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5.3.6.山を昇る

 とうとうたらり、たらりら、たらりあがり、ららりとう。((註5))


●「滝の音響く深山路の、葛を掻き分け葦を踏み締め」


 荒磯が呟いたようにここは既に山中も深く、頭上を覆う鬱蒼とした樹冠が闇を落として、真昼だというのに彼の歩く獣道は暗かった。樹々は乱立して先は見えず、道は草々で荒れていた。直ぐには歩めず左右に惑う。


 それだというのに彼は慣れた山道を景色も見ずに物思いに耽りながら足を進めた。目が向いているのは内面にのみ、外界は映らず盲目も同じことだった。それは彼の容姿にも表れていた。背は曲がりみすぼらしく、服は色褪せ、背負う旅袋は擦り切れていた。


 愁いに覆われた顔容には深い皺が刻まれて、顎や頬の肉は垂れ、目蓋も殆ど落ちていた。髪の毛は細く白くなり、肌は老醜で汚れていた。老人は萎え衰えた重い足を引き摺って、ただ彼の地へと一歩でも近くへ行きたかった。


●「泡沫の仮宅、払暁にて露と消える。雨風を凌ぐ一夜の宿も目覚めれば草枕。浮世を惜しまず、その漂浮する様を見る」


 肩口へ手をやって、旅袋の紐を直した。痩せた肩に軽いはずの紐が食い込み、鋭く痛んだ。腐葉臭のする息を長く吹いて額の汗を拭い、更に山の奥深くへと進んで行く。


●「ただ閻浮を厭う」


 彼の生活は人から羨まれるようなものとなっていた。世界的企業の名のある職位を経、現役時代には部下からの尊敬を受け、経営陣からの信頼も得ていた。惜しまれつつも引退した今では企業年金で悠々自適な暮らしをし、時には勤めていた企業の壮年の後輩から教えを乞われに訪問されることもある。


 長く連れ添った妻からは全幅の信頼を置かれており、成人した子は彼を敬愛し、またその将来は有望だった。朝夕の食事には必ず家族が揃い、穏やかな談笑を交えた時間を過ごしていた。息子からは結婚を考えているという聡明そうな女性も紹介された。彼と妻は喜んで賛成し、相手方の親族とも親睦を深め、後は籍を入れる時期を決めるだけとなっていた。


 一日が終われば柔らかく温かい寝台に疲れた体を横たえて、安らかな眠りに就いていた。こうした日々はおそらく最後の日にまで続いただろう。



 幸福な余生。充実し、色鮮やかな生活を送っているというのにも関わらず、彼は現実世界に虚しさを覚えていた。どのような人生の彩りなども所詮は一陣の風で吹き飛ばされる表層的な装飾に過ぎないと感じていた。その厭世感は心神の深奥から滲み出るものだった。


●「闇夜を照らす満月でさえ数日で欠けて消えてしまう。いやその夜の内にさえ雲霧に乱され光を失うこともある」


 月は飽くまでも偶然的な一点の光に過ぎず、夜の本質は闇だった。


 彼が望んでいたのは輝かしい光だった。荒れ狂う乱雲が空を覆おうとも決して霞むことのない絶対的な光だった。永遠の白い光が欲しかった。


 そのために荒磯は蔦の絡む乱れた暗い山道を、孤影を引きつつ歩んでいた。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 茅葉で荒れた山道を進んでいた。しかしそれも何れはどこかで終わるだろう。山林の闇に行く手を塞がれた。


 その突き当りの闇の中央に、彼はその目に、ただ美しいとしか言えない女が立っているのを見た。


 漆黒にも近い暗い闇の中に、彼女は純白の薄衣を纏い、片手を小さな祠に預けてこちらを見ていた。目を細め、うっすらと笑っていた。決して雲には乱されない永遠の満月のような女だった。その口元が薄く開いた。


○「また来たのねえ」


 大きくはない、しかし透き通る玲瓏とした声だった。その響きが真空とも思われる山の気に染み入って彼の元まで届いた。


●「ええ」


 荒磯は答えた。小さく低く枯れた声だった。しかしその底には力があり、微かな熱を帯びていた。


◯「ねえ坊や、貴方は所詮ただの人間でしかないの。だからこの向こうでは暮らせない。それなのに、また、ここを通りたいの?」


●「然様で御座います」


○「無駄だと何度も言っているのに。人間らしく、肉の体と歴史の世界に閉じ込められて一生を終えたらいいのに」


 そう言いながら片手で古びた祠を撫でさすっていた。彼女の円を描く手の動きによってこの空間が作られているようだった。深沈として邪まなものなど僅かにもなく、ただ清浄と静寂に満ちた空間だった。そこに二人が相対していた。荒磯が声を発した。


●「そうではないもののために、御寮がいらっしゃるのではありませんか」


 女は、ほほ、と笑い、


○「そうねえ」


●「イチキシマ姫神、どうか私をそちらの世界へ。私はただそれだけを願っているのです」


○「人の身で暮らせる世界ではないわ」


●「身に染みております」


○「たとえどれほどの修身を積もうとも、人の身なれば住めはしない」


●「重々承知しております。それでも私は渡りたいのです」


○「遠くから見ているだけで満足なさいな。それではいけないの?」


●「それでは私の願いは満たされないのです。……私は有り難いことに良い人生を送れました。しかしながら、それは私の生ではありませんでした。どうか、御寮、私は御寮の司っている清らかな土地に行く、ただそれだけを求めているのです。どうか。ただそれだけを」


○「以前にも聞いたわ」


●「こちらの世界でどんなに恵まれた生活を送ろうとも、それでも私は、私の強く望んでいる世界というのは、私の憧れる世界というのは御寮の世界しかないのです。


 私が御寮の世界を選ぶのは、現実が嫌いだからではありません。現実が嫌で逃げ先にしているのではなく、それをこそ望んでいるのです。たとえ現実が恵まれていようと、私の本心は神界を求めているのです」


○「それも以前にも聞いた。貴方が今よりも若い頃、ある女と懇ろになっていた時に」


●「然様で御座います。何度も同じ迂路を巡り回っておりました。それでもどれほど繰り返そうとも、出で来る答えは同じなのです。私の望みは神界のみです」


○「そして私は貴方が来るのを拒絶した。それだと言うのに、また?」


●「然様で御座います。どれだけ御寮に拒まれようとも、私は御寮の世界を激しく欣求しているのです」


○「しかし行って、また終わり。それを無限に繰り返すの?」


●「そうであるかも知れません。ただ御寮の御許に遊ぶのみ。ただ一時の満足を繰り返すのみかも知れません。しかし私は神界でこの身を滅ぼそうとも本望なのです」


○「貴方は私に拒絶されてから現実世界で人生を送っていたでしょう。それは無駄だった?」


 荒磯の脳裡にこれまでの半生が思い浮かんだ。辺鄙な職場で見出され、重要な仕事に抜擢された。そして会社で称賛を受ける成果を上げた。妻たる人とも結び付いた。子を生し、成人するまで育て上げた。


●「無駄であったとは思いません。それらも確かに私にとって価値のあることでした」


○「それは良い。それでいて尚、私の世界を望むと言うの?」


 荒磯は深く首肯した。


○「これまでの人生を肯定しつつ、その上で神界を望むのなら良いでしょう。もう一度聞く。貴方は神界が大切?」


●「はい」


○「たとえどのようになろうとも?」


●「たとえこの身が滅びようとも」


○「そう……。まあ、いいわ。仮に貴方が死のうとも、その人生が無価値なものに成り果てようとも、最早それは貴方の勝手。好きにすれば良い。望み通りにここを通そう」


 荒磯は目の奥がきつく締め付けられた感覚がした。女神に拒絶されてから長い歳月、永年とも思える月日を経て許された。自然、深く頭が垂れた。


●「ありがとうございます。恐悦至極にございます」


○「手を」


 言われるがままに諸手を差し出した。女神はそこに精妙な蒔絵に彩られた印籠を載せた。


○「貴方がいつも持ち込んでいた神薬をまた授けましょう」


●「ありがとうございます」


 荒磯は印籠を丁寧に押し戴いた。両手で握り締めると彼の姿勢は祈るような形になった。謝意を独り言のように繰り返し、更に深く頭を下げた。


 女神は体を荒磯の方へと傾かせた。彼女の白衣を纏った胴体が蛇のように伸びた。するすると胴体は伸びて行き、彼の周りを取り囲み、そして巻き付いた。女神は長い胴で荒磯の体をきつく締め上げた。


 荒磯が感涙に濡れる面を上げると、女神の顔は、微笑みを湛えていた口が耳元まで裂け、大きく開かれて行きつつあった。顎が輪郭から外れ、口のあった場所には巨大な洞が広がっていた。容貌が変わっていても女神は変わらず美しかった。両目は酸漿のように赤く、鏡のように丸く輝いていた。


 荒磯はその目に魅入られて陶然とし、身動き一つ取れなかった。


 尚も広がりつつあった彼女の口が視界を覆い、目に映るのは真紅の虚空のみとなった。赤い世界が頭上から下りて来た。荒磯は両目を伏せた。女神の薫る吐息、口腔の焼けるような熱さを肌に感じた。恍惚とした。


 そうして白蛇の女神は荒磯を丸ごと呑み込んだ。


(註5)

「とうとうたらり、たらりら、たらりあがり、ららりとう」――能楽「翁」より引用


☆☆☆☆☆☆☆☆


ご愛読いただき誠にありがとうございます。

次回は5月29日(金)更新予定です。

どうぞ宜しくお願いします。


こうしてお読み頂けたのも何かの縁ですので、ついでにブックマークや評価もお願いします!

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