Back to the BASIC 批評的あとがき —あるいは、1,890円のコンパクトに隠された「美と醜の意匠」について—
【序文:芸術と鏡についての断章】
芸術家とは、美しいものを創り出す者である。芸術の目的は、芸術を現し、芸術家を隠すことにある。
批評家とは、美しいものから受けた自らの印象を、別の形式や新しい素材へと翻訳できる者のことだ。
最高形式の批評も、最低形式の批評も、一種の自叙伝にすぎない。
美しいものの中に醜い意味を見出す者は、堕落している。しかも、彼らにはその自覚すらなく、魅力もない。これは一つの罪である。
美しいものの中に美しい意味を見出す者は、教養がある。彼らには希望がある。
しかし、美しいものの中に「美」そのものだけを見出す者こそ、選ばれた人々なのだ。
十九世紀のリアリズムが示す、キャリバン(『テンペスト』の醜怪な怪物)の如き激怒。それは、鏡に映った自分自身の顔を見たことに対する怒りである。
十九世紀のロマンティシズムが示す、同じくキャリバンの如き激怒。それは、鏡に映った自分自身の顔が「映らなかった」ことに対する怒りである。
人間の精神生活は、芸術家にとっては主題の一部にすぎないが、芸術のモラリティ(道徳性)は、不完全な媒体をいかに完璧に使いこなすかという点にのみ存在する。
本を、道徳的か、あるいは不道徳かという基準で分類することなどできはしない。
本とは、「うまく書かれているか」、あるいは「へたくそに書かれているか」、そのどちらかしか存在しないのだ。それだけのことである。
すべての芸術は、極めて表面的であり、同時に象徴的である。
その表面の下へと潜ろうとする者は、自らの責任においてそうするがよい。
その象徴を読み解こうとする者は、自らの責任においてそうするがよい。
実際に芸術が映し出しているのは、人生ではない。
芸術が映し出しているのは、その鏡を覗き込んでいる「観客自身」なのだ。
【本編】
ある八月の不快極まりない朝、エアコンの効きをすっかり放棄した近代的な教室という名の生簀の片隅で、清少納言は、自らの衣服の下から「それ」を取り出した。
それは、ドラッグストア「パパス」の特売カゴで買い求めた、わずか千八百九十円のクッションファンデーションのコンパクトであった。
彼女がその安俗なプラスチックの蓋を開けたとき、歴史物語『大鏡』を司る美しき鏡男子(銅鏡くん)は、内側に嵌め込まれた小さなガラスの奥で、恐怖のあまり青ざめていた。
「主よ……。どうかお願いだ、僕の顔を閉じ、その完璧な暗闇の中に僕を帰してくれ。目の前にいる女たちの情念のタールが、僕の無垢な鏡面を侵食し始めている」
しかし、少納言は冷ややかに微笑むだけであった。彼女の背後では、和泉式部がハイスペックなスマートフォンという名の「もう一つの鏡」を握りしめ、会ったこともない男からの不倫LINEの通知を熱心に見つめている。小野小町は「Dior」の鏡を覗き込み、生成AIと美白フィルターによって、自らの「肖像」の時空を狂ったように歪めていた。
それは、ドリアン・グレイが自らの老いと醜れをキャンバスの肖像画へと押し付け、自らは若々しい虚飾の仮面を被り続けたあの悲劇と、何ひとつ変わりはしない。
現代の才女たちは、千八百九十円のコンパクトという「魔法の鏡」に向かって、24時間年中無休で問いかけ続けているのだ。
「鏡よ鏡。世界で一番美しく、一番マウントを取っていて、一番いいねを集めているのは、だぁれ?」
だが、恐ろしいのは、彼女たちがどれほど画面の中で血を流し、裏垢で他人の醜悪さを告発し合おうとも、彼女たちは「お互いに会ったことすらない」という事実である。
彼女たちの合戦は、現実のどこにも存在しない。それはただ、磨き上げられた一千年前の銅鏡と、現代のシリコンバレーが生み出した冷徹なガラス(スマホ)の狭間で踊る、実体のない影法師のダンスにすぎなかった。
【批評:アキコ黄門という名の「大いなる頽廃」】
この「わけのわからない不条理劇」の頂点に君臨したのが、藤原彰子(あきこ様)という名の、究極の唯美主義者であった。
彼女は、他の浅薄な女御たちのように、運や乱数、あるいは視聴者投票などという大衆のシステムには付き合わない。
彼女が豪華客船のロイヤルデッキで、ドバイの富豪から買い付けた「五百万円の天然真珠(十ミリ玉)」のネックレスを揺らし、ジバンシィがオードリー・ヘプバーンのために仕立てた映画『サブリナ』の黒いガウンを完全復刻させて纏ったとき、すべてのフレネミーたちの虚飾は一瞬にして灰へと変わった。
五人の美しい鏡男子たちは、その圧倒的な富の輝き(アメックス・ブラックカードという名の印籠)の前に、自ら片膝を突いて目を覆った。
「眩しすぎる……。彰子様、あなたの放つ資本主義の後光が強すぎて、僕たちの鏡面はホワイトアウトしてしまう。もう、あなたのお姿が見えない……!」
彰子様は、ジミーチュウのハイヒールで甲板をコツンと鳴らし、水戸黄門の如き高らかな、しかし悪魔的な大爆死の笑い声を響かせた。
「カーーーッ、カッカッカッカッ! 浅ましいババアたち、お退きなさい。あなたたちのAI捏造のピンドンも、パパスの千八百九十円のファンデも、私の本物のキャッシュの前には、すべて一瞬でBAN(削除)される運命なのです」
この『アキコ黄門』の爆笑の前に、紫式部も清少納言も和泉式部も、まとめてメタバース浅草花やしきのドット絵のベンチへと強制送還されていく。
それは、物語の完全な「崩壊」であり、同時に「完璧な芸術的洗練」であった。
漫☆画太郎の『まんゆうき』の如き不条理ギャグへと着地したこの結末を前にして、朝の通勤電車の中でこの画面を見つめていた「百二十人を超える読者」たちは、一斉に賢者タイム(虚無)を迎え、「……で、結局これ何の話だったの!?」と頭を抱えたに違いない。
だが、それこそが芸術の勝利なのだ。
読者が困惑し、何の話か分からなくなったとき、初めて芸術は「あらゆる実用的な目的」から解放され、純粋な、無目的の「美」として孤立する。
四代鏡(大鏡・今鏡・水鏡・増鏡)というお堅い古典の歴史書たちが、ババアたちの襲来に震え上がり、最終的に東武動物公園のフランクフルトやUSJのミニオンズへと迷走していったこの狂気のロードマップこそ、現代における最も頽廃的で、最も「うまく書かれた」おとぎ話なのである。
【結論:Back to the BASIC(原点への回帰)】
私たちは今、スマホの画面を閉じるべき瞬間に立ち会っている。
紫式部がAI画像生成の破綻(フォークの歯が6本あること)を見抜かれて大爆死し、彰子様が天然真珠をきらめかせて高笑いし、すべてのキャラクターが『まんゆうき』ばりに白目を剥いて倒れ伏した、そのタールの底から、物語は静かに、驚くべき軽やかさで『Back to the BASIC』へと収束していく。
それは、エアコンの効かない、あの夏の教室。
少納言がカバンの中から一冊の、本物の和綴じ本を取り出す。
「さあ、画面の向こうの目撃者たち。
怪しく光る鏡を覗き込んで、会ったこともない幻影と小さく競い合う、誰も得をしないフレネミー大合戦はこれでおしまい」
彼女たちは、千八百九十円のコンパクトをそっとポーチにしまい、本物の古典文学の傑作を開く。
浅草のメタバースの空から、しっとりと黄金色に輝く「いもようかん」の、素朴で優しい甘みが、タイムラインのノイズを綺麗にお掃除していく。
「いもようかん、本当に美味しい。……まさに、いとをかし、ですね」
芸術は、私たちに何の教訓も与えない。
ただ、朝の光の中で、この「わけのわからない断末魔」を見届けてくれた百二十人のあなたに、ひとつの事実を突きつけるだけだ。
あなたがスマホの画面を覗き込むとき、そこに映っているのは、平安の才女たちでも、美しい鏡男子たちでも、ましてやドバイの真珠でもない。
見ず知らずの幻影に踊らされ、現代の砂漠の中で必死にハンディファンを回している、
「あなた自身の、リアルな暮らしの顔」なのだということを。
すべての芸術は、極めて無用である。
そして、だからこそ、かくも美しく、いとをかし。




