どうやら縁(えにし)をくれたらしい。
「裕璃ちゃん、おかあさんのお迎えよ」
保育士の先生に呼ばれて幼女は顔をあげた。今日の母親のお迎えは遅くなってしまったから教室に残っている友達もまばらだ。バイバイと無邪気に手を振る娘を抱き上げ、まゆは微笑んだ。
「遅くなってごめんね。今日は何をしていたのかな?」
「ママ、今日はね、せら先生とお絵かきしたの。お歌も歌ったよ」
楽しそうに話す娘の姿を見てまゆは頷いている。そのまゆに保育士のせら先生が話しかけた。
「櫻井さん、少しよろしいですか?」
「はい。何かありましたか?」
「裕璃ちゃんなんですが、少し咳き込んでいたので注意して下さい。それと他の連絡事項は連絡帳に書きましたので」
分かりましたと頷いて、まゆは保育園を出た。熱が出れば明日は娘を保育園に預けることは出来ない。仕事の事が頭を過った。
「まま?」
「なんでもないの。さぁ、帰りましょう。今日はどんな夕飯にしようかな? 裕璃ちゃんは何が食べたい?」
知らず知らずの内に顔色を曇らせていた母親を、心配そうに見上げる娘にこれではいけないと気持ちを切り替えた。
後ろに子供を乗せて自転車を漕ぐ。
明日の仕事は、万一の時には若い子に頼むしかない。その分、出社出来るようになったら頑張ろうと気持ちを切り替えた。
『……今は大変でも辞めたら駄目ですよ。もう少し踏ん張れば、きっと落ち着きますよ。それにせっかくの勤めです。辞めたくないんですよね?
大丈夫です。ここに独り身の無理の利く人間がいます。若い子だっています。子育て介護はお互い様。いつか無理ができる状態になったら頑張ればいいと、私はそう思います。
今は無理ができる人間に甘えてください。少しの間なら踏ん張ってますから、ね。大丈夫ですよ』
何処かから、そんな声が聞こえた気がした。
――……あの時は何を言っているんだ。同じ給料で働いているんだから不公平だと思っていた。でもまさかあの時の一言が今分かるとは思わなかったなぁ。
今となってはただ懐かしい思い出となっている、若い日のあの頃をまゆは思い出していた。
その当時、子育てとの両立を悩む年上の先輩に対して、トレードマークのブニッとした笑みを浮かべて、あの変わり者の恩人はそんな台詞を話していた。口に出した事は守るとばかりに、その後、育児に奮闘する同僚のサポートに積極的に入っていた。そしていつも口にしていた。
『無理なときは無理と言えばいい。助けて! って言われても助けられないほど、この会社やここの人達は駄目じゃない。信じて声を上げればいい。少なくとも私は動きます』
友里が不幸な事故にあって、一時期は思い悩んだ時もあった。助けてくれる人がいないときもあった。だが、落ち着いた頃、『局連合』を中心とした有志一同で送る会が開かれた。初めて会う人も多い中、自然と話題は変わり者だったが、送る会に来た人々にとっては「良い人」だった有里の話題になった。
――……ふふ、有里先輩の送る会がきっかけで出会って結婚した人も出たんですよ。仕事の助け合いネットワークも出来ました。先輩のお陰ですって報告したら、きっと先輩はこう言うんでしょうね。
『なぁに言ってんの。そんなの各自の努力でしょ。もし私がきっかけになったなら、それは嬉しいけどさぁ』
そう言って照れ笑いで逃げていくんでしょうね。でも先輩がいなかったら、こうはならなかったんですよ?
あの時、先輩のご両親を共にお迎えしたのをきっかけで私が結婚したみたいに。
ねぇ、先輩。
私は先輩に受けた恩を、他の誰かに返せてますか?
ねぇ、先輩。
もしも先輩が生きていたら、今の私を見て何て言うんでしょうね。
いつも揺るがず、我が道をひたすらに歩いた先輩みたいにはなれなかったけれど、私は私の幸せの為に頑張ってます。
「ママ? どうしたの? なんで黙ってるの?」
「なんでもないよ、裕璃ちゃん。さぁ、大急ぎで帰ろうね。パパも裕璃ちゃんも大好きな、今日はハンバーグにしよう!」
「わぁい! やった」
無邪気な娘の歓声を背に、まゆは自転車を漕ぐ足に力を込めた。
『まゆちゃんは十分過ぎるくらい頑張ってるわよ。あんまり頑張りすぎるなよ。頼れるところは頼っちゃえ』
耳に過ぎる風の音の中、ブニッと笑う変わり者の声が聞こえた気がした。
昨日と同じように見える今日。
今日の続きである明日。
でも、毎日少しずつ違っている。
取り返しがつかない変化もある。
今はこの瞬間しかない。
それを恩人との時間が教えてくれた。
だから今日をひた走る。
明日を迎える為に。
断じて子どもの名前を考えるのが面倒だった訳ではないです。
お読みいただきありがとうございました