最終話
「私を塗ると、あなたもお喋り上手に」
捨てたはずなのに、まだ声が聞こえてくる。
恐ろしくなって、夕夏はその場から逃げ出した。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
夕夏は口紅から逃げるように、必死で走った。足から血が流れていたが、痛みは感じなかった。
やっとの想いで家に辿り着き、夕夏は家の中にある口紅を全てゴミ袋に捨てた。自分でも驚くぐらいの量の口紅が家の中にはあった。
最後のゴミ袋の口をしっかりと結んでいると、夕夏の携帯が鳴った。画面を見ると、母と表示されていた。
懐かしい気持ちが湧き起こってきた。
長い間、誰とも話していなかったような気がした。
「もしもし。あ、母ちゃん。うんうん。元気でやっとるよ。仕事も慣れたし、良くしてもらっとる。友達も出来たし、なんも心配なか。大丈夫。楽しくやっとる。うんうん。正月には帰るけん……」
夕夏の目から涙が零れた。
「……母ちゃんの、お雑煮食べたか」
夕夏の言葉に、『帰ってきたら、たんと食べればいいさ』と母が笑った。
母に会いたいと思った。
夕夏は泣きながら笑った。
自分は何をしていたのだろう。
どうして口紅を塗るだけで、生まれ変われるなどと思ったのだろう。
これは全て自分の心の弱さが原因なのだ。
久しぶりに熟睡できた。
翌朝、目覚めた夕夏は、前向きな気持ちになっていた。鏡に映るスッピンの自分の顔を見つめた。
悪くない。そう思えた。
私の人生はここから始まるのだ。
テーブルの上には、昨夜書いた退職届が置かれてある。
やり直すんだ。やり直せるはずだ。
「私は、私らしく生きていけばいい」
夕夏は、鏡の中の自分に話しかけた。顔を洗いタオルで拭き、鏡を見た。
「なんで?」
夕夏の笑顔が恐怖に変わっていく。
化粧をしていないのに、夕夏の唇は赤かった。まるで赤い口紅を塗ったみたいだった。
夕夏は慌てて、タオルで口を拭った。なのに、口紅が取れない。夕夏は必死で、何度も何度も唇を拭った。
唇が切れて血が流れたが、どうやっても口紅を取ることが出来ない。足元から恐怖が襲いかかってきた。
「いやー!」
夕夏は悲鳴をあげた。
鏡の中の、赤い唇が歪んでいく。
どんよりした曇り空だった。
線路わきのフェンス沿いを夕夏が歩いている。
白いワンピース姿に裸足の足。長い髪は乱れ、不自然に赤い唇の夕夏が、どこを見ているのかわからない虚ろな目で歩いていた。
夕夏の横を電車が通過した。
その時、赤い口紅が笑ったように見えた。
前から若い女性が歩いてくる。その女性は、見てはいけないものを見たかのように、夕夏から目を逸らした。
夕夏とすれ違った時、女性が道に落ちている口紅に気づき、何気に拾った。
女性は口紅のキャップを開け、中の色を見た。
赤い口紅。
「綺麗……」
女性は、魅せられたように、自分の唇に口紅を塗り始めた。
赤い唇が歪んでいく。
おわり




