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第六章(一)

 雨が上がると、春はまた一歩先へ進み、夏が近づいた。

 からりと青い空のもと、二野(ふたの)へ向けて舟が発とうとしている。

 中津(なかのつ)の桟橋の上では、巫女服をまとった(たる)小笹葉(おざさば)を振って舟を守らせる魚霊(なみ)を鼓舞し、海神を慰める祝詞を唱えていた。

 国久流(くにくる)はそんな垂の様子を舟の上からぼんやりと眺めた。

 天宮(あめのみや)の使者が発ったのは昨日。垂は使者へさらなる土産物を渡し、(さら)とともに舟を見送りに出た。使者は寄り添う二人の様子を見て少し戸惑っていたものの、嫌な顔はしていなかった。東に向かって開けた広く豊かな海を支配する布瀬(ふせ)の水辺と縁を結べるのだ。悪い話ではないことくらい、あのいかにも小物な男にも分かるだろう。

 そして二野の舟だが、昨日は出立前の(うらない)で、東へ向けて舵を取るには日柄がよろしくないという結果が出たので、もう一日足止めをくらったのだった。

 国久流は二野の舟を二上(ふたかみ)川の途中まで送り届けることになっていた。ついでにいくらも交易の品を舟に積んでいく。

 やがて(もや)い綱が解かれ、舟が岸辺を離れる。垂は族長らしい凛とした笑みをたたえて笹を振り舟を見送っている。けれど、ついぞ国久流と彼女の視線が絡むことはなかった。

 垂に見つめられ、照れくさくて視線を逸らすことはままあったが、こんなにぼおっと彼女を眺め続けていたのは初めてだ。

 そして国久流は気がついた。垂がこちらを見ないから目を逸らさずに済んだのだ、と。

 穏やかな海へ漕ぎ出した船団は水門(みなと)川に背を向け、沿岸をゆるゆると進んでいく。規則正しく響く漕ぎ手のかけ声はなおさら国久流の頭をぼおっとさせた。彼は船尾の縁に腰掛けて、右手に広がる広大な砂浜を眺めた。

 思えば、自分は垂の目を真っ正面から見たことがどれほどあっただろう。

 彼女の横顔――すっと細い(おとがい)の線や、浜梨(はまなし)の実のように赤い唇や、長いまつげが目許に落とす青い影の様子は思い出せても、正面から見た顔は、幼い頃の笑顔やあの晩の泣き顔しか思い出せない。

 掴んだ腕のやわらかさにもびっくりした。成長した女の身体の感触だった。そんなことに驚くほど、自分は垂から離れていたのだ。

 何が「誰よりも垂を見てきた」だ。そんな自負にはなんの意味もなかった。垂は泣いていた。

『わたしは、わたしを好いていると言ってくれる更がいい』

 流れていく白砂の岸辺の景色を見つめながら、国久流はぎゅっと眉根を寄せる。

 言えるものなら言っていた。

 でも言ってはいけなかった。

 垂は神に捧げられるため、国久流が暮らす館へやってきた。

 大人達が目を回すほどやんちゃな国久流だったが、垂もそれに負けないくらい好奇心旺盛でおてんばだった。まずは向こう岸のある海に驚き、光るように白い砂浜に驚き、いしる干しの味を気に入り、でも山にあった桜だけは、海辺へやってきてからも好きで。

 はじめは可愛い妹が出来たと思っていたが、お互いに十を数える頃になると垂はいつの間にか〝妹〟ではなくなっていた。垂はいつまでも無邪気にじゃれついてきたが、身体をくっつけられたり間近で満面の笑みを向けられると、国久流はどぎまぎして仕方なかった。

 けれど海神に捧げられる生け贄がどういうものか、幼い彼にも分かっていた。

 海は国久流ら海辺の民の生きる糧だ。しかしその海に命を奪われる者が少なくないことも知っている。

 垂は、海に喰われる者の代わりに、神に捧げられる贄。

 いつかは海へ投げ入れられて死ぬのだ。

 山津神(やまつかみ)が海神に贈るために産み落とした子供。それが垂。

 無邪気に、けれど明日の命も知れずに死と隣り合わせで生きる彼女に、幼い頃の国久流はすでに畏怖のようなものを覚えていたのだろう。

 垂は神々に近い場所で生きている。自分とは違う。

 ほのかに覚える愛しさの底に、そんな冷え冷えとした感情があった。

 だから可愛いと思う垂に、愛しいと思う垂に、わき上がるままの思いを告げることはしなかった。

 そして、ついに彼女が国久流のもとを離れる日がやってきた。

 しかしその行き先は、思いもかけず国久流の目と鼻の先だった。

 垂に与えられた役目は生贄ではなく、布瀬の水辺の族長・田勢比古(たせひこ)の妻。

 目と鼻の先ではあったが、田勢比古は海辺の民にとって神にも等しい。

 彼女はやはり生け贄になった。分かっていた通りのことになった。

 でも生きている。国久流は嬉しかった。会えなくなるわけではないのなら、それでいいとその時は思った。

「国久流殿」

 船倉から顔を覗かせた使者に呼ばれ、国久流は我に返る。

「どうなさった、竹代(たかしろ)殿」

 二野の使者・竹代は、国久流の父・田津比古(たづひこ)より五つほど年上の大柄な男だった。族長の狭輪比古(さわひこ)を長年支えてきた二野の重鎮で、国久流がちびの頃から知っている。水辺と二野の架け橋ともいうべきお人だ。

 国久流はその彼が表情を曇らせている理由にすぐに思い当たった。けれど何も知らないふりで船縁を離れる。そして船倉から出てきた彼と一緒に積み荷の上へ腰掛けた。すると竹代は重々しく溜め息をついた。

「垂媛さまが、天宮の千敷さまに婚姻を請われたことは聞き申した」

「千敷さまにではなく、千敷さまの弟御とやらに、だ」

「どちらでもよい。ようは水辺の長と天宮の長に血縁が出来ることになるのだ。そのようなことになれば、我が二野はますます干上がってしまう」

 悩ましげに呟き膝を叩く竹代。国久流は気まずく思うばかりで、腕を組みながら船縁へ散る浪飛沫に視線を滑らせる。

 血の縁は地の縁。族長の血が結びつけば、いやでも土地と土地の関係は深くなる。垂はそれを目指しているようだったが、そうすると見捨てられる二野はたまったものではないだろう。

 二野は内陸の国だ。二上川の先にある平野に広い田畑を持ち、峠道を越えて西の海とも繋がっている。

 しかし、現状は二上川の先にある海を水辺に支配され、彼らが独自に持っている交易路は西に繋がる峠道だけだった。その先にある海は天宮の外浦でもある。

 布瀬の水辺と天宮の関係が深まり、互いに交易の依存度を高めていけば、布瀬の水辺にとって西海と繋がる道の一つであった二野は必要なくなり、天宮も、東西両方の海をさらに自在に行き来できるようになる。両国とも、二野を必要としなくなるのだ。

「心配なさることはない、竹代殿。我らはあなた方の作る米を頼りにしている。これからも付き合いがなければ譲っていただけないものだろう? だからこそ垂媛は狭輪比古さまに鉄剣をお贈りするのではないか」

「それはそうであるが……」

 国久流に励まされてなお、竹代は不安げに肩をすぼめた。

 昔は振り仰いで見なければならない大男だと思っていたが、いつの間にか歳をとられたな。覇気のない横顔にそんなことを思う。

 時はずっと流れていたのだ。自分はこうして大刀(たち)を持って舟を守れる男になったし、垂は自ら誰かを夫に請うほどの女になっていた。

 垂が田勢比古に嫁ぎ、国久流も成長して、本当は変わっていかねばならないはずの関係だった。垂は田勢比古の許で水辺の祭祀に尽くし、国久流もどこかの娘を妻にして、いずれは二人の間に線を引かねばならなかったのだ。

 けれど国久流は垂に背を向けられなかった。田勢比古に嫁いだ彼女を目で追ってしまっていた。ずっとずっと諦められなかったのは、名を呼べば彼女が振り返ってくれるからだった。

 でも、やっぱり横顔ばかりが思い出される。真っ直ぐに垂を見ることが出来なかったのは、彼女は水辺の神同然である田勢比古の妻であったからと、その目をじかに見てくすぶるだけの己の想いが炎に変わってしまうのが怖かったからで。

 そして、田勢比古が死んだあと、国久流は妖しく微笑みながら夫の魂を送る垂を見てしまった。

 美しい毒の花。国久流が知らない顔。

 国久流が知っている垂は、彼を拒んだりしない。けれど彼が知らない垂は、国久流を拒むかも知れない。

 そう思うと言えなかった。期待と不安がせめぎ合い、垂が泣いてさえ自分の想いを口に出来なかった。

「わしはてっきり、そなたが垂媛さまの次の夫になるのだろうと思っていたが。田津比古殿もそのつもりであったようだしな」

 竹代が国久流の幼い頃を知っているということは、垂の幼い頃も知っているということ。竹代の脳裏には子犬のようにじゃれ合う二人の姿が蘇っているらしい。かすかな同情も含んだ視線に気づき、国久流はつい彼を睨み返していた。

「案外と情の(こわ)いおなごであったということかな」

 竹代は国久流の心中を察し、咳払いをしながら海原へと目を泳がせた。

 同情されるのは、まだいい。自分の心が多少痛むくらいだ。

 けれど、あれ以来目も合わせてくれない垂のことを思うと叫びたいような衝動が突き上げてきた。これまで見て見ぬ振りをして、必死に押さえ込んできたもの。名前を呼ぶ度に垂が振り返ってくれることで満たされていた部分が、すっかり欠けてしまった苦しみ。

 この先ずっとこんな関係になるのだろうか。その内、俺は諦められるのだろうか。ほかの娘をすきになれるのだろうか。振り返ってくれない垂の傍にいて、更と寄り添い合う彼女を見ながら生きていけるのだろうか。

「ともあれ、垂媛さまが天宮の血筋と縁を結ぶことは、狭輪比古さまに報告せねばならん。そなたと田津比古殿には、垂媛さまが二野の名をお忘れにならぬよう、よくよくとりなしを頼むぞ」

 国久流が頷くと竹代は憮然としながら腰を上げた。再び船倉に戻っていく彼の背中には煩悶する胸中の様子が滲み出ていた。

 積み荷の上に居座ったまま、国久流は海岸を眺めて考えた。

 垂が邑長達を集めた席で何があったのか、あらまししか聞いていないが、倭文織(しどり)の発言のせいで今や津守(つもり)の一族に漂う空気は微妙で危ういものだった。皆、倭文織と彼女を庇護する垂に反感を募らせているし、これまではそんな感情を宥めてきた父も何も言わない。

 倭文織が津守の一族ではない海辺の邑長に接触を図っている様子もあり、彼女が水辺の族長の傍から父を排除しようとしているのは明らかだった。早くなんらかの手を打たねば、津守の一族が孤立してしまう。

 こんな時に自分が水辺を離れるのは気が引けたが、更と一緒にいる垂から逃げ出したいという気持ちを堪えきれず、国久流は舟に乗ってしまったのだった。

 でも。

 流れていく海岸の景色が、砂浜から黒く尖った岩礁域に変わるのを眺めつつ、彼は長い時間をかけて決めた。

「竹代殿、悪いが俺は媛ヶ崎のもとに帰らせて貰う」

 その日の航海を終え、布瀬の水辺の端にある邑へたどり着いた時、国久流は舟を降りるなり竹代に言った。

「なんだと?」

 途端に竹代の目には不信感が浮かぶ。水辺との関係が危ぶまれるこんな時に、使者である彼を送り届けるはずの国久流が途中で引き返す。そのぞんざいな扱いに警戒心を抱かれるのは無理もないことだ。

「戻るのは俺一人だ。ほかの兵は最後まで竹代殿をお守りしていく」

 国久流は弁解するのではなく、静かな決意を込めて真っ向から竹代を見上げた。すると竹代の警戒は少し和らいだ。

「なにゆえ引き返す必要があるのだ」

「あなたも察しておられる通りだ。水辺の様子がおかしい。今放っておいたら、取り返しのつかないことが起こる気がする」

 竹代の頬がぴくりと引き攣れたのを見逃さず、国久流は苦笑した。

 国が己の弱みをさらしていいことなど一つもない。友好な取引相手である二野にしたって、水辺の力が弱まれば二上川の河口を取り戻し、東へ向けた交易路を持つことが出来る。水辺の中で起こる変事は、竹代にとって本当は美味しいはずだ。

 ところが、身内のように長い付き合いをしてくれていた彼は、二野の臣ではなく津守の一族の友人として、国久流や田津比古のことを案じてくれている。二つの立場に挟まれ、彼は苦い顔をした。

「そうか」

 それでも瞬きをひとつしてそんな苦悩の表情は消し去り、子を見る父親のような複雑な笑みを浮かべる。

「惚れたおなごを盗られようとしている一大事。戻った方がよかろう!」

「そ、それだけではないぞ、竹代殿」

 不安を吹き飛ばすようにかっと笑った竹代は大声でそんなことを言ってくれる。積み荷を降ろしていた舟人達が二人を盗み見てにたにた笑いながら通り過ぎていくので、国久流は赤くなって狼狽えた。


 その翌朝、国久流は竹代と別れ、北へ向かう舟に乗って水門川のほとりを目指した。

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