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第七話 卵は片方にだけ

第七話 卵は片方にだけ


 オルセは、階段を一段ずつ上がった。


 急かさないように先で待っていると、背中から声がした。


「桶が減ったね」


「ご存じでしたか」


「去年は、あの辺りにもあった」


 杖の先が、踊り場の隅を示した。


 俺はそこを見た。


 床板の色が、丸く変わっていた。


 昨日の雨で始まった問題ではなかったらしい。


「今日、少し直してもらいました」


「それはいい。バルトは、桶の位置を変えるのがうまくてね」


「屋根を直すほうは」


「今年も、君が直している」


 俺は二号室の鍵を開けた。


 バルトさんへ聞きたいことが、また一つ増えた。


     *


 オルセは、入口で部屋を見渡した。


 二つの寝台。間の机。窓辺の洗面鉢。


 鞄を扉側の寝台へ置くと、窓のほうへ歩いていった。


「こちらの椅子を、少し動かしてもいいかな」


「どうぞ。どちらへ?」


「窓に向けたい」


 俺が椅子を引くと、老人は腰を下ろした。


 窓の向こうでは、雨に洗われた木々が日に照らされていた。


「今年は、葉が早いな」


「去年は、まだなかったんですか」


「枝の先に少しだけだった。朝には霜が降りたよ」


 俺は水差しを机に置いた。


 この宿へ来たのは、三か月前だ。


 客のほうが、俺より長くこの窓の景色を知っている。


「ご夕食は、食堂でよろしいですか」


「ああ。二つとも、向かい合わせに頼む」


「お連れ様がお見えになってから、焼き始めましょうか」


 オルセの手が、杖の柄の上で重なった。


「いや。私が下りたら、二つとも出してほしい」


「分かりました」


 俺は戸口へ戻りかけて、立ち止まった。


「卵の追加が、銅貨一枚になります。先ほど頂きそびれました」


「おっと。私も忘れていた」


 オルセは財布を開け、硬貨を渡してくれた。


「バルトは、いつもあとでまとめていたからね」


「私は忘れそうなので、先に頂いています」


「正直でよろしい」


 褒められたので、ありがたく受け取った。


     *


 夕方の台所で、豆の汁物を温めた。


 汁を一口確かめ、塩を少し足す。


 芋は二人分を刻み、粉をまぶす前に分けた。片方には卵をつけるので、そのぶん皿の余白も考えたほうがいい。


 鉄鍋を火へ載せたところで、食堂に杖の音がした。


 オルセが窓際の卓へ座っていた。


 緑の外套を脱ぎ、襟元の少し擦り切れた上着になっている。剣は部屋へ置いてきたらしかった。


「いつでもいいよ」


「少々お待ちください」


 俺は鍋へ芋を広げた。


 二枚同時に焼くと、木べらを入れる隙間が狭い。


 昼に失敗したことを思い出し、欲張らず、一枚ずつ返した。


 縁が色づく。


 蓋を取ると、湯気の向こうに、こんがりした面が見えた。


 卵は小さな鍋で別に焼いた。


「卵の黄身は、柔らかいほうでよろしいですか」


 台所から尋ねた。


「しっかり火を通してもらえるかな」


「はい」


「流れると、服に落とすからね」


 俺は卵にも蓋をした。


 鍋を置く場所を替え、二枚の芋を皿へ移す。


 今度は、どちらも割れなかった。


 汁物と一緒に食堂へ運ぶ。


「卵のついたほうは、どちらへ?」


 オルセは、向かいの席を示した。


「そちらへ」


 俺は空の椅子の前へ、皿を置いた。


 もう一枚を、老人の前へ。


 匙と杯も、二つずつ並べた。


「熱いうちに、お召し上がりください」


「ありがとう。いい匂いだ」


 オルセはナイフで芋の端を切った。


 ぱり、と小さな音がした。


 一口食べて、うなずく。


「これは、酒が欲しくなるね」


「お出しできますが」


「いや、やめておこう。階段が長くなる」


「段数は変わりませんよ」


「昔は私も、そう思っていた」


 老人が笑ったので、俺も少し笑った。


     *


 向かいの皿から、湯気が消えかけていた。


 オルセはゆっくり食べていた。小さく切り、よく噛み、ときどき窓のほうを向く。


 玄関の鐘は鳴らなかった。


 俺は空いた鍋を洗い、拭き、もう一度食堂を見た。


 卵の黄身は、まだ丸いままだった。


 こういうとき、どう声をかければいいのか。


 遅れている客の食事を、勝手に片づけるわけにはいかない。かといって、乾くまで置いておくのも気になった。


 水差しを持って、卓へ行った。


「そちらのお料理、いったん台所へお下げしましょうか。お見えになったときに、温めますので」


 オルセが俺を見上げた。


 それから、向かいの皿へ目を落とした。


「すまない。言っていなかったね」


 指先で、使っていない匙の柄を揃える。


「妻の分なんだ」


「奥様の」


「もう、亡くなっている」


 俺は水差しを持ったまま、何も言えなくなった。


 オルセは椅子の背へ体を預けた。


「毎年お願いしていたから、つい、そのまま頼んでしまった」


「そうでしたか」


 ようやく、それだけ言えた。


「置いておいてもらえるかな。私が食べ終わるまで」


「はい」


 俺は水を注いだ。


 二つの杯に、同じくらいずつ。


 何か気の利いたことを言わなければと思ったが、浮かばなかった。


 注ぎ終えてから、尋ねた。


「お味は、いかがですか」


 オルセは少し目を細めた。


「うまいよ。芋をこんなふうに食べるのは、初めてだ」


「よかったです」


「あれも、芋は好きだった」


 老人の視線が、向かいの皿に戻った。


「卵も。ただ、必ず黄身まで固くしてね。私が柔らかいのを食べると、まだ早いと言ったものだ」


「オルセさんは、柔らかいほうがお好きなんですか」


「そうだね」


 俺は献立の紙を見た。


「では、ご自分の分にも追加できますよ」


 オルセが、少し驚いた顔をした。


 それから、声を出して笑った。


「商売がうまいな」


「残り二つです。明日のお約束はできません」


「今日は、これで十分だ。もうあまり入らなくてね」


 老人の皿には、芋が半分ほど残っていた。


 俺はうなずき、台所へ戻った。


     *


 食事の終わりに呼ばれるまで、俺は玉ねぎを刻んでいた。


 明日の仕込みだった。


 ときどき聞こえるのは、匙の触れる音と、椅子が小さくきしむ音だけだ。


 昨日は、客が席を立つたびに、何をするのか気になった。


 今夜は、皿を下げる時機が分からなかった。


「ワタル君」


 呼ばれて、手を拭いた。


 オルセの皿は空になっていた。


 向かいの皿には、芋と卵が手つかずで載っていた。


「下げてもらえるかな」


「はい」


「残してしまって、すまないね」


 俺は空の皿を重ね、もう一枚へ手を伸ばした。


「こちらは、どうしましょう」


 オルセは皿を見た。


「明日の朝、温められるだろうか」


「芋は焼き直せます。ただ、卵は硬くなってしまうと思います」


「そうか」


「今夜なら、まだ食べられますが」


 老人は困ったように、自分の腹へ手を当てた。


「昔なら、二人分くらい食べられたんだが」


 俺はその皿を持ち上げた。


「もしよろしければ、私が頂いても?」


「君が?」


「賄いを、まだ用意していませんので」


 食べてしまった昼食が遅かったから、後回しにしていた。


 そろそろ腹も減っている。


「お代を頂いた料理ですから、お嫌でしたら下げておきます」


「いや。食べてもらえるなら、そのほうがいい」


 オルセは、ほっとしたように言った。


「ありがとう」


「こちらこそ」


 俺は皿を台所へ運び、鉄鍋を火に掛けた。


 芋だけを戻し、弱火で温める。


 卵は脇へよけた。これ以上焼くと、縁が硬くなりそうだった。


 食堂へ戻ると、オルセはまだ座っていた。


「ここで食べていってくれないか」


 向かいの椅子に、手が添えられた。


 俺は一度、帳場を見た。


 玄関も、階段も、ここから見える。


「では、失礼します」


 椅子を引いて座った。


 ナイフで卵を割ると、黄身はきれいに固まっていた。


 芋と一緒に食べる。


「柔らかいほうが、うまいだろう」


 オルセが言った。


「これはこれで、おいしいですよ。黄身を落とさずに済みます」


「同じことを言う」


 老人は笑った。


 今度は、向かいの皿ではなく、俺の顔を見ていた。


     *


「奥様とは、旅をなさっていたんですか」


 食べながら、尋ねた。


 オルセは首を横に振った。


「私は、仕事であちこち行ったがね」


「お仕事は」


「騎士をしていた。といっても、後のほうは砦で書類ばかり書いていたよ」


 部屋へ置いてきた、飾りの少ない剣を思い出した。


「休みが取れたら出かけよう、と言っていた。春になったら。次の仕事が終わったら」


 オルセは杯を回した。


 もう中身は、ほとんどなかった。


「退いたら、今度こそ、ともね」


 俺は水差しへ手を伸ばした。


 注いでいる間、老人は黙っていた。


「こちらの宿は、奥様のお気に入りだったんですか」


 窓辺の椅子を思い出して、聞いた。


 オルセは水面を見ていた。


 やがて、顔を上げた。


「妻は、この宿に来たことがないんだ」


 俺の手が止まった。


 老人は、二階のほうを見た。


「あの窓からの景色を、一度見せたかった」

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