#07
フォトプロス領南方には「ジェーンの森」という名前が付けられた大きな森がある。ジェーンという少女が殉じた場所であるという伝説から、そう呼ばれている。
「――すっごく、悲恋だよねぇええ!」
そのジェーンの森に、馬と男の荒くなった呼吸音を塗りつぶすように、アレクシアの声が響き渡る。
「ああ、うん、そうだな?」
アレクシアの口から語られるジェーンの森に伝わっている伝説を、修は右から左に聞き流していた。
修はこの国どころか、この世界の人間ではないのだ。歴史の影に葬られた悲しき少女の伝説にまったく興味がないわけではないが、それを知る上で必要な歴史上の出来事についてちっとも注釈がないうえに予備知識なしではさっぱり分からない話だったのである。
アレクシアのマシンガントークにまったく口を挟むことができなかった修は、悶々とするよりは適度に聞き流すのが吉かと早々に見切りをつけてしまったのだ。
「はんのー、うすくなぁい?」
「そんな、まさか。騎士ギャリックの行動には感動させられたぞ?」
「……それ、そっこーで死んだ裏切り者の名前なんだけどぉー」
「んん……間違ったかな……騎士ギャリー?」
「それは寝たきりの村長だよ。べつに騎士でもなんでもないし」
登場人物からして、似たような名前のものがゆうに五十人を超えているであろう話である。それをほぼ右から左へ聞き流しているのだから、うろ覚えどころか端役であったギャリックやギャリーの名前が出てきただけでも僥倖だろう。
「どーしてアレクサンドラの名前がでてこないかなぁー? ボクとおんなじ名前、おんなじ愛称なのに」
しかも主役である少女ジェーンの親友で共に冒険する仲間というおいしいポジションだ。まっさきに名前をあげてほしかったなぁと唇を尖らせた。
「アレクサンドラ、アリダイオス、アレサンドロス……すぐに思い出せるだけでも、似たようなのが三人もいるじゃねーか」
「まぁー、語源はぜんぶおんなじだし、今でもよくある名前だからねぇー」
何を隠そう、アレクシアの名前も少女ジェーンの親友アレクサンドラから取られている。
修はほとんど聞き流していたので覚えていないが、物語の彼女は聡明で、気高く、心優しい、美しい女性として伝わっているのだから、その伝説にあやかりたいと考えるのも無理はないのかもしれない。
「うん、まぁ、そんなことより」
覚えていないことをいつまでも話題にするのは厳しい、修は露骨に話題を切り替えた。
「そんなことよりじゃないよー」
おんなじ名前だからこそ、褒めて欲しかったのにぃ……アレクシアは不満げに顔をしかめる。
「いつまで、乗ってればいいんだ……?」
私闘を切り抜けた修が、また同じようにアレクシアを前に抱きながら馬を走らせることかれこれ数時間……獣道のような、しかし固く踏み固められたその道に入って、修の目に映る景色は先ほどから木と草だけしかなかった。
「あともーちょっとだよ。ほら」
アレクシアが木々の隙間を縫うように、遠くを指差す。
「見えてきた」
まるで絵本の中から飛び出してきたような、ぽっちゃりとまるっこい、レンガ造りの二階建ての家が見えた。
「おおおおっ! 本物だ! カタリナ様だ! 生命の魔女様だ!」
ありがたやとでも拝みそうな勢いで、疲労の色が見え隠れする赤毛の男は、テンプレートな黒衣を着たカタリナの前で小躍りし始める。
「……これ、なに?」
それにうんざりとした様子で、カタリナが聞いた。
「ややっ! これは失礼。俺はスクリーヴァ領バクスター村の占星術師で、名前をアレクサンドロス・バクスター。バクスターは村の名前なので、気軽にアレックスとお呼びください」
カタリナの目の前で、先ほどまで馬と併走していたアレックスは片膝をついた。その行動に、彼女は若干引いたように身を反らせる。
「なんか星が導いたとかなんとかでさぁー……」
申し訳なさそうに、
「おさむに私闘いどんで、負けたひと。とりあえずそれでさよならしたかったんだけど、うっかりカタリナのトコいくってバレちゃって」
「拝めば寿命が一年延びると聞いてっ!」
アレックスは片膝をついたまま、とても輝いた目でカタリナを見つめる。まるで、敬虔な信徒がマリア像に対してそうするかのように。
「延びるんですか?」
「……そんなわけ、ないでしょう?」
修の質問に頭を抑えながら、呆れたように答えた。
「あはは。でもけっこー昔から言われてるみたいだよ? それこそボクが生まれる前から」
「私を、拝んで、命が延びるなら、私、研究する必要、ないじゃない……」
カタリナは相当昔から若返り、長寿、不老の三種を研究する魔女である。
それこそ彼女は昔からこの姿のままだと言われ、誰も本当の年齢を知っているものはもうおらず、そして本当の年齢を知ろうとするものももういない、そんなことすら囁かれるほどだ。
「こういうの、やだから、ここ、住んでるのに……」
法律上、魔法の研究所や工房は暴走による爆発の危険があるため、村や町からそれなりの距離を離さなければならないと決まっている。しかしカタリナは法定上の距離よりもさらに離れた場所に工房を作り、住んでいた。
――ご覧の通りの理由からである。
「のろいで寿命ちぢめてやったら?」
「それ、傷害、殺人……」
「じゃ、不能に」
「傷害……」
「マンドラゴラのよーぶんっ!」
「だから、殺人罪……」
「森の中でくまさんにであっちゃうのはよくあることっ!」
「お前ひでぇな。本人の前で殺すだのなんだのと……」
「あはは……修には言われたくないなー?」
「だから、ちがう」
長い道中で、修は結局、中二病じみた「教会の暗殺者」疑惑を解くことができなかった。
道中、偶然目についた「修の世界と同じ植生であろう毒キノコ」について質問してみたり、見知らぬ土地での病気への警戒として、森に入ったときに「虫を媒介とする疫病」について口を滑らせてしまった、というのも後押しの原因であった。
「……どういうこと?」
「あー、うん。悪いけど、カタリナにはかんけーない話」
「そう」
それ以上カタリナは追求することをしない。他人に興味がない世界というか、情報の共有をしようとしないのが常識である世界なのだろうということを実感させた。
「とりあえず、上がって……赤毛以外」
「そんなっ! あんまりだっ!」
しかし有名人にアポ無しで会おうというその非常識さに対しては当然であった。
○
「あらためてぇ、彼女がカタリナ。ボクの友達で、かなり優秀な呪術師」
「魔術師」
「専門が、若返りと不老と長寿。基本はからだのことと、おくすりのことが専門かな? ボクの知り合いで、いちばんものしりな呪術師っ!」
「魔術師」
アレクシアが自慢げに胸を張る。呪術師と魔術師でどういう違いがあるのか修にはよく分からないが、さきほどから何度も訂正しているのだ、きっと本人にしてみれば明確な違いなのだろう。
「でぇ、こっちがおさむ。さむら、おさむ。姓のほーが名前の前にくるトコらしいよ。あとでちゃーんと説明するけど、この国の人じゃないんだ」
「紹介にあずかった、佐村修です。こっちに合わせてオサム・サムラと名乗ったほうがいいのかな?」
「かまわないわ」
「ボクが説明したしねぇ」
「その程度で目くじらをたてるほど、俺たちは狭量ではないからな……ところでカタリナ様、俺にはお茶を出してくださらないんでしょうかね? さきほどから、のどが……」
アレックスは、自分以外に出された緑茶を羨ましそうに眺めている。先ほどまで息を切らすほどに走っていたから、なにか飲み物が欲しいのだ。
「……招かれざる客に、出すお茶は、ない」
外で待たせることなく、家に上げただけでも幸運に思いなさい。とでも言うように冷めた口調で言い放つ。
「あらためて、カタリナ、です。姓は、ないわ……研究所に所属している、魔術師で、専門は、若返りと、不老、長寿。基本的に、これしか、研究してないわ」
「くーかんのせーぎょ? みたいな専門外もやってなかった?」
「特定空間における、時間の制御による、若返りと、長寿の研究のこと? ……ちっとも、専門外じゃ、ないわよ?」
空間の制御が若返りや長寿の研究に繋がるなど、専門家以外の人間にしてみれば、数学のフェルマーの小定理がインターネットセキュリティの強度に関係するというレベルでつながりがよく分からないものだろう。
「魔法の道具で時間を逆巻きにして若返り……みたいな?」
修がそれを口にできたのは、とある国民的アニメの影響だろう。
「――あるの?」
「いえ、SF……あー、架空のお話です」
「……そう」
カタリナは肩を落とした。その方向性での研究では、どうやら成果が芳しくなかったらしい。
「そろそろ本題にはいろっか?」
話を切り替えるように、ぱん、と両手を打ち合わせて鳴らした。
「来る前に、言ってた、面倒ごと?」
「うん、そー」
「……あんまり、そういうの、持ってきて欲しくないんだけれど」
「でもおさむの知識、役に立つかも」
「頭、いいみたい、だしね」
「うーんと……そういうことじゃなくてね?」
一拍おいて、
「おさむ、異世界のひとなんだ」
「……うん?」
「いせかい」
「そう」
やけにあっさりと呟いて、カタリナは緑茶を一口。
「……いせかい、というのはなんだ?」
「こことは、異なる世界のこと……その程度の意味よ」
「…………うん?」
アレックスは首をかしげる。いまいち理解できないようだ。
「おどろかないんだー?」
「聖書」
「あー、なるほどー」
この世界の宗教には疎い。修はアレクシアに「聖書?」と問いかける。
「天と地と人の三界があるの。でぇ、ボクたちのいるところが人界。ボクたちの世界からみると、天界と地界はまーったくちがう世界。つまり、異世界ってことだねぇー」
聖書を信じているから、異世界が存在するというファンタジーな事象を受け入れているのかと、修は「なるほど」と納得した。
「つまり悪魔ということかっ!」
――そしてバカのアレックスはあさっての方向に勘違いするのである。
「ちがうよ?」
「つまり天使だったということかっ!」
「……赤毛はちょっとだまっててくれないかなぁ?」
うざいなぁ、と顔をしかめた。
「おさむはね、三界とは違う世界みたいなんだ」
「……魔界?」
「つまり――魔物かっ!」
「だまらないとほんとマンドラゴラのよーぶんにしちゃうよ?」
話が進まないとばかりに、アレックスに冷めた言葉を言い放つ。
「はなしを戻すと、おさむは魔界の人間じゃない」
「じゃぁ……どこ?」
「かがくの世界のひと」
科学という単語を耳にしたとたん、カタリナは動きを止めた。
「あなたの、住んでいた……国名は?」
「えっと、日本です」
「にほん……にほん、ね」
カタリナは頭を押さえる。
まるで頭痛を我慢しているかのようだ。
「なにか知ってるの?」
「心当たり、多すぎるくらい」
「――本当ですかっ!」
まるで頭痛を我慢するように頭を押さえたことが気になるが、しかし元の世界――日本に心当たりがあるというのは修にとって朗報だった。
「まって……慌てなくても、私は逃げないわ。それで、私に、なんの、話? 日本からの、大使とか……実は、命を狙われてる、とか……そういうのはお断りしたいわ」
「まぁー、そんなに物騒な話じゃないよ? だいいち、大使だったらボクが直接そっちに連れてくし」
アレクシアは騎士である。仕事柄、顔はそこそこ広く、政界に多少は知り合いが存在する。仮に大使だったら、わざわざ半日もかけてカタリナのところへは連れてこないのは当然だ。
カタリナのところへ連れてきたのには、その魔力の制御能力や知識を頼りにして、もっと魔術的な相談をするためである。
「おさむ、おうち、帰りたいんだってさ」
その一言に、カタリナは「うん?」と声を上げた。
「……自分で帰れないの?」
こちらに来ることができたのだから、帰ることも容易いだろう、カタリナはそう考えていたのだ。面倒ごととは、きっとそれ以外のことなのだろうな、と思っていたのである。
「というより、どうしてこっちに来たのかもさっぱりで」
「……そう」
なにか思い当たることがあったのか、ため息をついて、カタリナは席を立つ。
「ほんとうに、面倒ごと、持ってきてくれたのね……」
漂白剤などが使われていない茶色くて目の粗い紙の束と、やや古ぼけた布の装丁がなされたハードカバーの本が一冊。
紙の束の表面には、おそらく活版印刷であろう文字が羅列されている。そちらの文字を修は読むことができない。
「えっとぉ……これ、なぁに?」
だが、ハードカバーの本だけは、一部だが、読むことができた。
「研究所の、とある魔術実験に関わる、私の、独自資料……と、それに関係した、昔の、小説」
「えっとぉ……著、ジョージ・S・コンサド……?」
――道産子、鈴木譲司、著。
「"魔法と出会った錬金術師"」
――魔法と出会った、ある化学者の生涯。
「誰だ? その、ジョージ、というのは」
「えーっとぉ……数十年前の、言葉の先生だっけぇ?」
「言語学者、ね……表紙もそうだけど、作中でも、創作された言葉、たくさん出てくるのが、とても有名な作品」
装丁には、知らない国の言葉と、
「……日本語だ」
日本語が併記されていた。
「えっ?」
「こっちの丸かったり角ばってたりする文字。日本語、だ」
「……やっぱり、読めるのね」
嫌な予感が当たってしまった――カタリナは深く深くため息をついた。
「それ、かなり原本に近い、写本だから。本人の文字、そのままで書いてあるハズよ」
読んでみて、と。カタリナから差し出されたその本を、修は恐る恐る受け取った。
「ど、どういうことぉ?」
数十年前のものと言っていた。つまり彼は、修と同じようにこちらにきてしまった人間なのだろう。
彼は元の世界に帰れたのだろうか?
もしかしたら、こちらの世界で、その生涯を閉じてしまってはいないだろうか?
これほど開くのが怖い本を、修は手に取ったことがなかった。
「たぶん、適当に書いた、って、当時は言われてて……原本に近くないと、まったく、文字が違うから、苦労したわ……」
「だから、どぉーゆーこと?」
アレクシアがせかす。
修の隣で、かなりの声量で発せられた言葉だが、しかし修には、そんな声すら遠くに聞こえてしまう。
それくらいの恐怖を感じながら、しかし読めば進展すると、勇気を振り絞ってその本を開いた。
「……順を追って、話すわ」
書き出しには、こうある。
「彼は、教会の認めていない存在……」
――私は、つまるところ、転生者である。