流行のファストフードがあると聞けば食べに行って写真を撮った。話題の映画を観にも行き、気に入ったカフェに通うようになった。
学生のように、まさに学生のような気楽なじゃれ合いだった。時間を気にせず、体力か気力が尽きるまで興味の向くまま遊んでいた。それでも学生とは違うところがあった。彼らには自由になる金があった。
ある時、瀬羅はとある高級なレストランに行きたくなった。ドレスコードのある店だった。しかし荒磯は襤褸染みた服しか持っていない。そこでスーツを新調することにした。
彼はチェーンの紳士服店へ入ろうとした。瀬羅は引き留め、それから吹き出し、
──もう。お高めの店に行くんだからさ。そういうところで買うんじゃなくて作ってもらうの。仕事が上手く行ってなかった頃の癖が抜けないね。ほんと変わらないなあ。好き。
彼女は都内でも名の知れたショッピング街の、落ち着いた雰囲気の仕立屋に彼を連れて行った。物腰柔らかな老爺が瀬羅に挨拶をした。彼女は店主と親し気に会話した。
──今日は私じゃなくて、この人のスーツをお願いしたいんです。
老爺はにこにことして荒磯の方を向いた。衣服などには気を使わない、みすぼらしい格好をした彼に対しても柔和な態度を崩さなかった。
デザインの方向性や色遣い、生地やディテールなどといったようなものは荒磯には分からなかったから、瀬羅が店主と相談して決めた。採寸をし、受け取りの日時も決まった。
店を出るとすぐに瀬羅はレストランに電話をして予約を入れた。スーツを受け取ったらそのまま店で着替えて直接食事に向かう手筈となった。
当日、二人は仕立屋で出来上がったスーツを見せてもらい、店主から説明と確認を受けた。荒磯には彼の言っていることが相変わらず分からなかったため、適当に相槌を打って誤魔化した。ただ何となく上品そうな服だと感じただけだった。理解が出来ているらしい瀬羅は満足気に頷いていた。
それから予定通りに試着室で着替える運びとなった。自分がこんな高そうな服を着てどうするのか、若干憂鬱になりながら、姿見も碌に見ずに着替えて試着室のカーテンを開けた。
──素晴らしい。似合ってるよ!
瀬羅は拍手までして褒めてくれた。
荒磯は肩を竦め、自分のような人間にはこんな立派な服は似合わない、身に合っていなくてチグハグだろう、そう言おうと思って振り返り、改めて鏡を見た。しかしそこに映っていたのは、まるで優れた教育を受けた上流階級のような気品を漂わせた自分だった。不釣り合いな印象などまるでなかった。
自分の知っている自分ではなかった。不如意な生活を強いられていた者であるとは想像も出来なかった。恰も初めからこうした存在であったかのように思わされた。しっくりとして、確かに似合っていた。
服に着られる、だとか、身の丈に合っていない、だとか、そんな言葉は優れた衣服には存在しなかった。上等な服というものは着る者の雰囲気にまで影響を及ぼし、それに見合った存在であるように印象付けるものであると初めて知った。
靴も服に合うよう取り寄せてもらったものを履き、戸惑いながら着て来た服を紙袋に入れて店を出た。
レストランではウェイターに紙袋を預けて予約席に着いた。彼らがいつも選ぶように端の席だった。しかし、そこは店の隅、という言葉とは違っていた。窓際の良い席だった。外の夜景がよく見えた。雑然とした人間の住む街が星空のように煌いて見えた。
この頃には荒磯にも料理の良し悪しが分かるようになっていた。確かに神界の食べ物とは比べ物にならない。それでも美味いものは美味かった。
酒を選ぶ手順となり、名前などを聞いても分からない荒磯にソムリエは簡単な説明をしてくれた。この日のメインは肉料理だった。ワインであるなら赤の方が良いらしいとは彼も知識としては知っていたが、赤は好きではなかった。彼はそれを伝え、白がいいと言った。馬鹿にされるのではないかと少し心配した。しかし、
──いえ、通の振りをするよりも、ご自身の好みを優先される方が粋です。
ソムリエは微笑んだ。
楽しい食事だった。料理は美味く、目の前には人間としては美人に分類される女がいた。彼女は好意に満ちた眼差しを向けて、彼が何かを言う度に淑やかに笑んだ。
まるで淑女のようだった。そして自分は紳士のような格好をしていた。傍目からは恵まれた恋人同士に見えたかも知れない。
食事を終えてレストランを出てからも気分が良かった。瀬羅も軽い鼻歌を歌っていた。夜空には叢雲が掛かり、月を隠し始めていた。もしかしたら雨が降るかも知れない。まだ時間はあるが今日はこれでお開きにした方が良いだろう。
そんなことを考えている内に、瀬羅は彼を自分の家に来るように誘った。生温い風が二人を包んだ。




