1.降下
私は今。
ラピスラズリの深い青を砕いた絵の具をさぁーっと広げたかのような澄み渡る空を、陽の光を受けて白亜に輝く雲の中を……足先でひゅううぅぅ……と風を切って、降下しています。
透明な天使の輪と、鳥のように美しくて誇り高い白き翼はあっても……頭も腕もない、サモトラケのニケのような、私の体。
肌も髪も虹彩も……全てが彫刻のように、いいえ、それ以上に「純白」です。
足先で切る風の冷たさを感じながら見えてきたのは……荒廃した大都市の姿。人が消え、夢の跡地となった、くすんだ瓦礫たち。
次第に廃都市が近づき、着地点を見定めたときにーー大きな透明の、厚いガラス板のようなものを、先に着地点に出現させました。
これが発する、磁石の磁力のような反発力ーー「斥力」が真っ直ぐに私に向けて作用することで、私はだんだんと下降のスピードを落としていきます。
その透明な厚いボードに足先をつける頃には、羽毛がふわふわと落下するような、ゆったりとしたスピードになりました。
そしてふわりと、ボードの上に着地します。
次の瞬間には、ボード全体的にぱっ、と蜘蛛の巣状にヒビが入ります。全てが破片となり、ゆったりと舞い上がって消えてゆきました。
私は瓦礫の山の上に降り立ちます。
そして私の体の欠けた部分に、プリンターで出力するかのように、指先や頭頂部から腕、頭が現出してゆきます。
しかしそれらは残念なことに体と結合することはなく、鋭利な刃物で切ったかのように断面がつるんとしたままです。
ですが現れた包帯がーーまるで繋がっているかのように、接続しているべき部位を隠すかのようにーー巻かれていきます。
頭にも布が巻かれ、頭上に透明な輪が現れました。
そして私は今、形成されたばかりのまぶたを、開け、光を見ます。
……元は大都市だったのだと、その面影で感じ取れます。
しかし、その建物に刻まれた凄まじい破壊跡からは、暴力の限りを尽くした音が聞こえてきそうです。
鉄筋が剥き出したコンクリートから、今にも血が吹き出してきそうなくらい生々しいその戦闘の跡に、めまいでくらくらします。
瓦礫の山と砂塵の乾いたにおいを慰めるように空の狭間から陽の光が漏れて降り注ぐ様は、廃都市に神様が何か少しでも救いを与えようとしているかのように見えます。
「……」
この、絶望を体現したような荒廃した都市に……彼がいる。
私は一筋の希望を求めて、一歩を、踏み出します。
一陣の乾いた風が、私と瓦礫となった都市の間を侘しく吹き抜けていきました。
……パアァァン。
少年のすぐ目の前で、乾いた銃声とともにいとも容易く一人の命が奪われる。
その処刑によって、立たせられた校舎の壁ーー『死の壁』と収容者達に言われている壁に、また血の飛沫を塗り重ねることになった。
赤、青、緑をぐちゃぐちゃっと混ぜてできた薄汚い灰色のような空をくるくる飛ぶカラスが、その死体にありつけるのは今か今かと乞うように鳴いている。
人間を絶命させる暴力的な銃声は、今まで見てきた数々の死の記憶を強制的に呼び起こし、少年はその根源的恐怖で反射的に目を固く結び、体を強張らせてしまう。
全身ににどろっと重油を流し込まれたかのように、体が重くて動かせない。
爆風で崩壊しかかっている学校、その中庭の壁の前には少年を含む、処刑される者十数人が列になって、敵国の兵士達に次々と撃たれていた。
そして今、最後に少年を残すのみとなっていた。
少年は黒い絶望に足を掴まれながらも、しかしそれを無理やり引きずりながらも一縷の望みに手を伸ばそうとする。埃に塗れてなお黒々と深く輝く髪を逆立て、怒気で目を見開いた。
少年はなぜ顔を上げることができるのか?
なぜなら、「世界を変えなければいけない」という、強迫観念に近い使命感……というより思い込みと言った方が適切な衝動があったからだった。
少年の世界に対する不信は、戦争以前から心の底流に常に流れ続けて来た、マグマのような感情だった。
少年は懺悔させられているかのように壁に頭を下げさせられていたが、思い切り振り向く。
もはや日常の仕事となった殺人に面倒ささえ覚えてつまらなそうな顔をする下手人達に食ってかかる。
「おい、君たち……! 同じ国の人間を殺してそんなに楽しいかッ……?! 君たちはおかしい!間違っている!」
それを聞くと、敵国の装備に身を固めた兵士が、先程少年の仲間を撃ち殺したアサルトライフルを少年に向け、煩わしそうに口を開く。
「……調子乗ってんじゃねえ。お前達が先にうちの国に迷惑をかけたんだ。そのせいで収容施設として使われてるこの学校に来るハメになったんだろ?」
「お前たちは騙されてる! あんたらは洗脳されてるんだ! 五年前にこの戦争が始まった時に連れ去られて、この国が悪者だって教育されて、祖国の僕達と戦わされているんだ! 同じ国民同士で戦う必要なんてないんだ! 本当なら、この中学校で僕達と一緒に通っていてもおかしくなかったはずなんだ! もう一度言おう、君達は間違っている!」
「うるせぇ! とち狂って何訳わかんねえこと言ってんだ! お前ら犯罪者どもに正義を気取る資格はねぇ!」
したたかに頭を足蹴にされる。
少年は、それでも兵士の足首を掴みながら、ついにこの理不尽な状況そのものに対する不満を爆発させた。
「そもそも、この世界自体、おかしい! 僕の両親は僕が五歳の時に死んだ!何でか分かるか?! 地震で家の下敷きになって死んだからだ! 僕の両親は何も悪いことをしてなかった! なのに、何で死んだんだ!? 何で地球の気まぐれで死ななきゃならないんだ!? この戦争だって、僕が、君たちが、国民が、何をしたって言うんだ?! 何で戦争を始めた人が真っ先に最前線で戦わない!? こんな戦争して、僕たちに何の意味がある?! ……この世界は、人間も世界自体も、僕が生まれた時から今まで、ずっとおかしい! 間違っているッ!」
兵士は少年の勢いに気圧されながらも、死を前にして本当に頭がおかしくなったんだと思い、そのうざったさから頭にきて少年の足を3発撃つ。
瞬く間に今まで感じたことのない、肉が沸騰するような激痛で少年は地面を転げ回る。
痛みに叫ぶ少年にはお構いなしに、兵士は罵声を浴びせた。
「知るかてめぇの考えなんざ! ……てめぇ、だいたいここにいる奴ら十数人が死ぬことになったのは、誰のせいだと思っていんだ! お前だろ! お前が俺たちのことを間違っていると他の奴ら扇動して反発して、懲罰棟にぶち込んでも大人しくならなかったからこんなことになってるんだ! 全部お前のせいだ!」
撃たれた足の激痛に悶えながらも、少年は兵士の説得しかこの場の突破口はないと見て、必死に訴えかける。
「どうして僕が立ち上がったと思っている! ここがおかしいからだ! 僕たちの国民を根絶やしにしようなんて間違っている! だいたい、君たちは気づかないのか、誇り高い改心者だと叫ぶ君たちが、この場にいるのがおかしいってこと自体に! ここは核爆弾が落とされた地点からそう離れていない! なのにお前たち『誇り高い改心者』だけがこの簡易絶滅収容所に派遣されて、本国の兵士は一人もいない! それは僕たちの言葉が分かるから適材適所で派遣されたわけじゃない! どう考えても僕たちと一緒にまとめて使い捨てるためだ!」
頭の片隅にはあったが考えないようにしていたことを的確に突かれた兵士は、動揺して目を泳がせて黙り込んでしまう。
しかし少年にいいように言われたことに思い当たって、一瞬で頭に血が上った。再びライフルを、今度は少年の頭に向け、動揺をかき消すかのように怒鳴り散らす。
「俺はなんにも間違っちゃいない! 過去の自分の国に銃を向けることも、我が正当なる国に従うのも……全てはお前らが間違っているからだ! 俺がここにいるのも、有能な兵士だから危険な任務を任されているんだ! お前らのような真に腐り切った汚民族共に分かるわけがないっ! お前らは我々を侮辱し、攻撃し、平和を脅かした元凶で、世界の敵だ!」
少年と幾らも歳が違わないように見える兵士は、それが真実であると一切疑う様子もない。
兵士は興奮そのままに、少年の頭を本気で打ち抜こうと構え直す。
殺気のこもった銃口が向けられたと認識した途端、少年の頭に灼熱のような銃弾がぶち込まれるイメージが駆け巡る。
先程の勢いは一瞬でしぼみ、情けない声と共にくしゃくしゃに丸めた紙のように縮み上がる。
これが人生最後の一瞬だと思った。
そんな時ですら、いや、そんな時だからこそ、少年は走馬灯のようにある夢を、今まで何度となく見てきた奇妙な二つの夢を思い起こす。
それは、白い空間で自分が異形の龍のような怪物達を何体も従えている夢。そして、女の子を必死に助けようとする夢。
以前からちょくちょく全く同じ夢を見るが、ここ最近は特に同じ夢を見ていた。それがなぜか、今際の際に、なぜか頭を駆け巡る。
……ああ、あの夢は二度と見られないんだな。
そう思うのと、少年のすぐ頭の上であらゆるものを死に至らしめる悪魔の叫び声のような音がその場で炸裂したのは、同時だった。
しかし、その音は今まで聞いていた死の音と、何か違う様に感じた。
……いやそもそも、この何百もの金管楽器を同時に落としたかの様な耳障りな騒音は……何だ。
少年が顔を上げる。
その場に響いていた音の正体は、破砕音だった。
その上、その場にいる兵士達がまとめて潰れたトマトの様に反対側の校舎の壁にへばりついて、人の形をしていなかった。
兵士のいた地面はトンネルを掘る掘削機で削り取られたかのように抉れ、校舎のガラスは爆発の風圧を受けたかの様に粉々に砕け散っていた。
本当なら少年は銃弾によって頭を撃ち抜かれ、死の際に最後まで残るという聴覚でその銃声を呪いのように頭の中で反響させながら逝くはずが、目の前に居た兵士が謎の災害に遭ってくたばっている。
理解できない状況に指一本動かせない少年に、不意に光が降り注ぐ。
暖かい光に誘われるように顔を上げると、天から降り注ぐ光の中から、「天使」が、降臨していた。




