第四章(一)
更に「きっと天宮へ帰りましょう」と迫る使者をどうにか追い返し、一日は終わった。
結界から出た身体を祭事に用いる水で清め、真っ白な衣に着替えてから祭殿へ入った垂は、ふと自分のあとを追ってきた人の気配に気がついた。
侍婢が板戸を閉める前に振り返ると、夕暮れの薄闇の中に更が立ち竦んでいる。彼もまた真白い衣の上下に身を包んでいた。そして、振り返った垂をじっと見上げている。
「あがりなさい」
更は瞼を伏せてかすかに頷き、いつもよりずっと遠慮がちに祭殿へと上ってきた。
色々と乱れる思いがあるだろうから、今夜は彼に祭殿へ来よと声をかけなかった。
本当は一晩かけてでも更を説き伏せ、再び天宮の使者に会わせる前に彼の心を垂の許に縫い止めておきたかった。けれど、青ざめる更の横顔がそうはさせてくれなかったのだ。 にも関わらず更が祭殿へ来てくれたせいで、垂は甘い期待を抱いてしまう。
「更……いいえ、五百枝殿と呼んだ方がいいかしら」
火を灯した祭壇へ向き合う前に、垂は更に背を向けたまま問うてみた。しかし返事がない。怪訝に思って肩越しに更の様子を窺ってみると、彼は泣き出しそうな顔をしている。
あまり感情を語らない彼の表情が歪んでいることに驚き、垂は思わず更に歩み寄った。
「悪かったわ。お前は、まだ何も思い出せていないのだものね」
彼の下瞼に溜まっていた涙を袖でぬぐってやる。絹越しにじわりと滲むあたたかい水。素直に涙を拭かせてくれた更は、垂の言葉に頷き返した。
あどけなくも見えるそんな仕草に、垂の期待はますます膨らんだ。しかし、同時に不安も大きくなる。更は記憶がないからこそ手を差し伸べた垂に親しみを感じているのであって、彼が〝五百枝〟に戻った時、同じように思ってくれるかは分からない。
「今宵も飛べそう?」
「はい」
ここで否と答えれば垂に置いていかれる。そんな必死さが滲む返事に、垂は苦笑して更の手を取った。
「では行きましょう」
水神を慰撫する長い祝詞を唱え終えると、垂は祭壇に背を向けて、彼女の背を見つめながらじっと待っていた更と向き合った。
初めに垂が靄の中へと抜け出し、更の光る身体にそっと触れる。彼はそうするだけで身体から抜け出せるようになっていた。
勘がよいと思っていたが、天宮の巫子であると聞いて納得出来た。素質が充分にあるのだ。ならばなおのこと傍に置いて、祭祀のすべてを手伝わせたい。垂が田勢比古を佐けていたように。
月は沈んでいたが、光を含んだ靄のおかげで布瀬の水辺はいつものように明るかった。靄に阻まれ星空は見えない。代わりに地上で無数の星が光っている。
水神と海神が番う時期を察し、力を増す神々の息吹を感じて地霊や魚霊も一緒に騒いでいるのだ。
今日はそんな地上へ降りず、垂は更の手を引いたままどんどん灰色の空へ昇っていった。
やがて潟湖が隅々まで見渡せるほどの高みへたどり着き、垂は北西の方角を指さす。
水辺を囲む緑濃い山々。北の半島からずっと南まで途切れることなく続く峰の向こうに、果てのない海が広がっていた。西国へ通じる海だ。
「使者殿は、お前の母君は天宮の外浦で海神を祀っていた巫女だと言っていたわ。だからきっと、あれがお前の母君の故郷よ」
更は垂の指先をたどり、墨汁のように真っ黒な海を茫洋と見晴るかす。
「天宮へ帰りたい?」
風も浪もない夜の海。見ているだけで呑み込まれそうな不穏な色をしていた。更の心が、あの真っ黒な海に連れ去られてしまいそうだった。
しばらく黙ってその海を見つめていた更の瞳が、静かに垂の姿を映す。松脂色の光彩が奥からじわりと光り、彼の姿もやわらかな柑子色に明滅した。
薄く開いた彼の唇に指先を押し当て、垂は更の言葉を封じる。
「今はまだ答えないで。その代わりに、考えておいて欲しいことがあるの」
地上では垂の不安も知らずに地霊と魚霊が飛び跳ね、彼らのぶつかる音が土鈴の音のようにころころと響いてきた。
うつくしい魂の営みの音。まだその中に混じれない自分。傍にいて垂を受け入れてくれるのは、更だけだ。ずっとこの淡い色の瞳の中に映っていたいと思う。
でも、それを決めるのは更であって欲しい。
「帰るところが分かったら、お前の自由にしていい。その言葉を翻すことはないわ。だからこれはわたくしからのただのお願い。命令ではないの。そのつもりで、聞いて」
韓へ渡る舟を守るため、祭殿から出された〝五百枝〟。供物として生きることしか許されなかった者。
垂は海へ沈められなかった代わりに、水辺の支配者に差し出された。そして、自ら供物であることをやめようとしている。だったら〝五百枝〟も――更も一緒に。
「更、どうか布瀬の水辺に残って。そしてわたくしの夫になって」
松脂色の目がゆっくりと瞠られていく。そこに溢れてくるのは驚きだけでなく――でも、垂は気づかなかったことにした。考えた上での、彼の言葉で答えを受け取りたかった。
「今度の祀りが上手くいったら、わたくしは本当の意味で布瀬の水辺の族長になれる。そしていよいよ新しい夫を選ばなくてはならなくなるわ。だから、その時に答えを聞かせて」
* * *
潮風が日に日にぬるんでいく。桜は散って、新芽の産毛に覆われどこかぼんやりとしていた山々の緑が濃くなっていた。夏に向かって季節が変わっていくにおい。国久流は明るく過ごしやすいこの陽気が好きだった。
馬に乗って海沿いを北へ上っていくと、まだ桜が残っている場所もあった。垂が好きな花。
たったっと軽快に駆けていた馬の脚を緩めさせ、思わず立ち止まる。
「若さま?」
「ん、いや……少し休むか」
同じ津守の一族の若者が怪訝そうにしながら馬首を並べてきたので、国久流は葉と花を一緒に繁らせた桜の木陰へ行くよう彼らを促した。
陽気に汗ばんでいた身体を休める仲間の傍ら、国久流は腰に佩いてた大刀を抜き、花をたっぷりと残している枝をしゃきんと切り落とす。
茶色がかった緑の葉には力強い赤い葉脈が走り、濃い紅色の花弁は今が盛りと開ききっている。風で花が飛んでしまうかな、と思いつつ、それを馬の背に乗せてあった荷にくくりつけてから、国久流も木陰に腰を休めた。
そして、二人の供がそれぞれの水筒で喉を潤しつつも痛ましげな目でこちらを見ていたことに気づいた。
「なんだ?」
「垂媛さまへ差し上げるのですか」
「悪いのか」
「諦めが悪うございますな、若さまも」
「どういう意味だ」
言うだけ言った若者は溜め息をつき、また竹筒の水を呷った。その隣ではもう片方の若者がにまにまと笑っている。
「海での拾い者が垂媛さまにとってのお宝となってしまった以上、若さまがせっせと貢ぎものをしてどうなるのです。報われるはずもないのにと思うと見ているこちらが情けなくなります。もうおやめになってほかのおなごを娶りなされ。若さまこそ田津比古さまのあとをお継ぎにならねばならんのですぞ」
国久流より三つ年上で、妻もほかに通う女も子供もいる若者は哀愁の漂う声で言った。
そういう声を出したいのはむしろ国久流の方だ。しかし、まだ「垂が決めたのなら」と引き退がるわけにはいかなかった。その気持ちは、こうして水辺の北の邑を回っていっそう強くなった。
とはいえ、それをこの者達に言っても仕方ない。諦めが悪いと言われるだけだ。ゆえに国久流はむすっとして黙った。
「なんなら若さまも外つ国の娘を妻にと請うてみなされば。二野の狭輪比古さまの係累に稚鳴媛といううつくしい娘がいるとか」
「稚鳴媛は狭輪比古さまの叔母君だ。もう四十路も超えていらっしゃるわ」
「まさか! 十四の花盛りの乙女では?」
「三十年前はそうだったろうがな」
にまにましていた方の若者は顔を引き攣らせ、納得いかないというように手近なところに生えていた土筆をむしる。誰に吹き込まれた噂だったのやら。三十年前は愛らしい乙女だった当人の現在の顔を知っている国久流にとっては、胸をときめかせようもない話だった。
腕を枕にごろりと寝転がる。近くに蓬の茂みがあるので、さわやかなよい香りが漂ってきた。あれも摘んで帰ろうかと思いつつ、国久流は桜の枝の間から見える青い空を睨みつけた。
更の身分が分かったことはあの場だけの話にしておくつもりだったが、天宮の使者が嘆きと感激に耐えかねたのか、津守の一族を集めた翌日の酒宴の席で早々と曝露してしまった。
おかげで、今や垂と父の間の溝が決定的になったと一族には見なされている。垂は殯明けの日に宣言したとおり外つ国の男を夫に迎え、津守の一族とは縁を切るつもりなのだと。
垂が田津比古に育てられたことは皆が知っているので、彼女には田津比古の息がかかっていると思っている者は少なくなかった。だから余計に〝垂が田津比古を裏切った〟というふうに見えてしまう。
けれど実際は違う。田勢比古に嫁いだあとの垂は、田勢比古のものだった。多分、国久流が知る限り。
自分が〝ふられた〟と見なされ同情されるのはまだいい。(本当はよくないけど。)けれど垂が父から離れることで、海辺と湖畔の邑の間にもともとある対抗心のようなものが表面化することだけは避けたかった。
そしてほかにも気がかりなことが。
垂の命で一昨日から、「転覆したと思われる天宮の舟の痕跡を探せ」と北の邑々へ呼びかけている。国久流も自ら長たちのもとへ足を運び、何か見つかっていないか確認していたが……。
これといって大きな手がかりはなかった。韓へ渡るほどの舟だ。漕ぎ手も多く船倉もある大きな舟で、交易の品々も載せていたはず。
それが、このひと月の間にはほとんど岸に流れ着いていない。砕け散ったとおぼしき船体の破片が少しと、ある磯の奥に出来た天然の岩屋で、蝋化し始めた亡骸が二つ見つかったが、それだけだ。残りの舟の破片や舟人や、船荷はどこに?
それと同じで、更――いや、〝五百枝〟だけが媛ヶ崎の足許に流れ着く、そんなことがあるだろうか。海に在るすべてのものは大いなる潮流に運ばれて移動する。彼の周りにほかの漂着物がなかったことにも、今さらながら違和感を感じた。
得心がゆかない点はまだある。巫子だという五百枝。では、彼の身体にある傷はなんだ。
国久流が投げた刀子を受け止めたのは偶然だろうか。武人のような動きであると思ったのは、自分の気のせいなのだろうか。
「若さま、気晴らしが必要ならば今夜は館へ戻らず、どこかの邑でお泊まりになっては」
真面目な慰めだったのか、垂を諦めようとしない国久流へのからかいだったのかは分からない。いつしか目を瞑って考え込んでいた彼は、その言葉に少なからず不快感を覚えてむくりと起きあがった。
「今日は、いい。加野邑まで行ったら戻るぞ」
再び馬を駆って海岸伝いに北上し、目的の邑で長に用件を伝えたあと、国久流は言葉通り水門川のほとりへ戻った。
そして日暮れの空の下、垂の館へと向かう。天宮の舟の残骸や船荷がほとんど見つからないことを報告しようと思ったが、国久流は門前で押し留められた。応対に出てきたのは津守の一族の娘であり、国久流にとっては従妹にあたる茜だ。
「祭祀が迫っておりますゆえ、垂媛さまは当日まで俗人の方とはお会いになれません」
「そうか」
予想していた答えだったので、国久流は鞍上から桜の枝と蓬を詰めた袋を茜に渡した。
祀りが終わるまで垂と話をするのは無理か……。その待ち時間がとても嫌なものに思える。しかし身を清めている彼女に近寄るわけにはいかない。
でも、更はこの館の中で、彼女の傍で過ごしている。
嫉妬と疑念が喉の奥で黒く混じり、国久流はその苦みに顔を歪めながら垂の館に背を向けた。




