2
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男の子はそれからずっと付いてくる。くれた銃を拾って向けてみても、そのあと投げて泥水の中に叩き込んでみても文句ひとつ言わなかった。もう銃は本当に向けないみたい。「こんなことするの、初めてだよ」って言ってた。
僕はこの子から逃げたくて足早に上へと向かってる。寝床の方へ。後ろから男の子が追ってくる圧力で頭が押しつぶされそう。
とりあえず僕のバッグから何か物を盗んだわけではなさそうだけど。
この子はどうしたいのだろ。聞きたいけど。
男の子に対して、あまり込み入った質問は心変わりを誘発させるよ。
「あ、名前なんて言うの」
階段の内側に付いた手すりを手の上で滑らせながら聞く。
「僕?」
うなずく。呼び方、なくて困ってたし。
「おのでら、ここのだよ」
「ここの?」
「そう」
「ここのって、なんて書くの」
踊り場でターンする。ここのはなんだか楽しそうなステップを踊り場で踏む。聞いてなかったのかな。僕が首を回して振り向くと、すたすた先に行ってるのに気付く。速足で追いついてくる。
「あ、数字の九だよ。しち、はち、きゅうのきゅう」
そう言いながら両手で七、八、九と順番に作る。
小野寺九。不思議な名前。兄弟が九人もいる人なんて見たことないけど。そういうこと?
「不思議、って顔してるー」
君はにやけるのを必死で堪えてますって顔してるよ。
また踊り場でターンする。九も今度はおとなしくついてくる。心の中で呼び続ければすぐ覚える。相手が誰であれ名前は覚えなきゃ。
「兄弟はやっぱり九人いるの? とか聞かないんだ、かえりは」
銃がよぎる。忘れろ。
「聞いて欲しかったの?」
「ううん。あんま好きじゃない」
「そうなの」
「名前に色々言われてるみたいでやだ」
「ふうん」
ここの、って響き、素敵なのに。
「かえりも変な名前だよね」
「そう? 僕は気に入ってるけど」
自分の名前が言われるのは気にするのに。僕の名前には変だよねって平気で言うんだ。ちょっとむかつく。
九も気付いたようで「だって、」から続けない。
「うん。銃がないとしゃべりづらいね」
笑顔でそう言う。こわばった肩を隠して僕は平然と昇る。
昇ってく。昇ってく。
「まだ着かない?」
九の声で振り返る。今何階かを通過した所。九が立ち止まって廊下の方を見てる。ひとりごと? 僕は歩みを止める。どうしたの。
「ねえ、まだ着かないの、その部屋に、かえり」
廊下に目を向けたままそう言う。
「えっ…と」
どこだったっけ。
上へ行くことで頭がいっぱいだった。
九がこっちを見る。
「会ってからどのぐらい昇ったか分かる?」
「僕数えてない」
僕も数えてなかった。
「まずい」
向かうべき方向を失ったら九がなにを言い出すか分からない。なんでついてくるかもはっきりしないのに。出来るだけ刺激を与えない方がいい。
「どうしても必要なもの? その荷物」
「あ」
「む?」
踊り場の赤絨毯の上に染みがある。
これ、僕が倒れてたときに出来た染みかな。
「どうしたの?」
さすがに小さすぎるか。
残ってるんだろか。もうずいぶん時間が経ってる。
足跡はどうだろ。階段に立て膝で絨毯に目を凝らす。見つからない。じゃあ場所を変えてみようか。
「ねーえ」
九の声で顔を上げる。
「あ、ああごめん」
すぐ視線をずらし、階段の先を見比べる。絨毯を子細に眺める。
上かな、下かな。
「どうしたの?」
「ちょっと跡を残したかもと思って」
「荷物置いた階だっていう?」
「そうそう」
まだ行き過ぎてない。上だ。なんとなく思う。
まあ、見つけられなくてもスニーカーと乾パンだけ。裸足にも慣れた。
乾パンぐらい探せばきっとどこにでもあるはず。根拠はないけど。
「上に行くの?」
「うん」
九は目を細める。なんで、って顔。
「まだ着いてないのはなんとなく分かってるの」
そう強く言うと九もそれ以上なにも言わずついてくる。
踊り場に着くたび絨毯を見つめる。廊下も一応覗く。
「どの階もおんなじ」
九が呟く。僕は相槌を打つ。本当に。
また階段を昇る。
「あ」
思い出す。ストーブもあった。
「この階?」
ちょうど踊り場で叫んじゃって九が喰いついてくる。
僕は首を振る。
「じゃいっこ下?」
「そういうことじゃないの。きっとまだだいぶ上」
上なはず。
階段に足を乗せて、一段体を持ち上げる。
九が追いかけてくる気配。
ストーブ、火、つけっぱなしだよね、確か。まずいなあ。
昇る。
何度目かに廊下を覗くとドアが開いてた。衣装部屋の所。
ここだ。上で合ってた。
立ち止まる。九は僕に気付かずちょっと階段を昇ってそれから振り向く。
「どうかした?」
「ここ…」
かも。
「本当?」
駆け寄る。どたどたうるさい。
静けさを取り戻す。廊下に誰かの気配が現れるなんてこともなくて、とりあえず息を吐く。
そう、勘違いかもしれない。僕ら以外に人がいるのかもしれない。ここは僕の知ってるかいじゃないかもしれない。足音をひそめる。今さらだけど。部屋に近付く。中を見る。
スカートやハンガーが木張りの床にばらまかれてる。ここだ。夜と違って明るくて、奥までよく見渡せる。スカートとワンピースでぎっちり埋まってる。
九も部屋を覗こうとする。反射でドアを閉める。
「なんでもないよ。えっと、確か」
ここから二階昇って廊下をまっすぐ行った部屋だ。
「ねえ、かえり」
振り向く。かえりと呼ばれるのにもだいぶ慣れてきた。
「なんで見せてくれないの?」
こういうのにも。
「別に見てもいいけど、君の欲しそうなものはなにもないと思うよ」
自分が汚くした場所をあまり人に見せたくはないけど、しょうがない。
「じゃあちょっと覗く。待ってて」
そういって中に消える。
僕は待つ。廊下は相変わらず静か。怖いくらい。
誰か隠れてないかってすごく不安になる。
九はすぐ帰ってくる。
「なにもなかった」
「でしょ?」
昇って廊下を歩く。夜に比べて廊下が大分明るくて、印象が全然違う。どっちも静かなのは変わりないけど。昼は誰かいない、って探したくなる。夜は、暗くて逃げたくなる。そんなことを考えてると九が、「ぼうっとしてるけど、どこ行くの」って話しかけてくるから、「ねどこ」ってぽつり答える。
部屋の前に着く。ドアを開けるともわっと暑い。一歩引いて部屋の中を見る。ばらばらに乱立するソファ。その中に赤くちろちろと燃えるストーブ。やっぱりつけっぱなし。奥にソファより一回り小さいくらいの引き出しが二つ。あんなのあったんだ。昨日は暗くてよく見えてなかったよ。部屋に足を踏み入れる。
これだけ多くソファがあるのに座ってる人が誰もいなくて、ほんのちょっとだけそれが恐ろしい。なにか来ちゃうんじゃないかって予感が常にする部屋。ストーブへと近寄りながらそんなことを思う。夜選んだときはそんなこと考えもしなかったのに。ストーブの前に立つ。放射熱に肌がちりりとやられる。手を伸ばしストーブを消して、スニーカーを拾ってソファに腰掛ける。暑い。すぐ立ち上がってコートを脱ぐ。たたんで膝の上。座る。
九はドアの前で立ったまま。暑いならコート脱げばいいのに。
「スニーカー? だけ?」
「荷物じゃん」
「取らないよ誰もそんなドロドロなやつ」
「心配だったの」
「やっぱなんか隠してない?」
「だから隠してないって。あ、乾パンもあるよ。食べる?」
段ボールを開けて、中から缶をひとつ取り出して、ポリエチレンのふたをぺりりってはがして中身を取る。口の中に放り込む。正直お腹が空いててこれぐらいじゃ満足できないけど、しょうがない。我慢。
「嘘っぽい。他にも荷物あるでしょ」
九が部屋の入り口から断定する。これだけ話す相手が遠いとどんな言葉もそこまでの威力を持たない。
「む、このストーブも荷物って言われれば荷物だけど」
「これ持ち運んでるの?」
「違うに決まってるでしょ」
「じゃ、持ち運ぶ気はあるの?」
「む。ある、かも」
ふちにそって転がすのが限界でとても持ち上がらないけど。
「本気?」
「だって夜は寒いじゃん」
「そんなにだっけ」
「あ、聞きたいんだけれど」
「本当にないの、ほかに荷物」
さえぎられる。九がじっと僕を見てくる。僕はソファの一つ一つに目をやって誰も来てないことを確かめる。
「ないよ」
答える。実際その通りだし。
「そう」
気を取り直してもう一度。
「で、聞きたいんだけど」
「うん」
「僕に会うま、」
途中で止める。
「うん?」
僕に会うまでなにしてたの?
そんなこと聞いて過去を無闇に掘り起こしたら九は、銃を向けてくる怖い男の子へ逆戻りしてしまうような気がした。
「あの泥水はなに」
代わりに聞く。
「泥水?」
「君がさっきいた所の下、水で埋まってたじゃない。あれ」
九が体勢を少し崩して、ドアの枠にもたれた。光が真っ直ぐ僕の目に届くよになる。直視しづらい。
「しゃべり方が怖い」
「いいから。あの泥水はなに」
「川の水。言ったじゃん。氾濫してここまで来たみたい」
「外は見た?」
「見たけど。よく分かんないよ」
「よく分かんないってなに」
僕もよく分かんなかったけど。九ならいろいろ知ってるんじゃないの?
「見ればわかるよ。そこの階段のとこ窓あったじゃん。ソファこれだけあるんだし。持ってって乗って見てみれば?」
言葉の端々に引っ掛かる。
「いや、外は見たの」
「へー、見てたんだ」
「九はどこで?」
危ないけど、これは聞かなきゃいけない気がする。
「どうだった、外は、かえり」
言葉に詰まる。九のこれ以上聞くなって空気にひるむ。沈黙が広がる。大事なこと。
「…普通に、窓のある部屋」
耐えかねたように九が答える。
大丈夫だった、の?
「僕もそう。この階にはないのかな、窓のある部屋」
これだけ雰囲気が似てるならこの階にも窓のある部屋があると考えるのが普通じゃないかな。なんで九はわざわざ階段のとこを勧めたんだろ。
「どうなんだろ。多分あるんじゃない」
「…どこで見たの」
「なにを?」
「その部屋はどこ?」
「下の方の階」
やっぱり。じゃあ今僕が外を見ても九と同じ感想を抱くとは思いづらくない?
顔が見えなくて真意が分からないよ。
「ねえ」
「む?」
話しかけられてちょっとびっくりする。
「よく分かんないけど、一緒に見に行こう、ってこと?」
「うううん!」
「じゃあどゆこと」
下の部屋に転がってる女の子を見たことがあるかそれとなく聞きたかったの。
とは言いづらい。友人の死をここで知る、みたいな最悪の地雷かもしれない。
「とりあえず九はこんな上の階には来たことないんだよね?」
「うん。ないよ」
気にしすぎか。
「じゃあなんでもない」
「気になる引き方だね」
「気にならないで」
「探しに行かないの? 窓のある部屋」
「見に行きたかったわけじゃないんだって」
納得がいかない、って顔して首を傾ける。
「あ、聞き忘れてた。ここはどこ」
「どこ、って、言われても」
九が考え込む。
「このビルの名前ならカジーメイオだけど、そういうこと?」
無視。こんな曖昧な質問でまともな答えが返ってくるわけない。
「どういう状況?」
「状況って?」
「泥水ってずっと上がってきてるんだよね」
「たぶ、ん?」
あ、この質問も危なかったのか。
もしかしてなに聞いても大丈夫なのかな。
「じゃあ今後もずっと上がってくるとして、生き残れるの?」
「このままだと飲まれて死んじゃうね」
それは困る。
「助けは来るの? 屋上でたき火でもすれば誰か気付いてくれる?」
たとえ水がせり上がって来ないにしても飲み水も乾パンとかの食糧もここでずっと暮らしていけるほど集まるはずないし。
「多分」
「また多分かあ」
「外の情報分かんないし」
「そなの?」
そうか。電気きてないんだった。
「でもノーパソとかスマホとか電源なくても動くと思うけど」
僕は呟く。
「パスワード絶対分かんないよ」
「ないの?」
「ノーパソ見つけたけど使い物になんないからそのまま放ってきた」
「どこ」
九は答えに窮する。
僕は気になってまたソファを見渡す。
「思い出したけど、もう水没したと思う」
九がやっと答える。かなり前からここにいる?
ねえ、九、なんでここにいるの。
「ラジオとかもないの?」
「ラジオ?」
「確かコンセント繋がなくても聞けるんじゃなかったっけ、ラジオって」
「そうだっけ」
探してないみたい。
「探す?」
そうしようか。頷く。
「ついでに飲み水とごはん系も探そ。あれだけじゃ厳しいよ」
そう返して立ち上がる。
「あ、……の前に、……ってみない?」
九が身体の正面を僕に向けて、両腕を同時に二度振り下ろしながらなにか言う。
「なに?」
強弱が聞きすぎてて聞こえない。
「屋上に行ってみない? たき火する道具とか今ないけど、全方向見渡せるはずだし、川面も覗き込めるだろし」
屋上。
「行きたい。ね、行こ?」
僕に向かって腕を伸ばす。
勢いに負けてうなずく。
「やった!」
たき火置いてみたら? と言いはしたけど、実際行くなんて考えてもなかった。
「なら早く」
いきなり部屋に入り込んできて手首をつかまれる。あわててもう片方の手でショルダーバッグだけ腕に引っ掛ける。ソファの群生が遠ざかってく。九に引きずられるよに部屋の外へ出る。
「あの階段で屋上まで行けるよね?」
興奮を隠せてない声。
廊下に九の声が響く。いきなりなに。
「待って。待って!またここに戻ってくる?」
ここには思い入れがある。怖さも魅力のうち。
廊下で立ち止まる。
九は僕の手首を胸元に引き寄せる。
ぞっとする。
体を遠ざけようともがくけど、外れない。非力?
「む、なんかこの部屋じゃないと困るの?」
「ううん」
「じゃいいじゃん」
「そうじゃなくて」
「ストーブのこと?」
「それもあるし乾パンとか」
「ストーブ持ち運ぶんじゃないんだ?」
にらむ。
九はきまり悪そうにすぐ目をそらす。でも手はつかんだまま。
「ごめんね?」
「もうやめてね」
「ストーブないと困る? そんなに?」
「寒くないの、夜」
「そんなことないけど」
あれ。
「少なくともストーブは使わないよ」
息白くなった記憶があるんだけど。
「本当に?」
「本当に」
じゃあ凍えてて幻覚を?
「あとストーブくらいなら上にもあると思うけど」
「ないはずだよ」
「む?」
「けっこう探したよ、ストーブ。二階分ぐらいは」
また探すのは少し、面倒くさい。
「じゃ、ストーブ欲しくなったとき戻ってこれるよに、『この階がストーブのある所です』ってどっかにマークすれば?」
「マークってこの階のどこかに印を付ける、ってこと?」
「階段の所にね。そのつもりだったけど」
「傷入れる必要ある?」
「む、それはないかも。でもじゃどうするつもり」
「考えて」
九はそのまま長く黙る。あんまり長いので僕はその間に解決策を思い付く。
というかそんなに大事な話題じゃないのにそこまで真剣に悩まれると困る。
廊下の先を見通す。ずっと先で右に曲がって、それ以上の先は見えない。どこまで続いてるんだろ。あとで行ってみようか。そんなことを考える。
ねえ、黙るのはもういいし、それより手を放してくれないかな。僕は手を引っ張る。九はじっと僕の手を握ったまま離してくれない。
「思いつかないや」
かすかな勝負に身を費やしてると、九がふらっと白旗を上げる。
「紙を貼り付けるとかでよくない?」
僕はすかさず口にする。
「そうする?」
そっちの方が目立つ気がする。
九が僕の横を通る。手首をつかまれたまま僕は半回りくるり。それでやっと九が手首を放す。抵抗したせいで少しだけ痛い。九が先に行ってて、背中を追うよに部屋に戻る。
「シャーペンとか持ってる?」
「待って」
言われた通り、待つ。
部屋は相変わらずなにか出そうな空間。窓がないのもそれを助長してる。
モッズコートの裏からボールペンを取り出す。青色だ。
「なんでも、」
なんでも入ってるねそこ、と言いかけてひやっとする。あわててやめる。銃のイメージが遅れて浮かぶ。
「あ、シャーペンじゃないとだめだった?」
「いや、大丈夫。助かるありがと」
引き出しに近付く。きっとこの中に。開けて中にメモ帳を見つける。
色は薄いピンク。
一番下にカジーメイオって印字されてる。
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青いインクで書いた紙。「ストーブここ!」の文字。僕の筆跡。テープは見つからなくて、仕方なく階段の壁にもたれさせる。
一歩後ろへ引いて見てみる。赤い絨毯。ほぼ黒色の壁。陽が影を作る。九が階段で踊りくねってる。うん、今日飽きるほど見た光景。目立たないなあ、それにしても。
「これなら作らない方がよかったんじゃ」
九は奇妙な踊りで階段をたたたんと昇って、降りながら話しかけてくる。舌噛んだら痛いよ、ってそれだけ思う。
その九の視線を追って、僕の書いたメモ用紙にたどり着く。暗闇に半分溶けてる。まだ昼なのに。
「絨毯の上に置いた方がまだましかも」
一度しゃがんで紙をつまみ持ち上げて、無造作に手を放す。紙切れはゆらり、ゆらりと揺れて落ちてって、最後に反転して裏向きで絨毯に着地する。そう。分かったもういいよ。作った僕が悪かった。そのままにして部屋に戻る。部屋にはまだ熱気がこもってる。コートを着たままだとちょっとつらい。ソファの群生の間を抜けてさっき座ってた所に戻る。窓のない部屋にこれだけ置いてある光景はやっぱり異様。
「これで納得した? かえり」
後ろから九の声。またドアの前でつっ立ってる。
光がうまい具合に隠れて、縁取りされたみたいにはっきり見える。
「納得はしてないけど」
コートを脱ぎながら答える。
「じゃ、ここにもう置いていける?」
九がそう一言一言区切って口にする。
不安な物言いだ。
部屋が沈黙を取り戻す。ソファには僕以外誰も座ってない。
「帰ってくるんだよね?」
なんでこの子に僕はついていくんだろ。ついてこようとしてるんだろ。
この子と仲を切れば落ち着けるのに。
そうかな?
少なくとも裏はなくて、僕をはめようとしてるわけじゃないってことは話してて分かる。それにこのまま一緒にいて九に任せた方が、僕の生き残れる可能性はぐっと上がる。そうじゃない?
まだ、今は別れのときじゃない。
「もちろん」
「じゃあ大丈夫だよ。置いていける」
「なら早いとこ行こ?」
「む。まだ待って」
集めておいた乾パンを指さす。
「あれを入れる袋を探さないと」
「ああ、僕それ持つ。袋も探しとく」
あれ。
九が部屋を見渡し始めたのに合わせて、僕も部屋を見渡す。
視線を下へかすかに落とすとスニーカーが目に留まる。ソファの隙間。ストーブの前。履こうかな。これだけ長いあいだ乾かしてたんだからもうさすがに湿ってはないはず。裸足もいいけどだんだんちょっと寒いのに気付いた所。
ソファの間を避けて進む。当たらないよに身を縮めて歩く。座ってるはずの誰かに手が当たらないよに。誰かいることに気付いた瞬間、きっといっせいに実体化するのだ。
無事にスニーカーの前へ着く。変色はなくなってる。見た目では乾いてるけど。そっと足を差し入れる。
「うえっ」
じゃりっ、と靴の中で音。細かい粒が中敷きの上にこびりついてる。
乾いてはいる。けど気持ち悪い。よりひどい。
足を引っ込める。
掻き出せばいいんじゃない?
でもこの感触は残るよ。
「どうしたの? 靴まだ濡れてた?」
九が声を掛けてくる。
「ううん。そういうことじゃないの」
今までありがとね。きれいに並べて、裸足のまま歩きだす。
「早く行こ」
コートを掴み、着込みながら言う。
ドアの前。
さっき使ったメモ帳の残りがぽつんと落ちてる。
どうせだし、持っとくか。なにかに使うかもだし。手帳とかそういうの持ってないし、せっかくだから。バッグの中に放り込む。
「置いてくの?」
「うん」
僕は答える。
ドアの前で立ち話。
廊下の光はどこから来てるんだろ。
「もう使わないの」
「そのつもり。九は見つかったの、入れ物」
「うん、それ」
九は床に落ちてる袋を指さす。
僕は拾う。袋が使えるかどうか確かめる。
外へ。九が前。この子、先頭を行くのが好きみたい。
僕は後ろばかり気になって何度か立ち止まって振り返る。誰も追ってきてない? 廊下を進んで階段の所へ。
今度こそは階数を数えるのを忘れないようにしなきゃ。
昇る。九が威勢よく先を行く。九の足音はやっぱりうるさくて誰か聞きつけてこないか、っておっかなびっくり。
「探しにいかないの」
三まで数えた所で話しかける。
九が振り向く。
「なにを?」
「あれ、ラジオとか探しながら屋上目指すんじゃないの」
「そうする? 先に早い所、外を見に行った方がいい気するけど」
「そうかな」
「そうだよ」
階段をずっと昇ってると目が回る。ときどきふらつき、休みながら、進む。
一度、九がふらついて、階段から転げ落ちそうになったとき、巻き込まれるんじゃないかって身構えたけど、僕も目が回ってて踏ん張れるとは思えなかった。
そうして十八階昇ったところで階段は途切れる。上に続く階段はもうない。その代わり、手すりが階段の終わりで真横に折れ曲がって、壁の方まで伸びてる。踊り場は普段通り広い。踊り回るには狭いけど。九はなんで出来るんだろ。
ここに来るまで途中一度も寄り道してない。かなり早い到着だった。
「ここ屋上あるの」
手すりに手をかけながら聞く。
「もしかしてないのかな?」
階段の外側を昇ってた九は先に着いてた上の踊り場で立ち止まって、僕の方へ顔を向けて、今気付いたみたいに言う。僕はまだ階段の上。見上げる格好になってる。
「あるって保証、なかったんだ…」
この子と一緒にいるメリットは本当にあるんだろか。
「ないってことはないんじゃない?」
九は能天気に言う。
僕は上へと歩いて、踊り場に着く。そのまま手すりにそって進んで、九の横をすり抜けようとする。
「屋上も行き方もちゃんとあるはず。無理やり行くとフェンスで囲われてなかったりして危ないかもだけど」
そう言いながら、九は僕の前に身体を入れて無理やり向かい合う。目の前を陣取る。また近い。なんなの。
目を見つめる。視線は下。見下ろしてる。なんでこれくらいの子にびびりまくってるんだろ、僕。
でもなんていうか、堂々としてる。甘えるようにしてくるわけでもないし、びびって見栄を張ってるわけでもないし。子どもだけど大人びてるのか、大人だけどすごく変わった人なのか。どっちにしろ不思議な人だ。
「普通はどういう行き方があるの」
この空気を切るために質問。
「普通は階段がまだ続いててその先に扉がある」
九が目線をずらして、右を向き階段があるはずの方をちらと見る。
それは知ってるよ。九が視線を戻してきて、あわてて身構える。
九は僕と見つめあうのに飽きたようで、突然手すりから手を離す。廊下を歩いてく。どこに行くんだろ。ついてこいってこと? 背中はさびしく、僕は一人だ、って訴えてくる。知らないよ。と、すぐターンして戻ってくる。
「まだそんな顔してる。そんなあからさまにがっかりしなくてもいいじゃん」
「さすがにそんなので屋上行こうって言い出してるなんて思ってなかったよ」
「行きたくなることあるじゃん、唐突に」
そう言って九は唇をとがらせる。
「なんでそこまで、屋上にこだわるの」
「言ったじゃん、行きたくなったから」
「そんなのなら行くのやめて早くラジオとか探しに行こうよ」
廊下の方へ視点を移す。不規則に並んでるドアはどれも閉まってる。深緑の壁が奥に行くほど狭まってる。誰もいない。それはそうなんだけど。やっぱり静かすぎるよ。誰か隠れてないとここまだ静まらない気がする。
「ね、じゃそれについてきたかえりは思い付いてたの?」
九が言う。僕は九を見る。ぎょっとする。なんで涙ぐんでるの。
「どうしたの?」
「なにが」
平然と答える。
でも九の目は確かにうるんでる。
「なんで涙ぐんでるの」
「え、そんなつもりないけど」
九の水っぽい目玉がこちらをびっ、と見つめる。
もとからこんな目だったような気が、そう言えばする。
ええっと、なんの話だっけ。屋上への行き方?
「む、僕が浮かんでたのはこの階で外に出て外付けのらせん階段で屋上に上がる」
「おお」
九が大げさにのけぞる。
「おおじゃないこれぐらいは普通だよ」
「すごいけどなんでらせん階段?」
九が首を傾げながら聞く。
変なところが気になるね。
「せっかく想像してるんだし。よくない? らせん階段」
「特にいいとは思わないけど」
元の淡白な空気に戻る。九はころころ雰囲気が変わる。
「む。いいものじゃんらせん階段って」
まあいいか。
僕は歩きだす。
誰もいない空間を侵してく。積もった雪を踏んでぐしゃぐしゃにしてく感覚と似てる。
「どこ行くの、かえり」
声が追ってくる。
「探すの」
「他になにかないの」
足音がついてきて、後ろからまた声が飛んでくる。
む。少し考える。
振り返る。ここの積もった雪は、実際の雪と違ってすぐ元に戻るのが難点。まだ降り続いてるせいだよ、きっと。なにか跡が残せればいいのに。なにかを傷つけるとか、そういう形じゃなくて。もっと上品に。そんなことも考える。
「あとは、エレベーターがあるとか」
僕は言う。
「ここにエレベーターはないよ」
即答。
「だよね…」
「他になにか思いつく?」
首を横に振る。
「じゃあらせん階段探そ?」
九が僕の横を通り抜ける。小走りで雪を、あたりの空気を蹴散らしてく。
7
窓のある部屋を順に巡ればすぐ見つかると思ってたけどなかなか当たらない。どの部屋のドアを開けても、部屋がその先続いてるだけで、らせん階段への入り口はどこにもない。
「ねえ、もうよくない? 違う気するよ?」
九はずいぶん前から僕の後ろでへばってる。
「ここまだ探してないから。入ろ?」
ずいぶん階段から奥まった廊下。いい加減暗くなってきてよるとそんなに変わらない雰囲気。今はそこのドアを順々に開けてる所。その最後のドア。僕は指差したそれに手を掛け
また暗い。足元が目の細かいタイルだ。目の高さ、暗闇の先でなにか光る。ステンレス?
キッチン、厨房。
厨房に出た。
部屋に一歩足を踏み入れる。冷たいっ。すぐ足を絨毯の上に戻す。九が後ろから僕の横へ身体をねじ込むよに前に出る。
あ、ここだ…。
声がする。九?
「ごちゃごちゃしてるね」
顔を上げると九がそうつぶやく。
「見えるの?」
「うん」
僕は床の冷たさに覚悟して、中に入る。
入ってドアを閉める。
「誰もいない?」
「うん」
すぐに僕も目が慣れてくる。
真ん中に広い机。部屋の端に出たようだ。反対側の端に図体の大きな機械類が追いやられてる。冷蔵庫とかかな。あと二つが分からない。通路は異様に狭い。 なにかこもった匂いがするのは間違いないんだけど、それがなにの匂いかどうしても分からない。甘くも酸っぱくもなくて。これはなんの料理の匂いだっけ。
きぃぃぃぃ、と高い音がずうっとしてるのに気付く。耳鳴り?
なにかいるの。僕は部屋の内部をさらに見てく。
右に一つ、左に一つ、人が通れる穴が開いててその向こうに部屋がある。もともと付いてたドアを無理やり外したみたい。
どこかに食糧はないだろか。
九が入口から左に進んでく。
「ここなら見つかりそう」
そして唐突に言う。
「キッチンから屋上に通じてるの?」
僕は非難めいてそう口にする。声が響いて、なんとか消そうとするけど、反響したものにはもう手が伸ばせなくてやきもきする。
「あり得なくない?」
静まるのを待って、小さな声で聞く。
九は穴をくぐって隣の部屋に行くみたいだ。
「あり得るんじゃん?」
壁の色だけは相変わらず深緑のまま。
僕も追おうとして、大きな機械の一つに目が留まる。うなってる。鳴ってたのはこれ? 僕はそれに近付く。
正面に立つ。観音開きの大きな扉はステンレスで出来てて、僕の全身をうっすら映す。冷気が外にはみ出してる。冷蔵庫?
「電気来てるよ? 九」
返事はない。
開けてみる。白い煙が足元に広がる。寒くはないけど足が少しだけ湿って、それがほんのちょっと鬱陶しい。中は意外に狭い。なにも保存されてなくて意外。ステンレスの銀の仕切りが中に入ってて、大きなものは入らなさそう。仕切りが動かないか触ってみたけど、びくともしない。
「いいじゃんそんなの探そうよかえり」
いつの間にか九が戻ってきてて、そう口にする。
ここに上への入り口はあるんだから。そう言いたげ。
でもそれもそうだ。中になにも入ってないし。僕は冷蔵庫を閉める。
その途端九は僕の手首をつかんでずんずんと歩き出す。
あと二つにも引いて開けるタイプの扉がついてたけど、九に連れていかれて開けられない。そのまま隣の部屋まで連れていかれる。
「どうしたの」
ここも向こうと同じ空気。鼻につくなにか料理の匂い。
「探して」
九が息をつめてそう言う。
「なんでそんなやる気になったの」
さっきまでもう帰ろう、って言ってたのに。
「ここにある気がするから」
また勘? しょうがなく、厨房の中を回る。
そのうち、部屋と部屋を繋ぐ通路の壁にひっそりドアがあるのを見つける。
壁紙と同じ深緑色のドア。質感がほんの少し違うくらいで、最初に通ったときは見逃してた。ドアノブはなくて、ボタンを押すと取っ手が出てくるタイプ。
「九」
前を行く九を呼び止めながらドアを開ける。
開ける。小さな部屋。荷物で埋まってる。ほこりの混じった空気が肺に悪そう。中に一歩入る。中央にいくつかの山に分けて段ボール箱が積まれてる。ガムテープでしっかり閉じられたのと無理やり詰めた中身が丸見えなのが整理されず縦にうず高く積まれてる。乱雑に丸められたビニール袋が段ボールタワーたちを飾るようにいくつも散らばる。足の踏み場がすごく少ない。部屋の横にドア。外の廊下でよく見る彫り込みの凝ってる茶色のものだ。繋がってるのは外? そのすぐ近くの壁に短い物干し竿のような棒が立てかけてある。
中にもう一歩入ると、段ボールたちの裏にひっそりと隠れても一つドアがあるのに気付く。
「九、扉」
色は銀。段ボールが前をふさいでてよく分からないけど。
「それ、廊下に出るのじゃないの」
「違う違う、こっち」
「それっぽいね」
掃除用具入れだと思うけど。
僕はビニールを踏まないよにいつもの扉の方に近付く。
開ける。
廊下に出た。いつものような赤い絨毯の所だ。
「うん、廊下」
踵を返す。
九はまだ扉の前でうだうだしてる。
僕が銀の扉の方に動くと九が近づいてきて、僕のあとを追うように扉の向こうを覗く。僕は黙って邪魔な段ボールに近付く。腰を落として、一番下に指を掛ける。わきにずらす。段ボールの上に積もったほこりがここぞとばかりに舞う。物干し竿がバランスを崩して倒れる。
「あーあ」
いつの間にか戻ってきてた九が声を上げる。うるさい。ドアを見る。
ドアの表面は真っ平ら。ドアノブが目立つ。銀色に輝いてる。
段ボールをずらしてだいぶ見えるようになった床にはまだ、女物の手提げかばんや、小さめの照明スタンド、文庫本なんて様々なもので小さな山が出来てる。片付けなきゃ。ひとまず文庫本を拾う。段ボールの上に置こうかって考える。あ。その場で僕は反転。文庫本は持ったまま。立ち上がりつつ腕をひねる。九へ。手を放す。文庫本が九めがけて飛んでく。僕は投げつける。
「わっ」
九の横、ドアの縁に当たって、床にぺしって音立てて落ちる。
当てるつもりはなかった。避けられるとそれはそれですっきりしないけど。
「びっくりした?」
「なにするんだよ!」
九の声がいろんな方向から耳に刺さる。部屋が狭い。
「手伝ってよ」
「じゃあそう言いなよ物投げつけてないで」
「うるさいくらえ!」
照明スタンドを手に。九を見る。身構えてる。投げつける。九は、飛んできたものを見て、あわてて駆け寄って、電球が割れないように胸と両腕使って捕る。
「だからなにするんだよ!」
「うるさいくらえ!」
今度はかばんを手に取ってまた九へ。ドッヂボールって確かこんな感じ。
そうやって九に物を投げつけて楽しんでるとついに燃料が切れる。ドアの前にはもうなにもない。肩を揺らして息をする。
九の方を見る。
九はしゃがみ込んでる。周りを僕の投げた誰かの思い出の品々が彩ってる。途中で廊下の向こうに逃げ出してたけど、外にもここにあったものが飛び出てるのかな。
「なんだったの…?」
九もずいぶん消耗したみたい。
僕は息を吐く。
部屋の空気はかき混ぜられて、よどんだ感じはなくなった。
ああ。馬鹿みたいだったなあ。
ドアノブに手を伸ばす。
引く。鈍い音が響く。
「やっぱり鍵かかってるか」
九がそう言う。
いつの間にか背中に触れそうなくらい近くにいる。僕の手元を見つめてる。びっくりするからやめて。だからなんなの、いつも。
「ううん、これ押したら開く」
僕はそう返して、ドアを開ける。ドアノブに引きずられるよに一歩外へ出る。
足の進めた先には床がなかった。
どこまでも足を下ろしてく感覚。
先は川。
落ちる。
手を後ろに伸ばす。助けろなにか、だれか。
足がなにかを踏みしめる。膝に衝撃。止まった。床はないように見えただけ。「んあっ!」甲高い変な声が出る。
細い金網が張ってあった。さっきのタイルと比較にならないくらい冷たい。しかも目が粗いから足の裏が痛い。そんな見た目にそぐわず頑丈でたわまなかった。風に煽られてよろめく。手すりにつかまる。手すりも冷たくてびくっと手を引っ込める。腰より少し高い。体重をかけるとがくつく。金具がゆるんでる。怖い。
手すりの下にはなにもない。足を伸ばして確かめる。爪先がむなしく空を切る。見間違えじゃない。本当にそこにはなにもない。ここで金網を踏み外したら終わりだ。
相変わらず下では大小さまざまなゴミが川の流れに乗ってうごめいてる。川面が近くなったかはよく分からない。
「どうしたの?」
「ああ、ちょっとびっくりする眺めだった、ここけっこう段差あるから気を付けてね」
僕はそう言って前を見る。視界を山と空だけにする。それでも川の水が頭にちらつく。しっかり両側の手すりをつかむ。耳の近くを通る風の音が大きい。九が後ろからついてくる気配。この光景に驚いた様子はない。二歩進んで右に階段があるのに気付く。
「らせん階段だ。当たった」
「どれ」
階段の前まで来る。らせん階段だ。周りを十数本の棒が囲んでる。転落防止?でも見た目のすっきりした感じが台無しで全然かっこよくない。
「これ」
振り向く。
九との間に、風がびゅう、と通り抜ける。
「本当だ」
そっけない。
「反応薄い」
九が僕だけを見たまま喋ってるのに気付く。ああ、この子怖がってる。それを隠したがってる。驚いた気配がないと思ったらそういうこと。
なにも言わず向き直って昇る。ぺた、ぺたと足裏の立てる音が高い。
下を見ると踏板の隙間から、景色はほとんど見えない。らせん階段の一番下に、小さな穴の開いた板が入れてあるせい。それでだいぶ怖くなくなる。ここは安心できる。九も遅れてかんかん、かんかんと音を立てて昇ってくる。ここは怖くないんだ。視線を上げる。階段の真ん中を通る支柱が隠してるので少し頭をずらして、建物の外壁を見る。周りを囲ってる棒も踏板もそこまで邪魔にならない。
外見はくすんだ茶色のタイル張りだ。模様はレンガ風。
「こんな見た目してたの」
立ち止まる。逆に戻って、九とすれ違って、下が見やすい場所へ行く。下はどうなってるの。階段を一番下まで降りて下の方をよくよく見ると、ところどころタイルの模様が灰色の石に変わってる。模様だけを見るとレンガをそこだけ積み間違えてしまったようにも見える。茶目っ気のある外観だ。それが途中で川の中に飲み込まれてる。泥水はこの建物がどこから生えてるか見せてくれない。
僕は見るのをやめて階段をまた昇り始める。今度は視線を上に。
階段の先に銀色のデッキがあって、隣接するよに高いフェンスが立ってる。その先にある緑が補色になってるせいでよく見えないけど、フェンスにはちょうど人が通れるくらいの穴が長方形に開けてあるようだ。緑? 屋上庭園でもあるんだろか。昇り切り、その穴をくぐって屋上に出る。
屋上には木が多く植えられてた。多すぎて見通しが悪い。迷路? 草木のすん、とする匂いであふれてる。風が強くて、飛ばされないか少し怖い。ぶおぉぉ。多分まだ強くなっても飛ばないんだろけど。九は先にいる。少し進んだ、きっと木が覆い隠してくれる所で待ってる。木の下にはいろんな花がところどころ咲いてる。木の間にはタータンが敷かれその両端をレンガでなぞって道を仕立ててる。それをなぞった先に九。ここでも赤推しか。両側の視界は木が埋めてる。幹も葉に隠れて見えない。でもそのどれにも元気がない。どちらを見ても目に入る名前の分からない木は、葉の先が黒く変色してる。木の陰で咲いてるパンジーは黒と黄の混じった花びらが全部ちぢれてて、今にも風に揺られて飛んでいきそうだった。
振り返る。景色は横に狭くて見晴らしがいい感じはしない。
「九、ちょっと待ってて」
「なに?」
「景色がゆっくり見たい」
「そう」
らせん階段のデッキの所まで戻る。
そこに腰掛ける。外を見る。
山ばかりだ。やっぱり人も、他の建物も見当たらない。下に見える海、じゃなくて川もどんなに目を凝らしてもゴミが浮いてるばかりで人も人が漕ぐ舟もない。九が言うには、この建物の中にも人はいないらしいし。僕はここでも、これからも、どこへ行っても誰かとふたりぼっちでしかいられないよな気がしてくる。
「ここのー」
僕は九に声を掛ける。
「なに」
今はその相手が九ってだけで。
ふわりとなにかが僕の胸に降りる。
「なんでもない」
立ち上がる。
「それで、これで満足したの? 九」
そう聞く。
「なにが」
「屋上から外眺めたかったんじゃなかったの」
「来たかっただけだよ」
そう言って九が歩き出す。そうなの。僕はついてく。
九が分かれ道で迷わず速度をゆるめもせずに右を選ぶ。
「ね、どこ向かってるの?」
「適当に。ぶらついてる」
やっぱりそうか。
さびの浮くじょうろが道の真ん中に丁寧に置いてあって引っかかりそうになる。すんでの所で避ける。九の背中だけ見て歩いた方が楽だけど、こういう時危ない。僕は態勢を整えて、また九を追う。背中に焦点を合わせる。
「あれ、なんだろ」
九が声を上げる。立ち止まるので、僕も足を止める。なに。視線を上げる。九が振り向く。向こうを指差してる。どうしたの。木に塞がれた視界。その上、屋上の向こうに灰色のコンクリートで出来たなにか。下の方は木で隠されて見えない。あれは、壁だ。相当に巨大な壁。なんの知識がなくても、あれが空中に浮くにはビジュアルが重たすぎる。
「壁?」
声が漏れたのか、九がそう聞き返してくる。
両端は山に吸い込まれるように消えてて見えない。窓が見当たらないしそもそも幅が広すぎて建物には見えなかった。
「壁かな。でっかいね」
「何の意味があるんだろ、あんな大きいの」
「さあ」
「なにか知ってる?」
「知らない。初めて見る」
そうなの?
僕は向こうに目を凝らす。上に手すりが付いてる。初めて気付いた。あの上に行けるのか。眺めがよさそう。でも今は誰もいない。
「もっと近付いてみないと分かんない」
歩き出す。レンガの道は曲がりくねってる。分かれ道に差し掛かるたび、どっちに進めば向かいの手すりにたどり着くか悩む。木の陰でところどころ咲いてる花は黄色や赤、青に黒に紫、花弁の大きい花から細い花まで色々とあった。この木はどうやって根を生やさせてるんだろ。背の高い草を樹木っぽく見せてるだけなのかな。
何度か行き止まりにたどり着き、迷いながらも進むと壁が再び見えるようになる。屋上の端も見えてくる。こちら側には手すりもフェンスもない。
僕は立ち止まる。視線は上。九も前で立ち止まったようだ。僕らは立ちすくんでる。
「本当にでかいね」
どちらともなく、そう言う。
壁はなんど見ても、あまりに巨大だった。異質だった。こんな場所を選んで建設した意味が分からないのもそれに拍車をかけてた。どこにも窓は開いてない。多少の凸凹はあるけど全体的にのっぺりしてる。
「なにか分かる?」
「もちろん分かんない」
それもそうだ。こんなものは普段見かけない。
「もっと近付けないかな」
壁までは遠い。遠近感のなくなる大きさだけど、きっとそう。あれがどこから生えてるか見えればまだわかるけど。
屋上の端に近づくと一段下に、まだ屋上が続いてるのに気付く。
「フェンスがないと思ったら」
下には庭もなくて石張りの屋上がただ広がってるだけ。フェンスで囲われてる。
「どうやって降りるんだろ」
一階分くらいの高さはある。左右を見るけど階段も見当たらない。
「飛び降りるんじゃない?」
そう言って九は本当に飛ぶ。「ほっ」高く飛んで手足を全部背中側に集める。そうやって胸を反らす姿が決まってた。そのまま消える。
端によって覗き込むと、着地を無事に決めたらしく、笑顔で僕に手を振る。
「早く降りてきてよー」
僕はその場でしゃがみ込んで屋上のへりから首だけ出す。さっきの川よりは断然近いけど飛ぶのは別。
「壁、どうなってるか見に行って」
「そのうちに飛び降りといてね?」
九がフェンスの方に歩いてく。
僕は視線を上げる。右から差す太陽がまぶしくて、うつむきたくなる。と、そのとき風が強く吹いて、目に当たって、僕は目をつむる。
目を開く。うん、向こうに壁がやっぱり見えるけど、どこから生えてるかと聞かれると下の屋上が邪魔になってここからじゃ分かんない。
「うん、よく見えない。水の中から飛び出てるのは確かだけど。うん」
九が振り向く。
「かえり、早く降りてきなよ」
フェンス際から九が呼ぶ。
「降りてどうすんの?」
こっちに戻ってこれるの。
風の音がまた目立つ。僕もかえりも、しゃべらない。
「ええっとね、かえりの真下に扉がある」
九が口を開く。
「本当?」
僕がくっついてる屋上のへりは、九のいる屋上へはみ出してるらしい。身を乗り出して覗いても屋上の床しか見えない。
「台とか、ううん、はしごとかない?」
「探してこよか?」
僕の真下に来る。
「え待って」
「なんで?」
九が心底不思議だ、って顔をこちらに向ける。僕の顔の真下に九の顔。奇妙な見つめあい。
降りたくないだけなんだけど。
九は視線を落とす。壁のあるはずの方を見つめて、消える。
あ。
「待って」
そう言うと、九の頭がまた視界に戻ってくる。
「じゃあ早く」
つむじを向けてそう言って、そのあとこっちを向く。据わってる怖い目。
九が立つ屋上に視線をずらす。長方形に切られた石が互い違いに敷かれてる。その隙間をこじ開けて雑草が生えてる。茎が床を這って伸びてる。石には砂利が練り込まれて表面がざらざらだ。その凸凹に日が当たって影が出来てる。染みのよに広がってる。
「まだ?」
「ね、降りなきゃだめ?」
「うん」
「九が昇ってくるんじゃいけないの。九は僕についてきたんだよね?」
「どうやって昇るの」
昇ろうにもこのへりが返しになっちゃってるのか。階段もないし。
「じゃあ考えなしに降りないでよ」
「しょうがないじゃん降りちゃったものは」
床とにらみ合う。影の模様に人の顔を探し始める。そんな暇はないの。無理に顔を上げる。九と見つめ合う。
「はしご探してきてくれないの?」
「んー、やだ。降りてきて」
九とここでさよならするのもありかな。
「怖いよ」
「飛べばいいだけじゃん」
「さっき鉄骨の所で怖がってたのはなんだったの…」
「鉄骨?」
「螺旋階段に着くまでのあたり」
「怖がってないよ!」
「怖がってたよ?」
これはさっきの続き。また馬鹿みたいな時間の始まり。
僕は心の中で顔をほころばせる。
怖がってた! と叫ぶ準備。九が、口を開く。
「ねえ、そんなことより早く」
ずざあぁぁ、と後ろの木が揺れる。
「ん」
息をかすかに吸う。唇を舐め回す。へりに腰掛ける。足を宙にぶら下げる。へりに置いた手で押せばすぐ下に落ちていける。
「まだー?」
なにかにいきなり背中をどんっと押される。だれ? なに? 今の言葉? 落ちる。わ。床が迫る。




