10
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止めるのに失敗したからって殺しちゃうんだ? まあ願い通りだけど。
死んでないじゃない。ずぶ濡れでぐったりしたかえりが僕の後ろに転がってる。こほっ、とかえりが弱々しく咳き込む。水を吐き出す。ほら、まだ生きてる。水面から引き揚げて、机の上に転がした所。僕もその上に座ってる。意識はなさそうだけど。ぴったり目を閉じてる。おでこに傷がいってるかもしれないけど、目立たない。「私は逃げなきゃいけないよ」なんでそんなことを突然。そのあとなにか口走ってたけど。
聞いときなよ。
聞いてたの?
あなたみたいになりたかった、もうあなたはかえり、あなたはもう私の記憶を持ってる。
「そう…」
ぴく、ってかえりが一度、痙攣する。びくって僕はそれに反応しちゃう。ここにいない方がいいかな。今にも起きそうな動き。
どうしよ。なんで殴っちゃったんだろ。この子の目的はなんなんだろ。かえりは満たされたって顔を最後にした。その表現が一番しっくり来る表情だった。あれはもう願いが叶ったってこと? 目的は相変わらず分からないけど。それと僕になんで危害を加えてこようとしたんだろ。危害なんて加えてきた? 日記を僕のバッグに入れた。ぼくをかえりにしようとした。黒幕はあの人だよ。だから、これ以上なにかしてこないよに、黙らせるために殴ったんだよ?
ますます殺さないとまずくなってるんじゃないの。
うるさいな。今考えてる所。ここに残してく以外の方法がなにかあるだろか。かえりは動かない。水はもう止まったのかな。もうこれ以上水面は上がらないのかな。それなら、きっとこのままここに残っても大丈夫なはず。駄目? じゃ九をここまで呼ぶのは。そうすればこの偽物のかえりは助かるはず。どうやって。自分を餌にすれば簡単におびき出せるんじゃないの? 九の前にわざと身を躍らして、捕まらないよに、撃たれないよにここまで逃げてくる。それはそうだけど、さすがに危なすぎるよ。そこまでやる理由がない。意味がなさすぎる。
それくらいのことしか考えてないの?
ここに置いてくしかない。
殴っといてなに言ってるの。殺さないんでしょ? ここから脱出しなきゃ。
ゴムボートがあそこまで重いとは思わなかった。逃げなきゃ。どうやって。舟を見つけて。上に戻って、このビルがもう少し水の中に飲み込まれて、ゴムボートの所まで水面が上がってくるのを待とうか。この子をどうするの。
殺せばいいじゃん。
その前に、水は上がってくるの。死体の乗ってる舟を見つけなきゃ。僕はかえりを殺さない。だから、もう水面は上がらないはず。ゴムボートを水面まで下ろすのは無理だ。九に出会わないよに、逃げなきゃ。舟を探そ。僕は水の中に足をつける。部屋の外へ。廊下を進む。窓はどこだ。じゃぶ、水に押されてるドアを開けて、中を少しだけ覗く。水が上がってきたら僕は死ぬだけだし、もうそんなこと心配してない。
何度目だったろか。
「あ」
窓。あった。外を見る。もう日が落ちかけてるみたいでかなり暗い。空へ伸びてる紐が闇に溶けかけて見える。雲が生み出す空の濃淡からかすかに浮かび上がる。あそこか。どうする? 取りに行く? 危なくないかな。この暗さなら九には絶対見つからないけど。それはいい。なにより誰にも見つからないことが一番大事。暗くて溺れそうなのは怖いけど、あわてなければきっと大丈夫なはず。
部屋を見渡す。机がない。服置いとく所を見つけないと。拭くものもないし。探せばどこかあるだろけど。衣装部屋は水没してるだろし。どこかないかな。とりあえずこの近くの部屋なら全部窓あるだろし、別の部屋に移ろ。部屋まで船を引き入れるつもりだよね? じゃあ舟をどう固定するかも考えとかないと。
30
気にしなくていいの? かえりのこと。殺さないのに。
気にするって、なに。
僕はコートを畳んで、服を脱ぐ。机の上にまとめて置いて、髪を後ろでひとつに結んで、川の方へ。手すりをぱっと飛び越える。ぱしゃ。あ、冷たい。ぬるっとしてて、肌にまとわりついてくる。臭う。少しだけだけど。手すりを掴んで沈んでく身体を止めて、足で水をかいて手を、そうっと放す。僕は水面から顔を出したまま浮く。そのまま横に動く。ビルの壁に手で触れる。ざらざらしてる。砂? 泥水に入ってるのと暗いせいで自分の身体さえもよく見えない。尖ったものとか浮いてたら危ないなって他人事みたいに思う。
かえりがどうしたいのか知ってる?
そんなこと構わず話しかけ続けてくる。
知らない。
舟はどっちだろ。舟自体がどこにあるかなんてさっぱりだけど、紐はよく見えるからそっちの方へ向かう。泳ぎ出す。冷たいし、早く出たいよ。
暗闇の中を、なにも見えない中で、空から垂れる紐だけが、少しだけ見える。
水の中を進む。足を止めたら沈む。プールと違って助からないよ。心が少しだけはくはくする。暗闇の中で空から垂れる紐だけが、はっきりしてる。僕は首を引き上げて、そっちに向かってく。水面に浮かぶごみがときどき指に引っ掛かって、僕はそれを振り払う。
なんであえて僕を次のかえりに選んだんだろ。茶化してるだけ? 分かんない。あれが冗談だったとしても僕は驚かない。
いきなり下半身がぐいっ、と持って行かれる。バランスを崩して僕は水の中に沈む。全身が押される。どこかへ。水にどこかへと連れてかれる。なに? 息が苦しい。なにこれ。泡。目が開けられない。痛い。泥だからだ。上はどっち。息をじっと止めはやる心を押さえて、浮力を感じる。こっちが上。一気にそっちに向かって泳ぐ。
不意に浮力が消える。息。空気が触れて、僕は思い切り吸い込む。
顔が寒い。波の上。暗い空が高い。外。目を開けようとして垂れた水が入って染みる。眉毛の上あたり、前髪を横に撫でつけて水を飛ばす。
空気がかすかに揺れてる。夜になると吹く、重たい風に目を細める。
ねえ、はる。かえりにはそれとも目的が別にあるの? 考えなしに思考をだだ漏れさせてくる。周りを見渡して、舟が近づいてることに驚く。
目的。あなたはもうかえり、って僕に言うこと? 僕はまた泳ぐ。手で水をかき分けて進む。水面が鎖骨のあたりで揺れてる。僕は顎を引ききって、息が出来る、って確かめる。水の中で、柔らかいなにかが手に触れて、すぐどこかへと姿を消す。髪が顔が首筋がひりひり乾いてく。それでどうしたいの。日記を読むことに、きっと意味があったんだ。そうだよね? 読んでも何も分からなかったけど。あのかえりが九と交流のあった本物じゃないからなんなの? あ、暗号とかそういうこと? そうかもしれない。あとで見てみよか。そう考えながらも、多分違うんだろな、って直感する。
大分近付いてくる。彼方のらせん階段から、つうっと降りてきた細い一本の糸の先へ。流れに押し負けたのはさっきの一度だけ。あとは踏ん張り切れてる。
暗号仕掛けてるのに「もうあなたはかえり」なんて言わないはず。そこまで謎めいた雰囲気じゃなかった。暗号なんかじゃなくて、
かえりの経験をすごく狭い期間と情報量だけだけど知ってるってことに、かえりはなにか託せると思ったんだろ。
進んでく。もう間近。あの上乗ってるかえりが本物なんだよね。舟はかすかな波に揺れてるだけ。なんであそこだけあんなに落ち着いてるんだろ。舟は流れの終着点にいるのかな。なら脱出できるんだろか。行きはよいよい帰りは怖い。急に不安になってくる。水に飲まれて消えてしまうよな。はくはくしてくる。
今さらだねえ。
冷える。動きががんと鈍くなってくよな。今さら戻っても仕方ないよ。覚悟して、進む。
ひとつ、手で水をかいて少し進むと、左に視界がぶれる。あ。流される。僕は腕をぐるぐる回して、顔を上げたまま耐える。吸い込まれるよに舟のそばに着く。引き込まれる方向が横から下にきゅうぅぅ、って変わる。
「ぅわ」
わ、手を伸ばす。舟のへりに手を掛け必死で耐える。舟が傾いてビニールに詰められた女の子の死体と目が合う。引っ張られる。あわてない。一度上がろ。
舟の向こう側まで手を伸ばして体を引き上げる。舟の上。かえりの上へぐにゃり、風が通り抜ける。持つ舟は揺れて、昇りづらくて余計に力を込めなきゃいけない。腕が寒いっ。背中を死体にこすりつけて膝を抱えて丸くなる。それでもすぐ手と足がまともに動かなくなる。寒い。寒い。どうしよ。水に戻ろか。それでどうするの。思考はいやにはっきりしてる。どこかに引っ張れないだろか。無理かな。水面に戻ろ。
へりは掴んだままでいたい。入った瞬間に引きずり込まれるから。あらかじめ水に飛び込んだとき楽な体制になるよに手すりを逆手でにぎる。
水面と少しの間だけ、睨み合う。暗くて揺れる泥水にはなにも写さない。
ここは、一面が、きゅぅ、と冷える。すぐに凍る。早く。
えいやって心の中で叫んでそろり水の中に戻る。
ごぼぼ。下へ。抗えない力。顔まで泥の水に浸かる。腕の力で引き上げる。舟が揺れる。息をする。ぷはっ。無理だよ支えもないのに引っ張るの。どうするの。ちょっとやってみたいことがあるの。また腕を伸ばして反対側のへりを持つ。肌にこっち側のへりが当たってなにか刺さらないか不安。もう片方の手も反対側に伸ばして、もがく足の力を抜く。さっきから水の音がずおおぉぉ、って凶暴。舟が、少しずつ傾いてく。濡れそぼった肩と首に鳥肌が気持ち悪い。僕はあっという間沈んでく。片手を離して死体の胴に腕を伸ばす。抱き付いて息を大きく吸って沈む。連れられ流れに乗って必死に、途中でゆるまるはず。そこまで。早く。
引き込まれてく感覚が少しずつゆるまる。どこら辺まで下に来た? 音はやまない。我慢。まだ、まだだよ。下へと引きずり込まれてく。その流れに乗って進む。ゆるやかになるまで待つの。まだ。段々速度が、安定し、てく今だ! 流れから思い切り横に水を蹴る。離脱。行けた。上へ。浮力の示す方へ。息は持つ? 知るか! なにも見えない。自分の身体が風船みたいに膨らんでく感覚。のどのあたりなんかが特に。息を。早く。ぶくぶくぶく。
水から出る。息。素早く片手で水を前髪から払って周りを見渡す。かなり流されてる。腕の中にビニールで詰められた死体。息を整える。片手を振り回す。筋肉はかなりだるめ。ここでやめたら絶対死ぬから頑張って、って励まして紐を探す。どこだ。もう真っ暗でよく見えない。雲がない。身体ごと少し泳いで角度を変えると、見つける。上から伸びてきて斜めに水面に刺さってる。あの根元。向かう。
流れに揉まれる。耐えて進む。あんまり無理しないでよ。帰りはどうしよか。それはあとで考えよ。
着く。紐を片手で掴む。死体を片側に持って泳ごうとする。うん、無理。どうしよ。死体を片手だけで泳ぐのは無理。舟を水の上出して元に戻そ。
立ち泳ぎしたまま、紐を引っ張る。足をばたばたさせて逆に舟に引っ張られないよにする。片手しかないから大変かなって思ったけど、案外軽く持ち上がる。流れの先で止まってたわけじゃなくてよかった。そのまま引っ張ってくと、水面近くについに姿を現す。潜って下から押せると、水面から顔を出す。傾けて水を外に出して浮かばせる。案外平気。死体を上に乗せる。さあ、帰ろ。
紐の向かう先を見る。白い灯り。一本の線。つぎはぎの、ビルの向こうで壁の一番上がこうこうと照ってる。建物はなんだかすごく小さい。あんなに遠く。水の上に出てから初めてまともに見る。
光に吸い寄せられるよに泳いだら、振り出しに戻っちゃうよ。迂回しなきゃ。長い距離でもゆったりな方がだいぶまし。
紐を掴んで、水面あたりまで持ってきて後ろから船を付いてこさせる。舟が持ってかれたらおしまいだからより慎重に進まないと。流れを少しでも感じたら逃げよ。どこに? どうしようもないよ。運。
僕はゆったり進んでく。壁だけがぼんやり光ってて、かすかに水面が明るい。そんな気がする。ごみが水の上で蠢いてるって分かる。これで流れがかすかに見える。だいぶ楽?
流れを避けて、ゆったり泳ぐ。徐々にだけど、つぎはぎのビルが近づいてくる。
31
建物のそばまで迫る。半分流れ着いたよなもの。どこから外に出たか分かんなくて困ってる。分かりやすい目印置いとけばよかった。
外壁に寄り添うよに泳ぎながら、一つずつ部屋を見てく。窓が開いてたらそこへ入ろ。息が上がって、鼻とのどが白く痛い。固まり切った筋肉をきしませながら進んでく。
そのうち、もといた部屋の場所を見つける。柵がある。
考えてなかった。どう越えよう。別の部屋探せばいいんじゃない?
窓ガラスを割った部屋に連れてこか。穴の高さがそれくらいだったはず。
もう少しだけ引きずる。
あった。すぐ着く。
部屋の中へ押し込める。紐に傷が行きそうで怖い。あとでちゃんと割っとかないとな。
来た道を少しだけ泳いで、ベランダの部屋に着く。手すりをつかんで身体を持ち上げ、その中に戻る。かえりが中に転がってる。ほら、どうするつもり? 寒い。舟の確保が先。横をすり抜けて、隣の隣の部屋へ行こ。水音を立てないよに、そうっと進む。ドアまで、もうすぐ。
「なんでこんなことになってるの」
ドアノブに手を掛けた途端に声が掛かる。ちらと振り帰るとかえりがむくりと起き上がる。とっさに身構える。殴り返されるのだけは避けなきゃ。
かえりは機敏に動いてどこから取り出したのか懐中電灯をつけて僕を照らす。
「寒っ。む、なんかずぶ濡れだし。なんでまだあなたが私の前にいるの。ううん、それはいい。なんで裸?」
ひとまず喧嘩腰じゃないことに安心する。
「いいから、ちょっと待ってて」
身を震わせながら、僕は答える。歯が鳴って上手く答えられたか分かんない。
僕はかえりを置いて外へ出る。舟が先。走る。滑る、けど、踏みしめ耐える。
部屋の中へ。
押し込んだ舟はまだいる。どうやって、固定。寒い。鳥肌が染みついて、もう一生このままな気がする。頭はそんなことでいっぱい。どうしろって、窓ガラス割ろう。
そこに残ってた棒をよく見て破片が残ってない方を持って、窓ガラスに何度も叩き付ける。がしゃあ…ん。寒い。早く終わらせよ。穴を大きくしてどうしよ。
「なんでガラス割ってんの、あわてて走ってってなにや、」
かえり。振り向く。言葉はそこで途切れて、かえりはぽかん、ってしてる。部屋の前で立ち尽くしてる。頭の上にワンピースを引っ掛けて、服の中にもう一枚のワンピースを突っ込んで身体を拭いてる。もう片方の手でだらりと下げてた懐中電灯をこっちに向ける。視界が白く飛んでかえりが見えなくなる。手をかざす。
「なにしてるの」
かえりが聞いてくる。
死体をどこへ隠そうか。僕はおそるおそるビニールに詰められた肉に手を伸ばす。かえりは僕を照らすだけで、なにもしてこない。僕に殴られたことも、覚えてないみたい。ならいいか。僕はそのまま舟を静かに傾けて、死体を泥水の中に落とす。ぽちゃん、とかすかに音がして、足元に重たい感覚。浮かび上がる前に死体を蹴って、部屋の隅に追いやる。あとはこの舟を守り通せば。これでやっと出れる。ゴムボートを下に持ってきた方がまだ安全だったんじゃないの。成功したからいいじゃん。
「それより押さえててくれない?」
手の先の舟をかえりの方へ。死体は水の中だからきっと気付かれない。
「ああ、ねえ、どうしたの」
ぼーっとした顔のまま吸い寄せられるよに近付いてヘリを掴む。
「そう」
無視して部屋の外へ。身体を拭かないと。自分で自分を抱く。身体が震える。唇はもうきっと紫色。早く片付けよ。かえりが思い出すかもしれないし。
元の部屋に戻る。取ってきといたワンピースで身体の水分を取ってく。そう言う段階じゃない。火。火が欲しい。たき火は上だよ。無理、今は行けない。暖かい場所が欲しい。ストーブが水没しても動くと思えないし。歯が鳴る。身体が自分のものじゃないくらい、がくがくがくっ、と揺れ続ける。気がゆるんだせい?
机の上で膝を抱えてる。服を着なくちゃ。僕は、もぞ、と裸の腕を服の山へと伸ばす。腕が、指が震えて、まともにつかめない。すぐにかえりの所へ戻らなきゃ。背中を丸めて、胸を膝に押し付けたまま、頭から服をかぶる。抱えてた足を少しだけゆるめて、下からスカートを履く。水に入らなきゃいけないのに。まあ、いいか。僕はコートを羽織る。かじかむ手じゃボタンなんて留められない。僕は手で握って、前を絞る。そのまま水の中にそろり足を入れる。スカートの先がぷかり広がり浮く。しょうがない。
かえりに任せてた舟を取りに戻る。水の中で白い布がぷかぷか揺れて僕の足取りにいちいちついてくる。光の届かない深海で見るくらげってこんな感じなんだろか。
「かえり、ありがと」
僕はドアを開けて、声を掛ける。
「服の替えってある?」
ワンピースの追加も。びしょ濡れの服をつまみながら僕に尋ねる。
「衣装部屋が階段すぐの所にあるよ?」
「行ってくる」
かえりはぱっと手を放して僕の横すり抜ける。舟はその途端流れてく。外へ。あわてて駆け寄る。舳先をなんとか掴める。
態勢を整えて考える。どうしよ。
手すりになら引っ掛かって外に出ないんじゃない? 一度紐を解いて、舟を向こうの部屋まで持ってって、紐は外を通して持ってって、それでまた向こうの部屋で結ぶ。これでよくない? 寒い。これが終わったらストーブを探そ。ここまではやらなきゃいけないこと。
かえりが戻ってくる。
「水没してて全部だめになってるんだけどさ、」
「ああ、一階上」
「そ」
それだけ言って戻ってく。
寒い。
でも外に紐通すなんてどうやるの。また泳ぐ? それはやめて。
まあ、なんとかなるでしょ。紐を舟から外す。ほどけた瞬間、滑り出した舟のへりを片手で掴む。そのまま廊下へと投げる。開いたドアにごんと当たって止まる。廊下の外に出てほしかったんだけど。しばらく見ててもそこから動かない。それで安定するならそれでいいか。視線を外して紐を適当な場所に結ぶ。蝶々結びで大丈夫なんだろか。耐えれるとは思えないけど。今の所紐に引っ張られる感覚はない。一度見たとき、ぶぶぶぶ、って鳴ってたからかなり強く引っ張られるとばかり思ってたけど、そうでもない? 九はどう結んでたっけ。思い出そうとして諦める。固結びでいいか。出来るだけ重いものに。机。より、こっちの棚の柱に結んどこか。
結んで、今度は舟を運ぶ。舳先の反対、お尻の所を掴んで回し廊下へと押し出す。隣の隣の部屋へ。寒さはかみしめ耐える。すいぃ、って進む。水があった方が楽。
着いて、また角度を変えて部屋の中に入れる。水面に浮いてるガラス細工たちがこっちを見て、舟に押されて水の中消える。ここなら舟が流されてどこかに消えることもない。一応ドアを閉めて完全にする。
「はる、はるだよね、名前。思い出した」
かえりが廊下の先。こっちを見て、そう声を掛けたあと、相手の反応をうかがうよな反応。首をかすかに右に揺らしてる。
「なに」
「あなたがなにかしたの?」
「なにが」
「私が気絶したこと」
思い出したの?
「やってないよ」
「なにかしたんだよね」
九は引き下がる。
「なにもしてないって」
「そう」
「うん」
どっちも黙る。
「本当に?」
混乱してる。声がうわずってる。
「うん、知らない」
「じゃあなんで私が机に乗せられてたの」
かえりは歯噛みするよに声を荒げる。
「知らないよ。僕のやったことじゃない」
僕はまた白を切る。
「じゃあ誰が?」
「九?」
それでいいよ。
「どこに行ったの九は」
「分かんないけど」
「知らないと分かんないばっかだねえ、あなたは」
かえりはまた、声に嘲笑を混ぜる。あれ。僕は違和感を覚える。かえりの声は僕に焦点が合ってない。目の前の女は、誰に自分がやられたか、なんてことよりもっと大きなことを心配してる。
「事実なんだからしょうがないじゃん」
僕はそんな思考を隠して、平然なふりして答える。
「九とは仲良く生きなきゃ駄目だよ」
かえりはまた新しい話を始める。
「絶対いやだ」
「なんで?」
かえりは踏み込んでくる。その足は汚いまま。
「ちゃんと理由があるはずだよ、あなたにも。九にも。それを説明してくれないとどうするのが正解か分かんない」
「詮索してくるあんただけには、絶対に教えない」
「見た目の問題?」
「違うよ」
なにを言ってるんだ。
「そんなわけないじゃん」
もっと根本的な所。かえりだって僕を呼ぶ所。人に誰かを重ねてる所。この人はかえりの出来の悪い偽物。本物はもっとましなはず。きっとあの死体がそうだけど。もう会えないのだ。
「むー、私がやるしかないね、九を任せておけば勝手になると思ったけど。ほらやっぱり甘いことやると失敗するじゃない。まあ次が…、あるわけないか。はるはどうするんだろ」
また訳の分からない言葉を矢継ぎ早にぽんぽんと投げる。名前を呼ばれた?
かえりが突然踵を返す。階段の方へ。
「どうしたの?」
「待ってて。今九を連れてくるから」
え。
「なにそれ」
「じゃあね。また」
「どこ行くの?」
聞こえなかったのか手を振って消える。
なんだったんだろ。かえりは僕になにかする気がないのは分かったけど。九がもうすぐここに来るんだよ。逃げなきゃ。どこへ。ちょうど舟はある。どうやって進むつもり。舟の場所はかえりにばれてるよ。上のオール取りに行ったら間に合わない。
「あ、そうだ」
かえりの声。
いつの間にか戻ってきてたらしく、廊下の奥顔だけ出してこっちを見てる。オールどうしよって僕はそのことをずっと考えてる。
かえりがなにか叫ぶ。聞こえない。「なに?」僕は聞き返す。
「だから、ずっとここに残るつもりはある?」
「ないよ」
即答する。ここはなんにしてもそのうち沈む。ここ以上水が来ないようになってるんだとしてもこんな場所は勘弁してほしい。
「でも水は抜いてもらえるみたいだよ」
水?
「突然なに?」
「だから、水がもう引くみたいだよ」
死に損なったねえ、って無防備な言葉がかえりの口から続けてこぼれる。
「なんであなたがそれを知ってる」
「ダムの人と連絡が取れたの。あとあの屋上の、早くどけろって」
そう、ここはダム湖の中。そこに唯一取り残された高いビルの中。僕はここがそうだって最初から知ってる。
「どうやって」
「簡単でしょ」
「どうやって連絡を取った」
電話線は死んでるはず。
「ああ、連絡ね。連絡。ほれ、この携帯。拾ったの」
「誰の」
「ここに泊まってた人?」
「ロックをどうやって外した」
「やね、これぐらい適当にやってみたら開くもんだよ」
「電波来てたの」
「当たり前でしょ」
「なんで」
「知らないよ。ダムのあたりのが流れてきたとか?」
「そん、」
「どうでもいいじゃない。それよりここにとどまるつもりは少しでもある?」
「ない」
僕は僕の行きたい所へ逃げて、気まぐれが続く限りそこにとどまる。ここには飽きた。もう出てく時間だよ。
かえりは少しだけ考え込んで、
「まあ私の問題じゃない。別にどうでもいいか」
と突然言って手を振ってまた突然いなくなる。
逃げなきゃ。僕の頭の中でオールをどうするかって問題がまた回りだす。
そこにある棒じゃ駄目なの? 進まないよ。上に取りに行くしかないんじゃない? 運がよければ間に合うくらいで。女の子のビニール袋新しくしないでいいの。ここに置いていくよ死体は。そっちの方が幸せだって。
舟は放置でいいの? ねえ、九たちに見つからないよに隠れるのは駄目? ひとまず舟を逃がして、オールを取りに行って、時機が来たら出発。それでもいいけど、これより奥に行って水面が上がってきたらどうするの。舟は沈むよ? そのときは僕も沈む。もう感覚が麻痺してて水面が上がってくる恐怖ってのがよく分からない。なんとか逃げ切れる気がするの。なにしても大丈夫なよな。しょぼくて根拠のない万能感。舟隠すのに意味ある? ないはずないよ。隠れて、九とかえりが降りてくるのと入れ替わりで上に上がってオールを取って、降りて舟で外へと出る。これが一番安全。
ねえ、水が抜かれるなら、このまま逃げ続けた方がいいんじゃない。舟で外に出るのはやめた方がいいんじゃない。舟は危ないもの。ダムが水を抜き出したらきっと漕ぐどころじゃなくなる。さっきの水の流れから考えて。でも僕はもうここにいたくない。ここには気持ち悪い人しかいない。ここは僕のいるべき場所じゃない。ここの人たちは僕がともに生きるべき人じゃない。脱出しなきゃ。仕切り直してまた探すの。
ベランダの部屋に仕舞ってたボートを引きずり出す。部屋の中に入り、舳先を掴んで後ろ向きに歩いてく。どこへ連れてこう。九もかえりも探さないよな場所。どこだろ。その前にかえりは九を連れてこれるの、本当に。分からないけど。逃げる準備はもう整ってるしさっさと逃げよ?
水の中じゃ急いでもそこまで速く進めない。転んじゃうだけだよ。緊張で震える指をそうなだめる。こういう途中で見つかったらどうするの。隠れる。部屋の中に。それで静かにする。最悪その部屋にある棒なにかひっ掴んで舟で外に出る。落ち着けばちゃんと判断できるはずだ。
舟でここを出て対岸に着いて、それからどうするつもり? 逃げれるの?
逃げ続けるよ。僕はまだまだ逃げ続ける。僕は九にもかえりにもその他置き去りにした諸々にも追いつかれない。捕まらないよ。すべて置き去りにしてもう見つからない。僕を探し続ける過去の亡霊たちすべてから、ずっと身を潜められる所へ。舟を引っ張りながらそんなことを考えてる。押し付けられるのはいやなの。
廊下を進んでく。どこかの部屋に適当に入ろうか。階段に近い方がいいよね。上までオールを取りに行って戻ってきたあと、脱出しやすいよに窓のある部屋がいいし。それだとかなり数が絞られそう。どっちか諦めるしかないのかな。それだと部屋から出て、窓のある部屋に行くまでに、すごく時間が掛かりそうだ。その間に見つかるかもしれない。それは心にかなりの負担がかかりそうだ。うん、やっぱり窓があって、階段が近い部屋にすべき。ねえ、そこだと見つからない? 大丈夫。さっき九を迎えに行ったかえりがそこで撃たれてるかもしれないし。そうすれば僕が撃たれる理由はなくなる、はず。そうじゃなかったら困る、って話だけど。そんな甘いことはないかな。僕は生き残りたい。
水が時々跳ねて、ちゃ、ぽん、とかすかな音を立てる以外はなにも聞こえない。九がかえりを撃ったらきっと聞こえるはず。僕は階段の近くまで急ぐ。出てからのことはあとで考えよ。後ろが見えなくて何度も後ろに気配を感じて背筋を寒くした。前向いて運んだ方がいいんだろけど、それだと歩きづらいし。
また僕は振り向く。暗闇の先に、階段が見える。あ、やっと。
廊下の左側は窓のある部屋だったはず。あともう少しだけ進んでドアノブに手を掛ける。手を掛けた瞬間、
「九、」
かえりの声。階段の上。早くない?
「あれ、なんで?」
九がそう返す。
「聞きたかったんだけど、あんたこそなんでここにいるのよ」
どうしよ。隠れる。そのままドアを引き開けて、部屋に舟を引き入れる。すいっ、と舟の幅ぎりぎりの狭いすき間を物音一つ立てずに入ってく。
「や、かえりの骨でも拾いに来ようかなって思って」
残念そうに言う。
「そんなことしないでいいのに」
「そこは僕の好きにさせてよ」
ドアをしっかり締める。音を立てないよに。波が残らないよに祈って。見つかったらそのときはそのとき。かえりはなんで僕を一人にしたんだろ。逃げるって簡単に予測できるのに。逃げてもらった方が好都合だった? そうかもしれない。戻らなくていいの? どんな考えがあるにしてもここから出れれば問題ないよ。
だよね? 僕は舟を持ってない、ってかえりは思ってるだろし。さすがに脱出できると思っていないだろし。
ドアを開けられたらおしまいだ。なにか押さえるもの、鍵が掛かってると勘違いさせるの。
かえりと九は今会ったばかり?
ドアのせいでこもってるけどそれでもちゃんと会話は僕の耳に聞こえてくる。
「あの子になにかした?」
「かえりのこと?」
「目の前にいるのにつれないねえ」
「かえりじゃなくて、はる」
気配を探る。近付いてくるって感じじゃない。立ち話をしてる?
「ねえ、なんで死んでないの?」
「その言い方はひどくない?」
含み笑いと一緒にかえりは口を開く。
「ひどくないよ。死ぬんじゃなかったの?」
「やり直したいことがあるのよ」
「なに?」
会話が途切れる。ぺた、ぺた、と足音。なんでそんな音が聞こえるんだろ。どれだけ気密性がないんだろ。すぐ消える。ちゃぷ、ちゃぷ。近付いてきてる?
「あんたは日記を読んだの?」
声がだんだん明瞭に聞こえてくる。やっぱりこっちに来てる。僕が逃げたことにまだ気づいてない? 早く通り過ぎて。
「読んでないよ」
「む、じゃあ手紙は読んだの?」
歩くのが遅くて、なかなか部屋の前まで差し掛からない。
「読んだ」
「なんで」
「手紙は読むものでしょ」
「日記帳の方の話」
「読まれたくない気持ちの方が強いでしょ?」
「そう、だけど」
声が少しだけ小さくなる。聞こえてくる方角が左から右に変わる。やっと。
「でしょ?」
会話が止まる。
「ああ、だからか」
ドアの真正面から声が聞こえる。かえり。立ち止まったらしい。いっそう気配を殺す。いっそう息を詰める。落ち着いて自分のすべきことをする。大丈夫。あれだけ暗いんだから、気付かれるはずがない。ドアは押さえてる。もしドアノブを掴まれても、だから平気。
「なにが?」
九がこっちに戻って来ながら、そう言う。
「いや、いまいち説得が甘いなと思ったら」
「なんかやっちゃった、僕」
「あんたは悪くない」
んー? 九が首を傾げたのが見えるみたい。
「で、逃げられっちゃったみたいだけど、どうするつもりなの」
九が言う。
「逃げられたって」
「気付かない?」
「はるのこと?」
「そう」
「そうなの、む、ねえ、その前に聞きたいことあるんだけど」
「なに?」
「はるをかえりにしたいの私は。あの子のことは知ってる?」
「かえりのこと?」
一瞬、九の発した言葉の意味が分からない。
「誰だそれ」
かえりの言葉が尖る。
「え、違うの」
「あれは、はる、だよ」
かえりの声は震える。
「かえりは、私だよ?」
そう続ける。
「かえりは死体だよ。まだ骨になってなかった」
「私はかえり」
やっぱりか。僕は腑に落ちる。九の言動にすべて納得する。
「かえりは自殺したんだよ」
「私が、最初のかえり。九、あの死体は九のあとに来た人だよ」
「君は誰?」
「九、」
「かえりじゃない」
「九、私がもう来ないで、って言ったあともここに来たね?」
「来たけど」
「来るな、って言ったつもりだったんだけど」
「それは本当の気持ちじゃないでしょ?」
「そこで会ったのは私じゃない」
「君は誰」
「最初に君と会った、かえりだ。部屋の中に忍び込んでたあんたに驚いた私だよ」
偽物のかえりがなにか言い出す。
「僕が会ったのは?」
「あの子は失敗したの」
失敗。日記を引き継いだ人。あれが今は死体。
「そう。ならそうなんだろね」
僕は、かえりが本気で信じてることを同じよに信じる。かえりが本気で臨んでることを一緒になって願って、叶えてあげる。その思想に、その感情に嘘はない、って僕だけは見抜けるの。僕はそういう人だよ?
九がそう歌うよに言う。
「そう」
かえりはそっけなく言う。
「つれないよ?」
「今さら」
「うん、よく言ってる」
「ね、聞きたいことがあるの」
「なに」
「私はかえり? まだ」
「かえりじゃないの?」
「じゃあそう呼んで」
「かえ、り」
「大事なことよ」
九はそう言って歩き出したみたい。
「で、どうするつもり、逃げられちゃったと思うけど」
「どうしよかな。九、なにか嫌われるよなことしたの」
遠ざかってく。
「むむ、なんか突然怒りだして、『君がはるってことがそんなに大事?』って言ったらどっかへ行っちゃった」
僕は部屋の外に出る。いちいち振り返るはずもない。これくらいのリスクは負わなきゃ。
「なんか怒り出したって、ってどんな感じ?」
階段へ急ぐ。段々聞こえづらくなってくる。九もかえりも、そこまでの敵意はいまのところないみたい。それだけで十分だよ。
「えとね、『かえりって誰?』って聞かれたから『君だよ』って答えたんだけど、それが納得いかなかったみたい」
「私のことは伝えてなかったの?」
「言うわけないじゃん」
「言うわけない?」
「だって完全にかえりと同じ人にするわけじゃないんでしょ」
「なんで知ってるの」
「おかしい?」
「私を本物だって見破れなかったのになに言ってるの」
それを追い求めて失敗したのが前のかえりだったのに。かえりはそう続ける。
「あれ、本当だ」
「あんたも混乱してるねえ」
「同じ轍を踏むつもりはないってこと?」
間違ってはないよね?
僕は階段にやっとたどり着く。
「まあ、そう」
「なら、僕がどんな真実を隠そうが自由じゃない?」
足音を潜めて昇る。じれったい。
それでも、誰かの代わりはいやだ。
「それ、かえりにはそういうこと言わないであげて」
「なんで」
「それってあんまり相手のこと思いやってる感じしないから」
まだ着かない。踊り場が遠い。
「かえりの本当の願いだけは見定め間違えてないはずだよ。それで十分じゃない?」
「へえ」
やっと踊り場。駆け上がる。
「かえりの願いは、幸せな場所を自分の足で探し当てること」
なに。足は今さら止まらない。
「それ、誰でもそうなんじゃないの」
上の踊り場でゆっくり立ち止まる。なんて、言った? 幸せな場所を自分で探し当てる、こと? 反芻して肌に染みてく感覚。
「かえりはそんなことないでしょ?」
「確かに夢見るのもいい加減にしたら、って感じだねえ」
「でしょでしょ」
この気持ちは本当に僕のもの? 馴染んでしまったこの願いは、でも、心に微塵もぴたりと嵌らない。ずれてる。なにかが。言葉が無理矢理心の形を曲げる。
「で、かえりの本音を私の前でさらけ出してなにがしたいの?」
「悪かった?」
「えっと、なんで怒っちゃったかって分かってるの?」
「分かんない」
「本当の願いだけは分かってるんじゃないの」
「うん、だから合ってるはずなのに…」
「九はまだ分かるには子どもなんだよ」
うん、きっとそうだ。これは僕の気持ちじゃない。願いじゃない。そんなたやすい言葉で括れるはずないの。歩き出す。オールを取りに。
「そうかなあ」
「あんた、女の子がなに考えてるかとか分かんないでしょ」
「僕と大体同じよなことだよ?」
「絶対、違う」
かえりと九の声が遠ざかる。
「それではるはどこに行ったんだろね」
「なんで逃がしちゃったのさ」
急がなきゃ。僕は赤い階段を駆けあがってく。息遣いも足音も構わず、ただ腕を振り、足を先へ伸ばす。喉が白く詰まってく。走り泳ぎ、臨界点でふらつく足はもう、一度止めたら二度と動いてはくれないような気がしてる。
32
「はるっ!」
僕を呼ぶ声。隠れてた塀の陰から僕は駆けだす。
その声が反響する。何度にも分けて僕の名前がこの街にゆっくりと吸収され、染みてく。
静かにしてないとばれるよ。そう声に出したいけど、そんなことしてる余裕はない。なんでもう僕の所に来れたんだろ。
「おいっ!」
追ってくる。相手は大人だ。逃げなきゃ。
「はるっ! おい、待てっ! 止まれっ!」
誰が待つものか。
「走って逃げんのかなめんじゃねえぞ!」
走る。男はアスファルトの上をどたどた追ってくる。まだ距離はある。振り返る。小脇に抱えてたままのスーツが邪魔そうだ。着てるよりはましだろけど。革靴も走りにくそう。住宅街を抜ける。と、畑なのか民家の庭なのか判断しかねる土地に出た。だだっ広い。柵がなくてよく分からない。ぼろぼろのプレハブがちらほら。身を隠せそうにない。森までもだいぶ遠い。逃げ込む場所なんてない。まだ走らなきゃ。未舗装の道をそのままの流れで駆ける。車の轍が白い砂利としてまだ残ってる雑草の生えた道を踏みしめて。景色が飛んでく。
後ろから興奮した声。聞き取れない。でも男が声を上げるたび、にじりにじりその差は詰まってるようだ。もう息がちょっと苦しい。男はまだ叫べるくらいの余裕があるようだ。
急に男が静かになる。
追いつかれる予感。
避けろ。
すんでのところで道を逸れ、その畑なのか民家の庭なのか分からない場所を走る。足場の悪い場所で一か八か。どっちが先に転ぶかだ。
僕は駆ける。振り向いてる暇はもうない。かなり悪い地面に気を付ける余裕もない。ぬかるんでる。泥が顔に飛ぶ。足をくじきそうになるのをこらえて、駆ける。
いきなり、背中の服を掴まれる。なんで。引きずり倒される。
肩から地面に叩き付けられる。一瞬うめいて、すぐ立ち上がる。走り出そうとして、男に肩を押さえられる。
「こっちを向け!」
振り向く。息がうまく吸えなくて、むせる。
「おい」
少しだけ先ほどの声に満ち満ちてた興奮が薄れて、心配そうな表情が覗く。
白髪交じりの壮年の男が立ってる。目が合う。皺と汗まみれの、老いて美貌を得た顔。人生で今が一番美しい、そんな雰囲気。骨ばった白い腕が肩から垂れ下がってる。肩の上に乗る腕にスーツのジャケットが引っかかったまんま。今はそのどれにも泥が飛んでる。
「大丈夫そうだな」
目を逸らす。辺りをうかがう。気付かれないよに。周りに駆けこめそうな場所はない。建物も草むらも。
「何見てる」
凄みのある声。震え上がる。目線を戻す。僕は思わず首を縮こまらせてしまってる。
「よし、それでいい」
僕が怯えてるのを見て満足そうににやつく。その笑みがまた怖くて、僕は委縮する。
僕は肩に乗ってる手が重くて、突き飛ばそうと手を伸ばす。
それを男にさっと手首をつかまれる。
「ついに、捕まえた」
僕は掴まれた手をじっとにらんで、それから横にすうっと伸ばす。男の手は逆らわずついてくる。僕は体を揺らす。ここは舞踏会。踊ってる。高い天井、豪勢な内装、シャンデリアの下で絨毯を高く鳴らしてステップ踏んでる。この男と踊るのは不本意だけど。そのことはもういいや。
「さあ、帰んぞ」
男が踊りながら、僕の顔の目の前でそう言う。支えがなくなってがくっ、って前のめりに倒れかかる。目を開ける。さっきの轍。白い砂利。引きずられるよに歩いてる。手首をつかまれたまんま。
戻ってく。さっきまで走った道を辿る。隠れてた塀を行き過ぎ、住宅街を練り歩く。手首が痛い。
泥が体の左半分にべっとりとついてるのに気付く。引きずり倒されたときのだ。
まっすぐ進んでフェンスにぶつかる。左に曲がり、緑のフェンスを片側に見て進む。フェンスの真下から生えた草やツタが育ち切ってて視界が遮られてるけど、それでも時々瓦とその上にあるアンテナが道路の下に見えた。フェンスの下にも家があるようだ。誰もいない。誰も声を上げない。ところどころ、取り残された泥が道路の端に堆積してる。
男のYシャツがきらきら。吸った汗で輝く。もう冬だよ、って僕は思う。そして後ろ手で僕をぐいぐいと引く。長い腕に僕は力強く引っ張られて何度も転びそうになる。
水はもう引いた。僕は舟で建物から脱出して、有刺鉄線の柵に阻まれて下まで降りてきた所。どこから入ったか探してるうちに、あっという間に水が引いて大体の場所を思い出して近道をしようと湖の中降りてさっきまで進んでた。
そのまま、右に大きく曲がってく坂を下る。道が太くなる。住宅街がいつの間に消えて代わりに大きめの公園が現れる。見覚えのある車が中に止まってる。
「乗りな」
男は手をぱっと放して、車の反対側まで僕の背中を押す。泥付いたまま乗っていいのかな。掴まれた手首が痛くて、黙っておとなしく助手席に押し込まれる。背中側に付いた泥を出来るだけ座席に付けないように態勢を整えてると隣に男が乗ってきた。
「なんで、あなたが…」
「あ?」
身を飛び上がらせる。窓に肘をぶつける。「いたっ」
男は舌打ちする。「なんもしねえよ」とひとりごちてから、エンジンをかける。
僕はあわててシートベルトをする。当たり所が悪くて、まだ腕が痺れてる。こんなに僕はこの男が苦手だっけ。
男が車を出した。ぐおん、と大きな音を立て舗装道路の上へ出る。速度をぐんぐんと上げる。ごおおん、ごおおんとエンジンがうるさい。
あ、体勢ずれた。座席には泥がべちゃあ、と付いてしまってる。これまずくないかな。冷や汗かいてると、男が話しかけてくる。
「なあ、はる」
エンジンの音に負けないくらいの大きな声で身構える。
「なに?」
「お前よ、いつも思ってたが、人のことおちょくってんのか?」
え。何度も横に首を振る。
「じゃあ、なんでそんなびびってんのに、そんな生意気なんだよ」
「生意気になんかしてない…」
「気に障んだよ。ずっと小さくなってり可愛げあるってのに」
うつむく。車が風を切る音とタイヤが地面をこする音がずっと聞こえる。揺れはほとんどない。
男はため息を吐いて、そのついでみたいに呟く。
「こういうとこで反省してる感出して、そんでも唇をとがらせてるとこがむかつくって言ってんだよ」
僕はあわてて口を隠す。目だけを動かして男を見る。
男は頬を膨らませ口をすぼめてる。変な顔。その視線がしっかりと前を向いてる。視線の先には、森が広がってる。速度がありすぎてよく見えないけど。その森は畑で囲まれてる。屋敷森? 道路は迂回するようにカーブして伸びてるみたい。そこに、ものすごいスピードのまま減速しないで突っ込む。座席がきしむ。僕は目をぎゅっと閉じる。きゅきゅきゅ、と足元でゴムが溶けてく音。
なんとか抜けたみたいだ。目を開ける。がちがちに固まってた全身から力を抜く。声を出さないようにするので手一杯だった。
男が、こっちにちらりと視線を送る。その横顔がゆるんでる。また喜んでる。
寒くなってきた。泥が冷たい。空調は申し訳程度にしか入ってない。落ち着いてきてるのかな。
「なんであなたが、ここに来たの」
さっき聞きそびれたことをも一度。
「あ? なんだよ?」
男がその表情のまま、こちらを向く。
「なんであなたがここに来られるの」
立ち入り禁止場所なはずなのに。
男はまた前を向く。顔を少ししかめる。
「どうでもいいだろ、お前には関係ねえ」
「かえりは」
僕も前を見る。この男の、視線は苦手。
「あ?」
「かえりは、知ってる?」
おずおず質問を差し出す。
「名前かそれ? フルネームは?」
「分かんない」
「はっ」
なにか黒いものが車の前を横切る。ブレーキ。浮遊感。身体が飛んでく。シートベルトにすぐ止められるけど。きききっ、と遅れて鳴る。
停まる。
男はぼそっとなにか口にしてから、また急加速する。
会話はそれで途切れる。僕は肩をさする。シートベルトに喰い込んで少し痛い。
後ろをちらと見る。なんだったんだろ、あれは。道路にはなにも転がってない。なにか引いたってわけじゃなさそうだけど。視線を戻す。
「寒い」
ぼそりと前を向いたまま言う。不意にそう思う。
「ほんっとに勝手だなお前はっ!」
怒鳴る。そだろか。これくらい普通じゃないだろか。
男は片手で乱暴に機器を操作する。スクリーンが明るくなって、暖かい空気が通風口から漏れ出る。
「ありがと」
男がこっちを向いて、怒鳴ろうと息を吸ったので、すかさずそう言う。それで男は黙る。
家に戻るんだろか。家に。もう戻りたくはない。逃げてどこかへ。
ここでの生活は案外幸せだったのかもしれない。切り捨てるべきではなかったかもしれない。
そいえば、九はどこに行ったんだろ。水が引いたんだし、降りてきてると思うけど。かえりも。多分死んだんだろけど。それとあの死体はどうなったんだろ。九がちゃんと拾って弔ってくれてるんだろか。
「家出は楽しかったか?」
「家出?」
これが?
「家出以外になんだって言うんだよ」
僕は黙る。ちょっと分が悪い。
「楽しかったかって聞いてんだよ」
また怖い声。身がすくむ。まだぬぐえてない恐怖心が勝手に反応する。僕は黙ったまんま。ねえ。僕は。ねえ。どこかに飛んでく。ねえ。
男がなにか言ってる。僕は後ろに飛んでく景色を窓ごと塗りつぶして、車の内装もすべて埋めて、視界にあるものを分別なく消してく。白になる。僕が、僕と意識を繋げない誰かが、自由に飛び回ってそうする。その子が白い所にまた手を触れると、どこかホールに出る。広い。二回がある。赤茶色の椅子。下が覗けるよに、放射状に置いてある。ここは闘技場? 絨毯が敷いてあって、手すりで区切られてる。上は吹き抜け。見るとシャンデリア。これが落ちてくるんだろか。視線を戻す。滑らかに光を反射する床。中央から広がるよに模様が描かれてる。僕はその中心。真ん中に一人、ぽつんと椅子に座ってる。
風。左を見ると、建物が崩れてる。ここはどこ。ねえ。反対側を見ると、廊下が伸びてってる。そのまま視線を落とすと石膏像があるのに気付く。巨大な顔から手足が生えてる。ちょこんと僕の隣、地べたに座ってる。なんとなく、粉っぽくて咳をする。石膏像は目がぎょろっ、って飛び出てる。視線は同じくらい。色は白。子どもの落書きみたいな存在の危なさ。表情と姿勢が奇妙だ。「本当に君に触っていいの?」って両手を上げて、宙に向かって誰かへそう話しかけてる。そんな雰囲気。飛んでる僕はあらかた消し終わって最後にその像へ落書きを始める。どこかからクレヨンの箱。開いて赤だけ取って、蓋ごと手を放す。床に当たって砕ける。青が、ピンクが、オレンジが四方に散る。光に映える。あ、きれい。その子は、そのまま頬にクレヨンで赤を差す。む。照れた表情にしてもいまいち。もとから変な顔だし。つまんないなあ。
「……! ……、…!」
石膏像がなにかわめいてる。見ると、口は閉じたまま。うん、ちゃんと考えるのはあと。落書きするの向いてないや。そう思うと、赤い絵の具の入ったバケツをその子はいつの間にか手に持ってる。また赤。重そうだけど、僕は軽々頭の上に持ち上げる。僕にかからないかな、それ? 僕は飛んできて、僕のほぼ真上、石膏像の頭上でバケツをひっくり返す。僕は腕で目を隠す。顔に冷たいなにかが飛ぶ。ゆっくり井出を下ろす。石膏像は赤くペンキでてかってる。床に赤いなにかが広がってく。きらめいて自分の顔が見える。不思議。僕はそのままバケツを真下に投げつける。
降りて、僕に戻る。僕の視点に戻る。男はもう黙ったのだろか。石膏像だよ。男を見てるはずだよ、今、僕は。でも分からない。もう少しここにいよか。今度はなに色のペンキを投げてやろか。そう思って横を見ると、石膏像は割れてる。バケツをかぶせるつもりだけだったのに。砕けた石膏の白いかけらが光る。赤くないの。おかしくない? バケツがまた手元に。席に座ったまま投げつける。赤く、赤くなれ。
「ねえ、」
誰? 九?
「君の願いは、幸せな場所を自分の足で見つけること」
「違うって」
「じゃあなに」
「勝手に決めないで」
「君はかえり。僕の横はきっと幸せだよ?」
「そういうのじゃない。そういうのじゃないの」
「ここでの生活は、怖かったけど楽しかったでしょ?」
「だから、」
「戻ってこれるかも」
「どこへ行くつもり」
「どこだろ?」
「かえりはどうなったの?」
「どうなったんだろ」
やっぱり。
「誤魔化しといて、ついてこいって?」
「駄目?」
幸せにはまたなれると思うけど。
「あれは幸せじゃない」
偽りの、ですらない。そもそもなんでもない。放置されてただけだ。
「あんたは僕をかえりにしようとした」
「それはかえりがしたがってたこと。逃がしてもらえたのだって、半分くらいかえりが諦めてたからだよ」
九がそう返す。本当に目の前の人は九? とふと思う。
「違う。九、あんたは僕の先にかえりを見てる。これだけは絶対に嘘じゃない」
かえりの幸せな場所は、じゃあどこにあるの?
そんなので、本当に見つかるの? うるさい!
33
気付く。男は車を運転してる。どこも怪我してない。さっきと一緒。エンジンとタイヤで相変わらずすごい音。諦めたって顔をまだしてる。
そんなに時間は経ってないはず。いつも通りなら。でも僕が小さくなかった? あれじゃ妖精だよ。手のひらに乗りそうな感じ。
車の中が狭かったからね。今回はちっさくなったの。
僕が話してくる。これは、
「はる、」
男が僕に気付く。邪魔された。男は僕の目を見て、叫びそうになって、途中でやめる。いま、僕を投げだしそうになってなかった? 連れ帰らなきゃいけないのに、投げ出そうとするなんてなんだか中途半端だね、お父さん。
「どうしたの?」
ゆっくり口を開く。
「なんでもねえよ」
男は吐き捨てるよに言う。
この男はなんでこんな乱暴な言葉遣いをするんだろ。せっかくきれいなのに。美しいのに。
フロントガラスの向こうで、小さな小屋が、田んぼが、錆びついたカーブミラーがどんどんと後ろへ、ばびゅん、と飛んでく。いつの間にか道は上り坂へと変わって、車は森のふもとに入る。車の中が薄暗くなり、男が前を向いたまま、こっちに手を伸ばしてくる。
「なあ、はる、生きてるか」
その顔は少しだけ、とろけてる。
「生きてるよ」
男が向けた手のひらを見つめる。僕はスカートの上に乗せた両手をぎゅ、と握りしめる。
「なら、いいや」
なにがいいんだろ。
そう、居心地がいい。男のこのちくちくした抑圧は、肩身は狭いけど、痛いけれど、心の内側でなにを考えてても自由だから、外では動かなくてすむから一番楽。でも、これじゃない、僕が生きていきたいのはここじゃない。そうずっと言ってるじゃない。ここで生きてたら泥になるって言ったのは僕じゃない。逃げなきゃ。ここから脱出しなきゃ。助手席のドアに、気付かれないよに手を伸ばす。
突然、森が切れる。辺りがぱあっ、と明るくなる。僕は目を左に。どこまでも広がる田んぼと、濡れそぼった家屋が、一瞬だけ。
「あ、」
錆びついたバスの停留所。ポールとそのすぐ近くに掘っ立て小屋。その手前のベンチに、人影がちらり。
すぐ森の中にまた飲み込まれる。
「なんだよ?」
男がしぶしぶといった声色で話しかけてくる。
見間違い? 違う、絶対誰かいた。
「ううん、なんでもない」
僕はあれが次の人だって決めつける。
タイヤのこする低い音が頭に響く。僕は窓の方へ目線を送り続ける。背後に、ちらり、ちらりと視線を感じる。あれは、どのあたりだったろ。ひとまずはあの人についてこう。ここから出してもらおう。さらわれても、荷物のよに扱われても、ちゃんと旅の行きずりに数えられて一人の人間として扱ってもらえても、なんでもいいから連れてってもらって、またどこかにたどり着こう。その人に文句は言わない。ここはきっと骨をうずめる場所じゃない。この男とその他大勢との暮らしは、違う。男との行き先は、また泥だ。進むことも、選ぶこともこれから、ずうっと、ない。だから、ここは立ち止まるべき場所じゃない。でもきっとあの人も、僕と一生ともに生きてく人じゃない。よく見えなかったけど、女だったろか。男だったろか。あれは九だろか。誰でもいい。僕はそうするつもり。やり直すの。今度こそ。僕は逃げ続ける。どこかに逃げ込むんじゃなくて。身をそこに隠すんじゃなくて。逃げるんじゃなくて、逃げ続けるの。まだ疲れてなんてない。追ってくる過去の亡霊は振り払う。理想の場所を追い求めて、居場所を変え続ける。
それが、きっと正解。
「ねえ、止まって」
そのために、まずはここから脱出。
「あ、なんでだ?」
「トイレ、行きたくなってきた」
「我慢しろ」
「無理。漏らす」
男は舌打ちしてブレーキを踏む。きぃ。さっきの人は今どこにいるんだろって、僕は頭の中で地図を組み立て始める。手をかすかに引いて、車のドアを開ける。




