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第五章(一)

 熱に身を任せて過ごしたあと、垂は心地よい怠さに沈むようにして眠った。

 そして砂浜の夢を見た。

 赤松の林を駆け抜けてたどり着く広い砂浜。田津比古(たづひこ)に引き取られてからの垂の遊び場だった。

 途中で拾ってきた松ぼっくりを両手に持って、布沓(ぬのぐつ)の中に砂が入ることも気にせず海へ向かって走る。

 媛ヶ崎の麓の岩場で遊んでいるはずの国久流(くにくる)を探して、垂もその岩場へ登っていった。

 すると、歩いている内に裳裾を踏みつけて転び、岩の上から海へと転がり落ちた。あちこちぶつけながらも国久流にあげるつもりの松ぼっくりは手放さない。そのまま夏の温い海の中へ落ちる。海底を覆うやわらかな砂のおかげで小さな垂でもどうにか足をつけて立つことが出来る深さのはずだった。

 が、海面へ向けてもがく垂の四肢を何かが捕らえた。その時初めて垂は魚霊(なみ)にじゃれつかれたのだ。山育ちの幼い垂は魚霊のことを知らず、彼女の身体を海に引きずり込もうとする彼らの遊びにただ気を動転させた。

 けれどそれは昔の話だ。

 幼い姿で海へ落ちた垂は冷静だった。だって、この海はもうわたしのものだもの。魚霊はいくらでも宥められる。

 しかし、垂は気がつく。彼女の両手を掴んでいるのは人の手だ。魚霊ではない。

 振り払おうとしたがびくともしなかった。それどころか血が止まるのではないかと思うほどの力で手首を締め付けてくる。

 細いが強い、男の手。相手は垂の背後にいるので姿は見えない。

 砂の海底はいつしか果ての見えない闇へと変わり、夏の温かい海は氷のような冷たさになっていた。ただ真っ暗な水に閉じこめられ、垂は必死でもがいた。

 息が出来ない、闇へ引きずり込まれる。

 四肢をばたつかせていた垂がごぼりと息を吐いた途端、不意に太陽の光が散る海面が戻ってきた。

 闇が照らされ、ざぶん、と揺れる。

 海に落ちた垂を引き上げるため、飛び込んで来てくれた幼い国久流。覚えのある光景だった。彼は夏の日射しさえ褪せるような光をまとって水の中に現れ、彼の目には見えないはずの魚霊を追い払った。

 そして、動転して暴れる垂を海面へと引っ張り上げてくれた。



 はっと目を見開き、青白い空気の中で身体を起こす。

 垂は大きく乱れた息を整えながら辺りを見回した。

 ああ、夢だ。よかった。久しぶりに海のすぐ傍で眠ったから、潮の香りがあんな夢を見せたのだろう。

 ほっとした途端に肌寒さを思い出し、垂は自分の肩を抱いた。隣には(さら)が眠っている。むき出しの肩が寒そうだったので、二人でもぐっていた(ふすま)を譲り彼の身体をくるんでやった。

 祭祀の疲れもあったのだろう。垂が髪や頬を撫でても、更は目を覚ます気配がない。

 しばらく彼の寝顔を眺めていた垂だったが、やがて一人で斎屋(いみや)を抜け出した。

 まだ誰も目を覚ましていない社の中をそぞろに歩く。神殿の脇を抜けて潮騒に呼ばれるまま森を抜けると、木々の枝が開けた先に海が見えた。

 青白い海。日が昇る前なので、空と水の間に境界は見つからないほどよく似た色をしている。今日は風がある。生まれ変わった海は静かに唄を歌っている。

 再び結ばれた神々はこれから多くの恵みをもたらしてくれるだろう。その証の輝きが浪間に満ちているはずだった。しかし垂の目には何も見えなかった。

 どうしてこんなに色褪せて見えるのだろう。

 仄暗く青い海、同じ色の空。垂が手に入れた国だ。これからもっと豊かになる布瀬(ふせ)の水辺だ。

 嬉しいはずなのに、目の前に広がる光景へ手を伸ばそうとは思えなかった。美しいけれど、美しいだけ。

 何故。昨日はあんなにすばらしい景色だと思えたのに。

 垂が呆然としていたのはどれほどの時間だったのだろうか。徐々に海の向こうが白んでいき、やがて仄かな赤みがさしてくる。空に敷かれた薄い雲が黄色く染まり、夜の青は西へと追いやられていく。

 朝焼けの美しささえ受け入れられずに立ち尽くしていた垂は、背後から聞こえた小枝を踏む音で我に返った。

 振り向くと、当人も驚いた顔で更が立っていた。垂が髪をほどいてしまったので、やわらかい茶色の流れが肩や胸にかかっているままだ。

「お姿が見えなかったので……」

「ああ、ごめんなさい。外の空気を吸いたかっただけなのよ」

 隣で眠ったはずの垂を探しに来てくれたらしい。冷え冷えとしていた心が少しだけほっとあたたかくなった。

 垂のことを案じて追いかけてきてくれた更が愛しい。きっとどこにいても彼はその腕を伸ばし、垂を包み込んで守ろうとしてくれるだろう。

 だったら大丈夫。わたしは、ちゃんと歩ける。そう思うと、褪せていた海や空にも色が戻るような気がした。

 垂は更の傍へと歩み寄り、彼が首にかけている琥珀と赤瑪瑙の御統(みすまる)を撫でた。

 すると更の手がおもむろに持ち上がった。垂も気づかぬ内に彼の両手は垂の頬を包み、やさしい力で彼女を上向かせた。その時、垂は自分の頬と更の掌の間に滲んだものの感触に気がついた。

「どうなさったのですか」

 松脂色の目が悲しげに曇っている。親指でそっと目許をぬぐわれ、垂は思わず後退る。

「……いえ、なんでもないわ。なんでもないの」

 なんだろうこの涙は。いつの間に流れ出てきたのだろう。

 垂はどうにか笑みを作り涙を拭き取るが、またすぐに頬が濡れてしまう。

 やがて喉を突き破りそうな鈍い痛みが湧き上がってきた。堪えようとするが、堪えきれない。

「斎屋へ戻っていて。すぐに行くから」

 不安そうな更の視線がいたたまれなかった。垂の冷静な部分が、この情けない姿を彼にさらすことを嫌がった。けれど隠れる場所もない。せいぜい更に背を向けることが出来るくらいだ。

 嗚咽が溢れてきてしまう。

 どうしてか分からない。

 悲しい。

 子供のように泣きじゃくりたい気持ちを必死に抑え、垂は両手で顔を覆った。

 何が悲しいの。すべて上手くいったのに。欲しいものは手に入れたのに。なのに、この朝焼けすらわたしを突き放しているみたい。

 更からの返事はなかった。垂の言いつけに従順に従ってくれる気配もない。彼はそこに立ちすくんだままだ。

「大丈夫だから、少し一人にしてちょうだい」

 垂の強い語気にようやく拒絶を感じ取ったのか、更の足音が動く。

 やわらかな森の土を踏む足は、遠ざかるのではなく近づいてきた。そう気づいた時には、後ろから肩を抱きしめられている。

「お傍にいると約束したはずです」

 垂を捕らえたのは、振り払えばいくらでも逃げられるような控えめな力だ。けれどあたたかかった。垂の心の震えを収めるには充分なぬくもりで、言葉だけが頑として譲らない響きで。

 垂は頷くしかなかった。頷いて、涙が止まるまで、ただ更の腕の中に身体を預けていた。

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