第六章(三)
遠ざかる柑子色の光を追いかけて、垂は目を覚ました。ところが部屋には誰もいない。そして日が暮れかかっている。
まる一日が過ぎていた。更が立ち去ろうとするのを引き留めようとしたはずなのに。
「……茜、茜!」
かすれた声で垂は叫ぶ。ほどなくして現れた幼い侍婢は、取り乱した垂の様子に少し驚いていた。しかし態度を取り繕っている余裕がない。垂は起きあがりながら衾をのける。
「更を呼んで」
「更さまなら、先ほどお出かけになりました」
「出かけた? どこへ?」
「お聞きしていません。ふらりと出て行かれたお背中を見ただけですので……」
茜の言葉を最後まで聞かず、垂は寝間着の胸紐と帯をほどき始める。
予感した通りだった。更は出て行ったのだ。出かけたのではなく、ここを去るつもりで。二度と垂の許へは戻らないつもりで。
すぐさま衣を着替えた垂は、身体の具合を案じてくれる茜を振り切って館を出た。ほかの侍婢に見つからなかったのは幸いである。垂を止められなかった茜はおろおろしながらあとをついてきたが、垂の行く手を阻んだりはしない。
早足で歩きながら更の気配を捜した。彼と結びついているはずの魂の緒をたどって。やわらかな柑子色の光を求めて。
けれどその先は断ち切られていた。どこにも繋がらない糸だけが垂の意識の中を漂っている。
だというのに、垂の足は真っ直ぐ媛ヶ崎の社へと向かっていた。
緑の冠を被った神域を見上げられる場所まで来た時、彼女はふと違和感を感じた。
(兵がいない……)
社へあがる九十九折りの道の入り口は兵が守っているはずだったが、どこにもその姿がない。しかし、社へ上ってゆく長い階の一段に足をかけると、不意に血のにおいが鼻をついた。ぞっと背筋が粟立ち、濃厚な死穢の気配が垂をその場に押し留めようとする。
上へ行ったら。
見たくないものを見る。
血のにおいとともに突きつけられた、予感ではなく確信。垂はごくりと唾を飲んだ。
「お前はここで待って。日が沈んでもわたくしが戻らないときは田津比古殿に知らせなさい」
茜は血のにおいを感じていないようだった。垂の険しい顔に狼狽えながら頷くだけで、石の階を登ってゆく主の背を黙って見送る。
鬱蒼とした木々の枝が隧道を作っているので、社へ登る道にはじきに陽射しが届かなくなった。足下が暗闇に沈み見えなくなると、垂は白く光る靄が立ちこめる世界へと抜け出して、階を登り続けた。
今までになく長い時間をかけて階を登り切り、結界をなす幣のかかった縄をくぐり。
ようやく一息ついた垂が最初に見たものは、斬り伏せられた三人の巫女と、斎屋の前に出来た血溜まりだった。
「――!」
迸りそうになった悲鳴をどうにか堪える。
夕陽の残り火が枝葉の合間を縫って社へ射し込み、巫女の亡骸と血溜まりを朱く燃やしている。その滴は点々と奥へ向かってまるで鎖のように続いていた。
垂を招き寄せるように残された滴。垂を拒むような禍々しい色。
社には四人の巫女を残していた。しかしここに横たわる巫女の抜け殻は三つ。あと一人が、いない。
耳の奥に響く警鐘に逆らい、垂は血の滴をたどってよろよろと歩き出した。
垂が予想したとおり、血の道標は神殿へ向けて続いていた。そしてもう一人の巫女は、その途中で首を斬られてこときれていた。驚き目が見開かれた顔はそのまま、濁った瞳が紫色の夜の闇を映している。
神殿の扉が開いているのを見上げると脚が震えた。血の滴はまだその先へ続いている。神々の魂が宿った鏡を収めた、もっとも清浄であるはずの神殿が血で穢されている。
行きたくないと叫ぶ自分の心を無視し、垂は血塗られた階を登った。
神殿の中には海の風が吹き込んでいた。祭壇の奥に秘められた隧道から濃い潮の香りと血の香りが流れてくる。
あたたかい潮風はいっそう甘く血を香らせ、青ざめた垂をその隧道へと引き寄せる。
神器を収めた祭壇がある隧道へ降りると、垂は明かりを持たずに、壁に手をつきながら歩いた。足許を照らせば見たくないものがあると分かっていたから、怖くて火を持って来られなかったのだ。
左へ一度、右へ一度隧道は折れ曲がり、その先には有磯の海を背負った黒い祭壇の影と、ぬらりときらめく大刀を手にした人影が佇んでいた。
* * *
竹代と別れた邑からは舟なら一日あれば戻ってこられるはずの道程だったが、途中で陸へ立ち寄ったあと北へ向かってくれる舟が見つからず、国久流は仕方なく陸路を戻ることにした。
水辺の南岸の端には二上山と呼ばれる裾の広い大きな山があるため、海岸から内陸へ入り、その山を迂回する必要がある。馬に乗っても速度を出して駆け抜けられる地形ではないので、〝布瀬の水辺〟の名のもととなった〝布瀬の水海〟へ出るのに半日を費やし、そこから潟湖を横切って水門川を下ってくれる舟を捜すのにまた手間取った。
おかげで、媛ヶ崎の麓へ戻るのにまる二日がかかってしまった。
日が暮れそうになっていたが、中津で舟を降りた国久流はその脚で垂の館を訪ねることにした。
まずは津守の一族へ意図的に強硬な態度をとる倭文織に対し、和を乱す振る舞いをやめるようたしなめて貰いたいと垂に訴えねばならない。湖畔と海辺の力がそろってこその布瀬の水辺。その中の力の均衡を保つのは族長として当然の役目だ。
垂が国久流の話を聞きたがらないのなら、国久流は臣下として垂の前に膝をつくつもりだった。垂に族長として水辺を導く意思が本当にあるのなら、ただの幼馴染みが頼みごとをしに来たわけではないことを知れば、国久流の言葉を聞き入れるはずだ。
それでももし、垂が国久流への個人的な感情に任せて頑なに話を聞こうとしないなら、彼女は族長の座へ座るに値しない。
泣かせておいてなんとひどいことを考えているのだろう、と思う。垂が国久流に会いたくない、もう関わりたくないと感じるのは当然だろうに、自分は彼女が背負った族長という役目につけこんで会いに行こうとしている。それだけの話なのに。
黄昏の中を早足で歩き、赤松の防砂林から逸れて水辺の内陸へと道を変えようとしていた時だった。
その林の中を血相を変えて駆け抜けていく茜の姿が見えた。あまりに慌てていた彼女は松の根にでもつまずいたらしく、駆けていた勢いのまま派手に転んだ。
国久流も先を急いでいたが放ってはいけない。起きあがろうとしていた彼女に声をかけると、驚いた茜は国久流の顔を見るなりわっと泣き出した。
「どうしたんだ、いったい。こんなところで何をしてる」
垂に仕えているはずの従妹は、国久流の腕にしがみついたまま激しくしゃくりあげる。何か言おうとしているのは分かるが言葉にならないようだ。国久流は茜の背をさすり彼女が落ち着くのを辛抱強く待った。
すると茜は、泣きじゃくりながらも媛ヶ崎を指さした。
「た、たるひめさま」
「垂媛がどうした? 社へあがっているのか」
茜が懸命に頷く。国久流はすっと胸が冷えるのを感じた。
何のために? 祭祀もないこの日の夕刻に、垂は何をしに社へ登ったのだ?
黒い影と化しつつある岬を見上げ、国久流は顔をしかめた。
「し、茂みに、人が、兵が、死んでおりました」
「なに?」
茜は身体を震わせ言葉をつかえさせながらそう言って、再び国久流の腕にしがみつく。
彼は茜を宥めながら大刀の柄に手をかけた。冷たい胸騒ぎを鎮めて立ち上がり、媛ヶ崎を仰ぐ。
(垂……)
嫌な予感のその先は考えないようにして、国久流は茜を引っ張り起こした。
「見たものを父上に知らせろ。俺は先に行ってる。いいな」
茜はたちまち心細そうに顔をしかめたが、国久流は構わず踵を返して媛ヶ崎へ向かった。
夕風にさざめく浪音を聞きながら、赤松の林を駆け抜け、そびえる岩の岬の麓へたどり着くと、そこには血と死んだ生き物のにおいが立ちこめていた。
「茂みに……」と言った茜の言葉を思い出し、国久流は社へ続く階の両脇の榊の根本を順に覗き込んでいく。
すると、ちょうど階に腰掛けたら見えるような茂みの陰に、人の腕と槍の穂先が見えた。
茂みを大刀でかき分ける。つん、と漂ってきた鉄錆のにおい。そこにはすっぱりと喉を切り裂かれた兵の亡骸が隠されていた。茜は階に座った時にでもこれを見つけたのだろう。
あたりをよく見れば、濃い緑の榊の葉に血糊がべっとりとついていた。日暮れ前の暗さと岬に茂る木々の影に隠れて、ともすれば見落としそうだ。
榊についた血に触れてみる。ぬるりと指が汚れる感触。まだ、新しい。
国久流は社へ続く階を睨みあげ、冷たい恐怖を振り切るように暗い緑の隧道を駆け上がった。




