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5.3.5.心臓の底に澱む灰

──よくよく思い返してみれば、あれらの日々こそ幻だったのではないか。


 社会的成功を収めてから思う、確かに神界渡世をしていた頃は貧しかった、しかし自らの人生に殉じていた。そんな実感を持てていた日々の方が夢であったのではなかろうか。


 現実の日々は深い霧の中にある。朧気な風景を霞んだ瞳で彷徨っている。生きている実感もなく食事をしては毎日の仕事を恙なくこなして床に就く日々、それが人の日常だ。あの頃のような、はっきりとした明朗な月光、そうしてものを浴びる生活の方が作り物だったのではないか。


──ならば夢幻や泡や影に惑う今こそ確かに現実だ。


 つまらないことに思い悩み、取るに足りないものに心を痛める。精神を苛み心魂を圧するこれらのことは自分にとって何だと言うのか。大したものではない。人生にとって重要なものではない。だが、胸中はそれらで満たされて、他のことを考える余裕もない。そうして些事に煩わされている内に日も暮れる。夕暮れの薄闇に覆われた。間もなく夜になる。


 子供も一人立ちの時期を迎えていた。一人の人間を立派に育て上げたのは人として誇るべき一大事業だ。自分の人生にも意味があったのだと思う。年を取ってから出来た子だ。それが成人したとあっては荒磯もとっくに老境に踏み入っていた。


 充足感や満足感、達成感。感無量といった気持が湧き上がって来るのは嘘ではない。しかしどこかに何とも言えない虚しさもあった。愛する妻子にそんなものは見せなかったが。


 こうしたものであったのか。自分の人生は。あの日々、神界に通い、喘いでいた頃、自らの全てを掛けていたあの時代、あれでなくて此方が自分の人生だったのか。


 今の生活を肯定したかった。しかし渡世稼業をしていた時代を否定出来なかった。諦観とともに今を肯定したかった。


 荒磯は動きの鈍くなった心臓の底に澱む灰が熱を持っていることを知っていた。


 しかしそれが一体何だと言うのだろう。妻子を捨ててあの生活に戻るのか。渡世人の中には家庭を持ちながらやっている者もいる。しかし自分はそれらを両立させられるほど器用ではない。あれかこれかしか選べない。仕事を捨てて家庭を壊すことは選べない。心臓の灰が燻っている。


 ある日のこと、就職をしたばかりの我が子が仕事の助言を求めて来た。荒磯は社会的に優秀な人材だと見做されていた。彼の子は荒磯を落伍者だとは想像すらしたことはなく、有能な仕事人だと信じ切っていた。結婚が遅かったことですら、仕事に打ち込み過ぎたためにそうした事柄に目を向けなかったからだと思われていた。


 荒磯は子の質問に答えた。但し具体的な助言は最小限に留め、それよりも仕事にあたる際のマインドを説いた。


──自分から進んで仕事を始め、また探す積極性。同僚が多くの仕事を抱えていたら手助けをする協調性。それらこそが大切だ。主体性さえあれば業務内容など覚えなくとも良いとすら言える。


 仕事などいざとなれば勝手に覚え、出来るようになる。画期的なアイデアでさえその時になれば勝手に閃いて来るものだ。ただ仕事への主体性さえあれば。


 私がお前に教える事は仕事の具体的なアドバイスなどではない。そんなものはどうでもいい。そんなものより教えたいのはこの心持だ。どんなに高度な技術でさえもやっていれば自然と身に付く。しかし心持だけは本人が意識しなければ身に付かない。永遠に。そしてこれこそが練達に必要な最大のものだ。


 自分から進んで行こうとしろ。良いと思うことをしろ。すれば仕事は勝手に覚え、練達し、上手く行く。仕事を覚える、そうするために始めに覚えるべきことはこれだ。自らで動け。


 荒磯はこうしたことを滔々と述べた。


 またある時、子が再び相談に来た。この頃には荒磯は杖がなければ歩けない程に衰えていた。相談とは彼の属する会社が組織改革の必要に迫られているというものだった。荒磯は枯れ衰えた声で答えた。


──良いと思うことをしろ。何を躊躇うことがある。良いと思うのであればそれまでの組織など壊れてしまっても良いとも思え。それが良いのであれば。良くなるのであれば。


 しかし子はやや躊躇っていた。被せて言った。


──自分を守ろうとなどするな。守るようなものがどこにある。進め。進もうとしなければ時代に流され朽ちて行くだけだ。進み続けてそれで始めて現状維持だ。何かをより良くしたいのならば、それより更に進まなければならない。壊すほどのスピードで。


 話している内に荒磯の声調は弱まっていた。内向的に沈み込んだ。彼の子も考え込んでいるようだった。その様子に気付いて荒磯ははっとし、


──情熱はあるのか。仕事を始めたばかりの頃の、その情熱はまだ心に残っているのか。


 子は荒磯を真っ直ぐに見詰め、


──あります。


──なら進め。


 その後も少しの話をし、子は去って行った。


 荒磯は寝台に横になり、子に情熱の有無を問うた時の彼の瞳を思い出していた。輝き、熱意の灯った我が子の瞳。純粋で真っ直ぐな、破壊すらも恐れない瞳。あの炎が羨ましくもあり、そして荒磯の心臓の灰を煽り立てた。


 翌朝、荒磯は自宅から消えた。蒸発した。


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