第六章(二)
天宮の使者が水辺を発ってから二日。昨日には二野の使者も送り出し、水門川のほとりは落ち着きを取り戻した。
垂はというと、祭祀以来の疲れがどっと出たのか、半ば臥せるように過ごしていた。寝床を出て神への祈りを終えるとすぐ部屋に戻り、几にもたれかかってぼんやりしてみたり、怠さを堪えきれずに横になってみたり。
開け放した戸口から乾いた風が吹き込んでくる。春の祭祀を機に水辺のすべてに新しい水が行き渡り、緑がその水を吸ってのびやかに育ち始めていた。
青い空の端を見ながら垂は夢うつつに考える。
天宮へ送った使者がどんな返事を持ち帰ってくるかより、田津比古の怒りと失望の眼差しの方が気になった。倭文織がことのほか機嫌よく、海辺の邑長達の視線が冷たいことの方が気になった。雨の中で重ねた、国久流の唇の方が気になった。
寝ころんだままそっと自分の唇を撫でてみる。
どうして突き放す前にそうしてくれなかったの。
鈍い怒りとやるせなさがよみがえり、垂は硬い床板に額をこすりつけて涙をこらえる。
そうしている内に日も暮れはじめてしまった。さすがに起きて何か食べなければ。祭祀の前からあまり食べていなかったので身体は弱ったままだ。けれど戻りつつあった食欲もなくなり、ものを噛んで飲み下すのがひどい苦痛だった。
そんな垂がのそりと身体を起こした時、両手に高坏と火を持った更がやって来た。相変わらず垂の世話を焼こうとする彼は、今朝も食事が喉を通らなかった垂のために彼女が好みそうな食べ物を貰ってきてくれたらしい。
更は高坏と手燭を垂の傍に置き、板戸を閉めて日暮れの空を隠してしまった。風が冷たくなってきたことを気にしてくれたのだろう。
部屋はあっという間に暗くなり、窓から差し込む朱色の残照と頼りない灯火だけが二人の手許を照らす。
「召し上がってください」
そう言って更が差し出す高坏の上には、青笹を敷いた上につやつやと光る胡桃が乗っていた。煎って蜂蜜につけこみ保存してあったものだ。一つ口に含むと、身体に染み渡るような甘さとしっとりした歯ごたえがとても美味しかった。
垂の表情が解けるのを見て、更も安堵の笑みを浮かべる。
「ありがとう、甘くて美味しいわ。お前も食べる?」
更は首を振り、全部垂が食べてくれと言う。さすがにこの胡桃の山を平らげたら胸焼けがしそうだったが、垂を案じてくれる更の気持ちは嬉しかった。垂はもう一つ、二つと胡桃を口に運ぶ。
「お元気になられましたか」
「……心配させていたのね。平気よ。千敷殿がどんなお返事をくださるかが気になって寝付けなかっただけなの。今夜はちゃんと眠るわ」
夜の間中、思い浮かべていたのは雨のことだった。ぬるい夕暮れの雨。口づけの間を流れていった雨。けれどそんなことを口に出来るはずがない。
垂は偽りを囁いて笑った。真実を知らない更は無邪気に微笑み返してくれる。そしてふと、蜜で汚れた垂の右手をとった。
何をするのかと思ったら、彼は蜜がついたその指先をふくらかな唇の奥に咥えてしまう。
「さ、更……っ」
突然のことにさすがの垂も狼狽える。しかし、爪や関節の形を確かめるように舐る舌の甘美な感触に拒絶の言葉を封じ込められた。
決して無理に抱き寄せる乱暴な手つきではなかった。なのに、唇から解放された右手を軽く引かれただけで、垂は目眩を起こしたように更の方へと倒れかかった。
コトン、と頼りない音を立てて高坏が倒れる。胡桃も床に散らばった。ふとそちらに気を取られた一瞬の内に、唇を覆われる。
甘えてすり寄ってくるような口づけだったが、背中に回された更の腕はしっかりと垂を捕らえていた。やわらかい感触と蜜の甘さが解け合い、喉の奥をくすぐられるような疼きが這い上がってくる。
けれど同時に、どうしようもなく身体が強ばってしまった。やさしい口づけを、どこかで違うと感じる。やさしい腕の力を、違うと感じる。
相反する二つの感覚にぼうっとしていると、更の手がそっと垂の胸元へ這い上ってきた。彼の指は襟元をまさぐり、胸紐の一つをほどく。
「……」
気がつくと、垂は更の胸を押し返していた。軽く目を瞠った更の顔を見て、垂はようやく自分がしたことに気づいた。
「……ごめんなさい。今日は休みたいわ」
祭祀の夜、神々がするのと同じように身を任せた相手。だというのに、何故か今日は更に触れられるのが怖い。
おかしな話だ。彼が傍にいてくれると心はあたたかくなるのに、彼が見つめてくれると自然と微笑んでしまうのに。
更は苦笑しながら頷いた。あからさまな不満を見せなくとも、落胆した様子である。二人で散らばった胡桃を拾い終えると、垂は悄然とする更の頬を撫でた。
すると顔を上げた更の目にとろりとした光が灯る。何故かはっとさせられる、身を引きたくなるような光。
垂の一瞬の狼狽を逃さず、更は垂の手に己の手を重ねてきた。
「――隣で休むことは、お許しいただけますか」
そして哀願する心地よい囁き。あまりに切ない響きで訴えてくるものだから、垂は否とは言えなかった。こんなに真っ直ぐに垂のことを見つめてくれる、そのやわらかい松脂色の視線をなくしたくないと思ったのもある。
「仕方がないわね」
垂は微笑みながらそう答えた。
また、水の中にいる夢。
いや、垂が浮いているところには何もなかった。でも、そこは水のように四肢の自由を鈍くするものが満ちた空間だった。
祭祀の夜、水辺を漂っていたあの感覚に似ていた。けれどあの時より身体は重い。どこへでも飛んでゆけそうな感覚はなく、このまま空間の重みで下へ下へと沈められていくような気がした。
もがこうと思っても手足が動かなかった。青黒い闇を見上げていた垂はゆるゆると視線を動かし、右手を見る。
垂の手首をがっちりと掴む長い指。反対を見ると、左手にもその指が絡んでいる。
祭祀の夜に見たのと同じ夢だ。垂はそう直感した。
そして、自分がこの手によってどこかへ引きずり込まれようとしていることにも気づいた。どこか――二度と目覚められない場所へと。
(誰……?)
鈍く痛む頭で懸命に振り返る。しかしそこにはどこまでも続く青黒い闇があるだけで、人の姿はない。
垂を戒める手の正体を暴こうとした罰だ、といわんばかりに、垂を捕らえた手が闇の底へ底へと彼女を引っ張り始めた。
(やめて――)
垂は髪を振り乱して重い身体を暴れさせた。
駄目だ、このままでは引きずり込まれる。
闇の底は黄泉路ですらない暗いどこか。その中に呑み込まれれば、垂は死ぬだろう。
嫌だ、死ぬのは。ようやくすべてが始まるこんな時に――!
垂はわき上がった怒りと恐怖を爆発させた。闇の中に白い閃光が迸る。
すると手首に絡みついた指の力がゆるんだ。その一瞬の隙に手を振り払い、青白く照らされる闇を振り返った。
手の主は、すでに闇の中に紛れようとしていた。
そして、その中に一房の淡い色の髪筋がこぼれるのを見た……。
「ああ……!」
垂は自らあげた金切り声に驚いて跳ね起きた。
辺りを見回し、そこが自分の部屋であることを思い出してもなお深い闇に引きずり込まれていく感覚が身体に残っている。
まだ水の中にいるようだ。吐き気がこみ上げてくるほど頭の中が疼く。重い身体を抱えるように自分の肩を抱き、垂は浅くなった息を整えた。
この夢は呪術だ。
肺に溜まりすぎた空気を吐き出し終えると、垂は身体を抱いたままぶるぶると震えた。
誰かが垂を殺そうとしている。それも、夢の中で彼女の魂を捕らえ、二度と身体へ戻ることが出来ないようにするという回りくどい方法で。
(誰?)
垂は頭の中にいくつかの顔を思い浮かべた。田津比古をはじめとする海辺の邑長達、垂に従ったように見える湖畔の邑長達。
とはいえ、他者の夢に入り込んで魂を捕らえることなど並大抵の巫女に出来る芸ではない。少なくとも垂が顔を知る湖畔の邑長や巫女の中に、他人の魂に意図して触れるという技と力を持つ者はいなかった。まして徒人である海辺の邑長達には、人を呪い殺すことなど不可能だ。
それとも垂が知らないだけで、強い力を持った巫女がどの邑長かのもとに仕えているのだろうか。
振り返った先にも続く、冷たく、深い闇を思い出す。
殺したいほどわたしを邪魔に思う者がいる。味わったことのない恐怖だった。身体が震えるのを止められない。
そうしている内に、垂は一人で寝床にいることに気がついた。
「更……?」
衾に残っている温もりは垂一人のものだ。少なくとも、更が出て行ったのはついさっきのことではないらしい。
先に起きたのだろう。板戸の隙間から日射しが漏れ入ってきている。垂が寝坊をしただけだ。そう気づくと少し安心した。
ならば、起きて社へ行かねば。神々を慰撫することを忘れてはいけない。でも、身体が重くて動けない。
恐怖が落ち着いてくると、今度は気怠さばかりがはっきりしてきた。垂は結局寝床から出ることが出来ず、ついには敷物に臥せってしまった。
更が現れたのは少ししてからだ。
彼は今日も垂の食事を運んできた。ここへ来たということは垂の寝坊を承知の上だったらしい。けれど、まさか垂が倒れているとは思いもしなかったのだろう。彼は垂の食事を放り出しそうな勢いで驚き、横たわっていた彼女を起こしてくれた。
「大丈夫よ、なんだか怠いだけで……」
「……熱がおありのようです」
垂の頬や首筋をさすり、更は眉根を寄せる。うなじを支えてくれる彼の指先が冷たい。自分の吐き出す息もひどく熱い気がした。
先ほどの夢にあてられたか、あるいは数日前に身体を濡らしたおかげで風邪を引いたか。体力が落ちていたのは確かなので、どちらもあり得る話だった。
「倭文織を呼んで。まだ諏訪潟へ帰っていないはずだわ」
「……倭文織さまを、ですか」
怪訝そうな更に微笑み返すのが精一杯で、垂はそのまま彼の腕の中で目をつむる。
病に罹った者を癒すのも巫女の役目。ところが垂はその巫女だ。ほかの巫女を呼んで疫神を祓ってもらうしかない。
寝床に横たえられたのを最後に、垂の意識は一度途絶えた。
倭文織がやってきたらしい時も、垂は夢うつつで朦朧としていた。
倭文織が何か飲ませてくれて、悪霊払いの祝詞を唱えているのが聞こえた。それから更と何やら話し込む声も。
――またしくじったのか。今度こそ海神への生け贄にすると言ったはずじゃ。
違うわ。更は生け贄じゃないわ。わたしの夫にするのよ。
――徒人と違い、垂媛さまには振り切る力がおありなのです。
徒人と違い――なんの話をしているの、更。
――ふん。形代風情が、いいわけをするでない。これまで省みられることのなかった卑しいそなたのことじゃ。哀れまれて情がわいたのであろ。
――……。
するすると裳裾を引きずる足音が近づいてくる。誰か来たらしい。
――倭文織さま、お館へお戻りくださいと、使いの方が。
茜の声だった。倭文織はぶっきらぼうに「分かった」と答え、茜に退がるよう命じる。そして再びいらだたしげな声で彼女は言った。
――早う……を持って参れ。それでそなたの役目は終わりじゃ。分かったな。
何を、持って来いって?
席を立つ倭文織。彼女の足音は遠ざかっていく。いったい今の会話はなんなのかと問い質したい気持ちがあったが、身体も、頭も、瞼も、すべてが重くて動くことが出来なかった。
更はまだそこにいるようだった。
初夏の香りを含んだ風が、そよそよと前髪を撫でてくれる。いつしか、その感触に更の指先が混じってきた。目許を撫で、頬を包みこみ、無骨さのない滑らかな親指が唇を撫でていく。
やさしく、しかしどこか淋しげな手つき。垂の胸が激しくざわめいた。
(待って……)
身体が動かないのなら、せめて。
垂は肉体を脱ぎ捨てようと試みたが、まるで何かに押さえつけられているように外へ出ることが出来なかった。柑子色の光が覆い被さってくる。
更、どうして邪魔をするの。垂は語りかける。
きっと彼には垂の〝声〟が聞こえている。その確信はあるのに、淡い色の若者から返事はない。
代わりに、額に唇を押しつけられた。それは眉間に、鼻梁にと口づけながら、やがて垂の唇の上にそっと重なる。
悲しい。祭祀を終えたあの朝、更とともに過ごした夜の明くる朝と同じ悲しみ。痛みと、虚しさ。冷たい感情が激流となって流れ込んでくる。
(どうしたの、更)
更が泣いていた垂を見つけ訊ねてくれたように、垂も訊ねた。二人の間に結ばれたままの糸を頼りに。けれど切ない感情が流れ込んでくるばかりで、更の声は聞こえない。
彼の目から溢れるべき涙が、垂の瞼の中に溢れる。
静かに更の唇が離れた。濡れた目尻をぬぐってくれる指先も名残惜しそうに垂から離れ、
更の気配は、風に溶けるように消えてしまった。




