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第三章(三)

 帰り道が分かったら、帰してやろうと思っていた。

 けれど、羽毛のようにやわらかく、時に溶けた銅のように熱い輝きを見せてくれる更の魂に触れるのは心地いい。

 彼に魂駆ける術を教えながら、水辺に立ちこめる靄の中を二人で歩き回っているこの頃、その心地よさはますます強く感じられるようになった。

 おまけに、やはり彼がいると地霊もすぐ傍まで歩み寄ってくれる。あと少しで触れられるところまで。

 一度触れることが出来さえずれば、地霊も神のようなものだ、垂が請うことで彼女の中の死のにおいを吸い取ってくれるだろう。そうして地霊自身が厭う穢れを消して垂を清らかに戻し、また大きな身体ですり寄ってきてくれるはず。

 そういう意味でも更のことは手放せない。垂はぎゅっと唇を噛んだ。

「その者の面倒は垂媛さまがみております。この館へも連れてきているはずですな……」

 田津比古の視線は垂を責めていた。更が天宮の人間であったら、まさか本当に夫とするつもりではないだろうな、と。

 垂は迷った。ここで更を天宮の使者の前に出し、彼の出自を確かめるか。確かめたあと、どうするか。

 そして何より、更自身がどうするか、それが怖かった。

 彼が、何も思い出せていなくても「故郷へ帰る」と言ったら。

「舟が沈んだのなら族長へお伝えせねばなりません。生きている者があるなら、誰であろうと連れ帰ってやらねば。ぜひ、ぜひとも」

 使者は額を床にこすりつけて懇願してくる。

 「連れ帰る」。

 その言葉に垂は震えた。

 やっぱり、この男の前に更の姿を見せない方がいいのではないだろうか。そうすれば更の出自は分からないまま。どこへ連れて行かれることもない。

 記憶をなくす前の更が何者か分からなくても、これから垂が傍に置く理由はいくらでも考え出せる。だったら、

 けれど垂は、自分で更に言った言葉を思い出してしまった。

 垂は、更の自由にしてよいと言ったのだ。追い出すことも無理に留めることもしないと。

 約束を破られるのはきらい。

 族長の妻という立場の影で、迎えにこない田津比古や国久流を恨み、人知れず泣いていた幼い垂が悲痛な声で記憶の底から叫んでくる。

 そうね、何も言わずに約束を破るのはいけないことだわ。

 涙を浮かべて睨みつけてくる幼い己に笑い返し、垂は噛みしめていた唇をようやく開いた。

「よいでしょう。茜、更を連れてきなさい」

 茜が立ち去るのを見送った垂は、じっとこちらを見つめている国久流と目が合った。

 なあに、その目は。

 言いたいことがあるなら、はっきり口にしたらどうなの。

 垂はいらだちがこみ上げるのに任せ、ついと顔を逸らした。国久流には見えていないはずだが、彼も何かを察したように垂の御座所から視線を外す。



 

五百枝(いおえ)さま――!」

 天宮の使者が正殿へ現れた更を見るなり平伏する姿は、初めから仕組まれていたもののように思えた。

 そう思わなかったのは更と二野の使者だけだろう。特に更は、這いずり寄ってくる使者の様子に驚いて後退り、助けを求めるように御座所の中に隠れた垂を見てきた。

「お待ちなさい使者殿。この者は己のことを何も覚えていないと言ったはずよ。怯えさせないで」

 垂は彼女を隠していた薄絹の中からすかさず現れた。驚いた使者たちは我に返って頭をたれる。

「大丈夫よ、座りなさい。どうやら、こちらの天宮の使者殿がお前のことを知っているようだわ」

 垂に肩をさすられた更はほっと頬を緩めたが、またすぐに表情を曇らせた。

 垂の胸もゆらりと揺れて曇る。

 なぜそんな顔をするの。お前は、わたしの傍を離れていかない、そう思ってもいいの。

 更を座らせた垂は御座所へ戻ることなく、回り廊に裳裾が流れるほどの下座であることも気にせず、彼の隣に寄り添う。

 これで更に伝わるだろうか。今ここでは言えないことが。

「使者殿、〝五百枝〟殿とは、どういう方なの」

 天宮の使者は垂の行動に驚いていた。しかし何度か唇を空回りさせたあと、目を潤ませて更を見つめ、語り始める。

「五百枝さまは、韓へ渡る舟に巫子(みこ)としてお乗りになりました。我らの族長・()(しき)さまの異母弟(おとうと)君でございます」

「千敷殿の弟? 妹ではなくて?」

 垂は抱えていた更の左腕を無意識のうちに撫でた。更の魂がざわついたのを感じたからだ。

 天宮では、族長の異母妹で名を百舌鳥(もず)という女が祭祀の頂点に立っている。舟の航行を守るという役目は垂と同じ。そして彼女は千敷の妻でもあると聞いた。

 しかし彼らにほかのきょうだいがいたことなど知らない。天宮へ赴いたこともある田津比古や国久流が驚いているところを見ると、二人も更――五百枝の存在を知らないようだ。

 垂の頭の隅で鉦を叩くような鋭い音が響く。

 おかしい、という疑い。

「五百枝さまは、百舌鳥さまの同母弟(いろと)でいらっしゃいます」

「同母弟?」

「さようでございます。お二人の母君は天宮の外浦で海神を祀っていた巫女。お二人も母君のお役目を継がれ、幼い頃より天宮の海を鎮めていらっしゃいましたが、ご覧の通り五百枝さまのご容姿は……常人とは異なっていらっしゃいますゆえ、永く祭殿の外へはお出になりませんでした。我もお姿を拝見したのは舟の出立の時が初めてでございます」

「なぜ、その五百枝殿が舟に乗ることに? 持衰(じさい)にでもするつもりだったの?」

「韓までは長き舟旅となりましょう。舟を守る巫子が必要であると千敷さまがおおせになり……」

 同じことだと思いながら、垂は目を瞑った。

 海が荒れれば、〝五百枝〟は浪の下に沈められることになっただろう。もしかしたら、彼が祭殿の奥にしまい込まれていたのはそのためかも知れない。

 いつか海の神に捧げられるために育てられた。

 垂と一緒。

「ともかく、そなたの言う五百枝殿がここにいる以上、舟は沈んだと考えられるわ」

 瞼を持ち上げた垂の目は冷たく澄んでいた。

 手放したくない。

 わき上がる思いでいっぱいになる。

 無理に留めることはしないと言った。

 でも、手放したくないと伝えることは許されるはずだ。

「田津比古殿、国久流殿、明日はここより北の磯辺をよく探って。天宮の舟のものが流れ着いて残っているかも知れないわ。邑長たちにも、海で何か拾い上げた者はいないか探すように命じてちょうだい。千敷殿にお返しできるものは、皆返すのよ」

 その言葉とは相反して、垂は更の腕に絡めた手で彼の衣をきつく握りしめた。

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