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シュレディンガー散歩

 猫の死骸を見に行くことにした。

 それというのも、車で帰宅する途中で出くわした猫のことが気になって仕方なかったのだ。前を行く車がハザードランプを出したままゆっくり走り去って行くので一体どうしたのかと思ったら、道路の真ん中に猫がいた。しかも悠々と俺の車に歩み寄ってくるではないか。エッ、エッ、などと戸惑っているうちに猫はミラーの死角に入り込み、俺はパニックになりつつもハザードランプを灯し、ドアを開けた。猫は、このまま走り出したら車体に巻き込まれるであろうほど近くにいて、俺を見上げて、呑気にニャアニャア鳴いていた。大きな音を出したら逃げていくかと思い強めにドアを閉める。再び開けると、まったく動じずにニャアニャア鳴いていた。恐ろしく人馴れしている猫だ。首輪があるのを確認し周囲を見回したが飼い主らしき姿はなく、というか歩いている人すらなく、後続車が詰まってきていたので、焦った俺は意を決して両手で腹を掴んで持ち上げた。すると猫は何ら抵抗することなく、俺の手によりされるがままに歩道へと退かされ、その間もニャアニャア鳴いていた。

 ひと仕事終えて車を出すと、バックミラーにぎょっとする光景が映っていた。なんと猫は、後続車にもふらふら近寄っていったのだ。一部始終を見ていた後続車たちは猫を大きく避けていたが、あれじゃあ何も知らない車が来たら……などと考えるうちに自宅に到着したものの、どうにもモヤモヤするので、また家を出ることにした。来た道を戻り、あの猫がどうなったかを確かめに行くのだ。


 黄昏時が近く、もう車を出す気分にはならなかった。車ならほんの十分足らずで来れた道を三十分かけて徒歩で遡る。幸いもう春の気温だから、と思っていたらしっかり寒かった。しぶしぶ歩き始めるも、この時点では、いったい何をしに行くつもりなのか自分でもよくわかっていなかった。居てもたっても居られなくなった、のは確かなのだが。

 一度は抱き上げた生命が、ダメになってしまったところを見てどうしようというのか。見にさえ行かなければ、猫を助けただけのほのぼのエピソードで終われるのではないか。セイブ・ザ・キャットを実践した人間として持て囃してもらえるのではないか。そんなことをうだうだ考え、何も定まらないまま、俺は歩き出した。


 いつも車で往来している道だが、歩行者として通ると、歩道の狭さに気付く。道路の様子を伺いながら歩こうとすれば、頭が車道にはみ出てしまう。血の交じったタイヤ跡は見当たらない。車とすれ違うたびに頭を引っ込めないといけないのが億劫になって、やがてただ歩くだけにした。

 車で通るときは自動でライトが点灯する高架下に差し掛かる。ここにあった、「レンタルビデオ」の看板を掲げていた謎のプレハブ小屋はいつから無くなったのか、もう覚えていない。おそらく真っ当な商売ではなかったはずだ。興味はあったが、その内側を知ることは終ぞなかった。


 とりあえず交通安全地蔵尊に手を合わせることにした。奮発して百円を放るつもりで賽銭箱への扉(木製)を開けようとしたら、鍵がかかっていた上にささくれで指先を刺された。何だかムカついてきて「俺に血ィ流させといて死んでましたじゃタダじゃおかねえからな」と念じて手を合わせてしまった。仏にここまで強気に出たのは初めてだった。

 オラつきを引っ張ったまま散歩を再開したせいで、スピードを出す車とすれ違う度に「ここの制限速度わかってんのかタダじゃおかねえからな」と怒りを覚えた。怒りのままぶつかりおじさんをしたらタダでは済まないのは俺の方である。


 歩いているうちに頭の中がだいぶ整理されてきて、記憶の底から浮上してきたのは芥川龍之介の話だった。『地獄変』にて凄惨な光景を糧に傑作を作り上げる絵描きの狂気を描いた芥川には、本人も似たようなことをしていたエピソードが残されている。関東大震災の折、川に浮かぶ遺体の山を見物しに行く様子を、数々の作家仲間に書き残されている。しかも「一緒に見に行こうぜ」と誘ってまでいる。

 俺が猫を見に行こうとしているのも同じようなことなのだろうか。だとしたら、これは物書きの(さが)なのかもしれない。そう言い聞かせるが、大文豪の権威を我田引水して残酷さに正当性を与えようとしている自分に嫌気が差すのも事実である。

 救いの無い結末を嫌う人間は当然ながら多い。救いが無いのは現実だけで充分だから、作家ならハッピーエンドに書き換えてくれとまで言う読者もいる。気持ちは分かるが、めでたしめでたしで終わる物語は、読者の想像力を閉ざしてしまう。マッチ売りの少女が救われてしまっては、現実にいる少女の悲劇に誰が目を向けるのか。

 やたら中央線に寄って走る車とすれ違う。「何かを避けたのか」と緊張する。

 しかし、そこには何も無かった。確認し、また歩き出す。


 猫を抱き上げた場所まで引き返したが、その道中には何も無かった。血の痕跡すらも。

 俺が観測したのは「猫の死骸は見つからなかった」という事象だ。猫が生きていることとイコールにはならない。だが、安堵している自分に気付き、俺はようやく、ここまで歩かせた自分の気持ちに名前をつけられる。俺は不安だったのだ。何事も起こっていないことを確かめたくて、ここまで来たのだ。

 帰り道も交通安全地蔵尊を通る。成功報酬としてもう百円積もうかと思ったが、指先をケガしていたことを思い出し、それで手打ちにすることにした。

もっとのんびりしてる散歩を書きたい。

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