第五章(二)
無事に祭祀を終えた布瀬の水辺には、その後数日間の雨が続いた。翌朝の朝焼けが徐々に翳ったかと思うと、昼を過ぎた頃にはぽつぽつと大粒の雨が降り出し、それ以来雨脚はやむことがない。
天が不満を漏らすような雷も止まず、二野と天宮の使者たちを足止めすることになった。垂にとってはまさに恵みの雨だった。
天宮の使者がいる内にすべての邑長を集め、新たな族長の意向を知らしめるべき。垂媛さまのご威光に長達が打ちのめされている今こそ、絶好の機会なのです。
そう耳打ちしてきた倭文織の言葉に従い、垂はさっそく邑長達を館へ呼び寄せた。
皆、垂が何を言うのか分かっているのだろう。黙っていてもお互いの腹を探るような視線を交わし合い、どこかぴりぴりした空気が正殿に立ちこめている。
湖畔の邑長は垂の左手に、海辺の邑長は右手にずらりと並び、天宮の使者はその間に挟まれるようにして族長の席に座った垂と向かい合った。
冬眠から覚めた熊のような男も、自分だけが族長の前へ呼ばれたために予想していることがあるらしい。情けない顔にうっすらと汗を滲ませて、先ほどからしきりにそれをぬぐっていた。
「使者殿もご覧になったとおり、この春の祭祀はつつがなく済んだわ。あいにくと春の嵐が続いているけれど、これが過ぎればこの有磯の海を渡る舟は水辺の海神がお守りくださるでしょう」
「何よりでございます。さすがは名にし負う垂媛さま。これで我らが天宮もこの海の恩恵に与ることが出来まする」
使者はようやく垂へ向けて頭をたれた。彼が畏怖の表情を浮かべるのは、過日の祭祀の夜に天へ向けて突き上がる海を見たせいだ。
垂は彼の態度に大いに満足した。自分の力の前に人が平伏すさまを見るのはなんと心地がよいのだろう。
「けれどそれについて、わたくしはこの場で皆に明かさねばならないことがあるわ」
海辺の邑長達の中で、最も垂に近い上座に座っていた田津比古の肩が揺れる。その向かいでは倭文織の紅い唇があでやかに弧を描く。
使者が恐る恐る顔を上げるのを待ってから、垂は仰々しく溜め息をついた。
「田勢比古さまの殯のあと、わたくしはなかなかその死穢をぬぐえずにいたわ。そんなわたくしを助けてくれたのが更――天宮の五百枝殿よ」
「おお、なんと――」
使者は目を瞠ったが、〝五百枝〟の現状を聞き知っているはずだった。垂の身の回りを世話する侍婢の中には海辺の出身である女もいる。更がどんなふうに過ごしているか――客分というには垂と近しすぎる暮らしをしていることくらい、海辺の邑長達には簡単に伝わっていくはずだ。垂自身もそれを隠そうとしなかったし。
「五百枝殿はこの地の霊ともよく馴染み、わたくしの穢れをすすぐのを手伝ってくれたわ。また先日の儀式のおりには、神々と繋がったわたくしの魂を引き戻す役目を負ってくださった。五百枝殿がいなければ此度の祭祀は失敗していたでしょう」
邑長達のどよめく声が気持ちよく耳を撫でる。雨音や雷鳴も、水辺に起ころうとする大きな変化を予感させるように響いている。不穏な空模様が長達の冷静さをかき乱していた。
すばらしい日ね、倭文織。
垂が目配せすると、彼女は雷鳴と光の中に浮かべた笑みを返してくれた。
「そして、使者殿。わたくしは夫であった田勢比古さまの跡を継ぎ族長となったわ。それはわたくしたちの間に子がいなかったから。つまりわたくしの跡を継ぐ者も定まっていないということ。わたくしは急ぎ新しい夫を迎え、この水辺を守る役目を繋いでゆかねばならない。そこで、」
視界のすみで田津比古が握った拳を震わせている。それでも口を挟まず黙っているのは、彼が垂を族長と認めざるを得なくなった証でもあった。
野心以上に保身を考えてくれる賢い男でよかったと思いつつ、垂は厳かに目を閉じた。
やがて覚悟を決めたように顔を上げ、真っ直ぐに天宮の使者を見つめる。緘黙したまま存分に彼を緊張させたあと、垂は朗々と言い切る。
「五百枝殿を、わたくしの夫にいただきたい」
頼みでも、提案でもない、きっぱりとした決意。
「五百枝殿は未熟なわたくしを補える霊力をお持ちだわ。そしてこの縁は、布瀬の水辺と天宮に新たな繋がりをもたらすでしょう」
根回しを済ませてあった湖畔の邑長達は粛々とその言葉を受け止め、海辺の邑長達は戸惑いながらも異を唱えられずに押し黙っている。
使者も驚いて息を吸ったまま、吐き出すことを忘れて顔を真っ赤にしていた。
垂が静まりかえった正殿を悠然と見渡すが、誰一人として異議は唱えない。
「皆にも異論はないかしら」
雨と風が正殿の中にも吹き込んできた。黒い雲の上でくすぶる雷は長達を監視するように唸っている。
そんな中、垂の左手に並んでいた倭文織が腰を上げた。彼女は裳裾を捌いて、垂に向き合う形で座り直す。大仰な動作はほかの邑長達の顔を上げさせた。
「天宮との縁が深まるのは、水辺にとってよきことと思いまする。東西の海は一本の路となり、西国にも負けぬ繁栄をこの地にもたらすでしょう。垂媛さまには一日も早く新たな夫を選んでいただきたいというのも、我ら邑長の思うところ。五百枝さまをいただけるよう天宮の千敷さまにお願い申しあげることに、諏訪潟邑の倭文織は異論ございませぬ」
金と翡翠の首飾りを外し、それを掲げて倭文織は高らかに言った。邑長として正式に意志を示す作法だ。彼女に続いて湖畔の長達が次々と首飾りを外す。
「五百枝さまを、垂媛さまの夫君にお迎えするのがよろしいと存じます」
「我も、垂媛さまのご意向に異論はございません」
掲げられた金と翡翠の粒が、風に揺れる灯火に赤くきらめく。垂はうっとりと目を細めた。倭文織の完璧な根回しに感謝しつつ、互いに顔を見合わせるだけの海辺の邑長達を順に見つめていく。
「海辺の方々にも異存はないということでよいのかしら」
田津比古はまだ拳を震わせていた。言わないのか、言えないのか。追いつめられた彼を袖の陰で嘲笑い、垂はその隣に座っていた邑長に水を向けてみた。
「押羽殿はいかが?」
「はっ……」
その邑長は上擦った声とともに顔を上げた。垂が首を傾げ微笑むと、喉を上下させて唾を飲み込むのが見える。
彼は隣にいる田津比古の様子をちらちらと窺った。押羽も津守の一族に連なる者だ。その頭領である田津比古の意志が固まっていれば、垂の問いにもたやすく答えられただろう。
しかしうつむく田津比古は垂に恭順するでもなく、かといって反論するでもなく、拳を握りしめて何事かを考え込んでいる。
「いかが、と訊いているのよ」
微笑んだまま、しかし先ほどより冷たい声で先を促すと、押羽は不自然なまでに背筋を伸ばした。そして首飾りを外し、それを握りしめた手を恐る恐る天井へ向けて伸ばす。
「た、垂媛さまこそ、この布瀬の水辺の族長。我はそのご意向に従おうと思います」
震える声で口にしたのは、およそ田津比古の心境を酌めていない言葉だった。
不服ではあるが沈黙するのは、垂の主張を受け入れる証。押羽は田津比古の態度をそう受け止めたのだろうが……。
「たわけ!」
宣言した途端、彼は田津比古に胸ぐらを掴まれて後ろへ投げ飛ばされた。
ぎゃっと悲鳴をあげて雨が吹き込む窓辺まで転がる押羽。田津比古は彼を転がした勢いのまま立ち上がり、垂が座る族長の席へ迫ってどっかと腰を下ろした。
「我は賛成出来ませぬ! 水辺の祭祀に外つ国の血を交えるなどもってのほか!! そのような前例は一つとしてございませぬ、神威を曇らすことになりかねませぬ!」
唾どころか火も吐きそうな勢いで怒鳴る田津比古だったが、その脇からはころころと愛らしい笑い声が響いてきた。
「何がおかしい、倭文織殿」
「田津比古殿の仰ることには理が通っておりませぬ」
「理?」
「さよう。我らの新たな長となられた垂媛さまをご覧なさりませ」
倭文織は田津比古ではなく、固唾を呑んで成り行きを見守る邑長達に向けて言った。
「まず一つに、垂媛さまは湖畔のお生まれか? 否でございましょう。ここから遠い山間が垂媛さまの郷里にございます。湖畔のどの邑の血も引いてはいらっしゃらない。それはそなたが最もよく存じておりましょう、田津比古殿」
田津比古の顔がさっと白くなった。彼はすかさず反駁の言葉を口にしようとしたが、倭文織はそんな隙も与えずさらにまくし立てる。
「しかし先の族長の妻となり、その縁をもって田勢比古さま亡きあと族長の座をお継ぎになられた。それを認めたそなたが今さら血筋云々を騒ぐとは筋の通らぬ話! そして二つに、五百枝殿――更殿の手助けがあったからこそ此度の祀りはうまくいったのだと、垂媛さまが仰せではございませぬか。神威は曇るどころか、田勢比古さまが引き出したそれを遙かに越えておりました。方々もご覧になったでしょう。月をも貫かんばかりの潮の柱を!」
倭文織の言葉でその場の空気がぐんと冷える。それはよほど長達を戦慄させる光景だったらしい。
倭文織は流れるような動作で立ち上がり、歯を食いしばる田津比古を傲然と見下ろした。
「そなたが天宮と縁を結ぶことに異を唱えるのは、己の倅と垂媛さまとを妻合わせ、恐れ多くも垂媛さまの義父として祭祀に口を出したいからであろう。湖畔と海辺の領分を無視した野心じゃ。族長に対して二心ありと見なされてもおかしくはないことぞ」
「な――」
得意げにがなる倭文織。田津比古も青ざめたが、垂の背中にもすっと冷たいものが伝った。
そこまで踏み込んではいけない。
確かに倭文織の言うことには――田津比古が祭祀に口を出そうとしていることには誰もが気づいていだが、誰もが見て見ぬ振りをしてきたことでもあった。
それは、田勢比古が死に垂がその跡を継いだ時、実質的に水辺の頂点に立ったのが田津比古だったからだ。彼は長く田勢比古を支えてきたし、津守の一族の連携が海上の秩序をより強固にした。水辺の勢力拡大が叶ったのは、紛れもなくこの義兄弟が息を合わせて水辺を治めてきたからだ。
田勢比古の妻に過ぎなかった垂の意見より、皆が田津比古の意見を重く受け止めたのは当然である。
しかし、それも祭祀が行われたあの夜までのこと。
垂には田勢比古を凌ぐほどの霊力がある。邑長達がそれを認めたために、垂は一夜にして田津比古の上に立つことが出来た。
必然、垂の側につく倭文織の立場は強くなり、相対して田津比古の立場は弱くなる。これまで口を噤んできたことを、指摘できるようになる。
だけどそれではだめだ。その対立は決して表へ出してはならぬものなのだ。
「そのあたりでおやめなさい、倭文織殿。田勢比古さまを支え続けてくれた田津比古殿に二心などあろうはずがないわ。水辺のためを思って言ってくれたことが、わたくしや湖畔の邑長達と少々異なる意見だったというだけのことよ」
垂は平静な声で、内心では慌ててそう取り繕った。けれど倭文織の発した一言がこの場の何かを壊した。田津比古をはじめ、これまで狼狽えていた津守の一族に連なる邑長達から、棘をはらんだ視線が飛んでくるのを感じた。
「されど田津比古殿のおっしゃることに筋が通っておらぬのは、方々もよくお分かりでございましょう。垂媛さまには、ぜひ、五百枝殿を夫として迎えていただくがよいと存じまする。水辺のためにも、垂媛さまのためにも」
海辺の邑長達の冷ややかな目を無視し、倭文織はその場を収めてしまった。最後には慈しむような眼差しを垂に向けてくれたが、嫌なわななきが背骨を伝い上がってくる感覚は止まらない。
それでも幕引きは鮮やかでなければ。垂は居住まいを正して精一杯凛とした笑みを作り、湖畔の邑長達の後ろへ隠すように控えさせていた侍婢に合図する。
「使者殿、天宮へお帰りいただいたあとは、わたくしの願いを千敷殿にお伝えいただきたいわ。異母弟君を手放すのは惜しいでしょうが、この垂が五百枝殿を望んでいると。そして、千敷殿と新たな縁を結ぶことも、わたくしの望みであると」
ぞろぞろと現れた侍婢は、垂の言葉とともに天宮の使者の前に宝物を並べた。
砂金に翡翠に、鉄剣と鉄の具足をひと揃い。韓渡りの絹織物や薬草。どれも布瀬の水辺においてでさえ得難い高価な品々。
使者は生唾を飲んで、目の前で輝く宝物を凝視する。
「こんなもので弟君の埋め合わせにはならないでしょうけど。わたくしからの真心の証として千敷殿に差し上げるわ」
そして最後に、木札を麻紐で綴った書簡を使者の目の前で漆塗りの箱に収め、茜がそれを使者に手渡した。
「よいお返事を期待していると、千敷殿にお伝えしてちょうだい」




