第1話 氷の手の令嬢
羽根ペンの先から、インクがひと粒落ちた。
慌てて吸い取り紙を押し当てながら、私はかじかんだ指先にそっと息を吹きかける。
ブランデル侯爵家の執務室は、いつも暖炉に火が入っていない。
(使用人用の部屋には、薪を使わないことになっているもの。仕方ないわ)
もっとも、私は使用人ではない。
この家の嫡男、オスカー・ブランデル様の婚約者――ローエン子爵家の長女、マルグリット・ローエンだ。
それでも、こうして週に三日、朝から夕方まで侯爵家の帳簿をつけている。
婚約者としての務めだと言われれば、断ることはできなかった。
ローエン家は三年前、父が手を出した事業に失敗し、多額の借金を抱えた。
それを肩代わりしてくれたのがブランデル侯爵家で、その代わりに決まったのが、私とオスカー様の婚約だった。
つまり私は、借金の担保のようなものなのだ。
「なんだ、まだいたのか」
扉が開き、冷えた空気と一緒に笑い声が入ってきた。
オスカー様と、そのご友人がおふたり。狩りの帰りなのか、上着の裾に枯れ草がついている。
私は立ち上がって、裾をつまんで礼をした。
「おかえりなさいませ、オスカー様。今月分の帳簿は、もうすぐまとまります」
「ああ、そう。別に急がなくていいよ。どうせ父上もろくに見ていない」
オスカー様は興味なさそうに手を振り、ご友人たちを振り返った。
「見てくれよ。婚約者が来ているのに、することといえば数字を書くことだけだ。笑いもしない」
「ははっ、噂の『氷の手の令嬢』か」
「そう。一度だけ手を取ってやったことがあるんだが、死人みたいに冷たくてね。あれ以来、触る気にもならない」
ご友人たちがどっと笑った。
私は目を伏せたまま、何も言わなかった。
(表情を崩してはいけない。言い返してもいけない)
母に、そう教えられてきた。
可愛げのないお前が泣いたり怒ったりしたところで、余計に疎まれるだけだから、と。
「……失礼いたします。帳簿の続きを」
「ああ、勝手にやってくれ。ああ、そうだ、マルグリット」
出ていきかけたオスカー様が、扉のところで足を止めた。
「お前の代わりなんて、いくらでもいるんだ。それだけは覚えておけよ」
それは、もう何度も聞いた言葉だった。
扉が閉まり、笑い声が遠ざかっていく。
私はもう一度椅子に座り、ペンを取った。
指先が震えているのは、寒さのせいだと思うことにした。
(代わりは、いくらでもいる)
その通りなのだろう。
帳簿をつけることくらい、誰にでもできる。私でなければならない理由なんて、どこにもない。
だからこそ、私は黙って手を動かすしかなかった。
借金を返し終えるまで、ローエン家は侯爵家に逆らえないのだから。
数字を追っていくうちに、ふと、ある項目で手が止まった。
――竜人国ドラヴェール経由、竜鉱石の仕入れ。
――同国の竜騎士団による、南方航路の護衛費。
ブランデル家の収入の大半は、竜人国との交易に頼っている。いや、ブランデル家だけではない。このリンデン王国そのものが、竜人国が守る航路のおかげで豊かでいられるのだ。
(それなのに、皆さん竜人のことを野蛮だとか、恐ろしいとか言うのよね)
人の姿をしているけれど、本性は巨大な竜。
何百年も生き、一生にたったひとりの「番」を探し続ける種族。
本で読んだ知識しかないけれど、私は少しだけ、彼らのことがうらやましかった。
たったひとりを、何百年もかけて探し続ける。
代わりなんていない、と言い切れる相手がいる。
それはどんな気持ちなのだろう。
(……考えても仕方のないことね)
私は小さく首を振り、帳簿の最後の頁を閉じた。
ローエン子爵家の屋敷に戻ると、居間のほうから明るい笑い声が聞こえてきた。
覗いてみると、妹のコレットが母の前でくるりと回っているところだった。
淡い桃色のドレスの裾が、花びらのように広がる。
「ねえ、お母様、どうかしら? 明後日の夜会、これで行こうと思うの」
「まあ、素敵よ、コレット。あなたは本当に何を着ても似合うわね」
蜂蜜色の巻き毛に、大きな空色の瞳。
ころころとよく笑うコレットは、小さい頃から両親の自慢の娘だった。
同じ両親から生まれたのに、私の髪はくすんだ栗色で、コレットだけが光をまとっているように見える。
「あら、お姉様。おかえりなさい」
私に気づいたコレットが、にっこりと笑った。
「ただいま、コレット。そのドレス……」
「ええ、お姉様のものよ。でもお姉様には少し華やかすぎるでしょう? だから私が着てあげようと思って」
「……そう」
それは、夜会のために少しずつお小遣いを貯めて仕立てたドレスだった。
けれど、母がこちらをちらりと見て、「いいでしょう?」という顔をしたので、私はそれ以上何も言えなくなった。
「お姉様は、いつもの紺色のドレスがお似合いよ。地味で、落ち着いていて」
「コレット、言いすぎよ」
母はたしなめるように言ったけれど、その口元は笑っていた。
そこへ、書斎から父が出てきた。
「マルグリット、戻ったか。明後日の夜会のことだが」
「はい、お父様」
「王宮で、竜人国の使節団を歓迎する夜会が開かれる。ブランデル侯爵家も招かれているから、お前もオスカー殿と一緒に出席するように。くれぐれも粗相のないようにな」
「承知いたしました」
父はそれだけ言うと、なぜか私から目をそらすようにして、コレットのほうへ顔を向けた。
「コレット、お前も楽しんでおいで」
「はぁい、お父様!」
弾むような妹の声を背に、私は自分の部屋へ向かった。
廊下は薄暗く、冷えていた。
部屋に入って、寝台の端に腰を下ろす。
両手をこすり合わせても、指先はちっとも温まらない。
(今日の父の様子、少しおかしかったような……)
目をそらされたのは、気のせいだろうか。
コレットが妙に機嫌よく笑っていたのも。
けれど、考えたところで答えは出ない。私は小さく息をついて、窓の外を見上げた。
冬の夜空に、細い月がかかっている。
その向こう、はるか南の空の下に、竜人たちの国があるのだという。
(竜人の使節団、どんな方々なのかしら)
ほんの少しだけ、胸の奥がざわめいた。
それが何なのか、そのときの私にはまだ分からなかった。
――明後日の夜会で、自分の人生がひっくり返ることになるなんて。
この冷たい手を、温かいと言ってくれる人に出会うなんて。
まだ、何ひとつ知らずにいた。




