↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/62

40話 冬に佇む藤の花

私は冬が嫌いだ。


ベッドから抜け出せなくなるし、肌が荒れるから。


そう思いながら渋々、暖かい布団から起き上がる。


布団を畳み、キッチンに向かう。冷蔵庫から適当に卵と納豆、それに残り物のおかずを温め直して、朝食を済ませた。


洗面台で歯磨きをしていると、痛みが走る。


唇が割れて、少しだけ血が出ていた。


口の中に血が入ってしまい、鉄の味が広がる。


ため息をつく。そして、それを無視して歯磨きを続けた。


昨日、事前に選んでおいた服に着替える。


「……」


勉強机の引き出しに手を伸ばす。


上着についている左右のポケットにしまう。


少しだけポケットが重くなり、安心感を覚えた。


机の上に飾ってある、写真立てが目に入った。


幼い頃の私と手を繋いでいる父と、弟を抱きかかえている母が写っている。


写真立てに手を添えた。


あの頃は、幸せだった気がする。


小さい頃は写真を見るたびにそう感じていたが、すでに遠い昔の話だ。


今はもう、感情が動かされることはない。ただの記憶の一部に過ぎない。


だが今日だけは――


写真立てを伏せる。


「……早く準備をしないと」


気を取り直して、リップクリームを塗っていると、後ろからあくび声が聞こえた。


「おはよう、お母さん」


「おはよう、秋果……出かけるの?」


「うん、遊びに行ってくる。昨日も言ったと思うけど……」


「……あぁ、そうだったっけ。ごめん、覚えてなかった」


本当に謝意があるのか、よくわからない態度と言葉。


「そう……」


今更だ。今更、気にするようなことでもない。


女手ひとつで私たちを育てている母は、昼も夜も働いている。


だから、私のことを気にしてる余裕も当然ない。


最後に玄関前に置いてある、姿見で全身をチェックしたあと、藤の花の香水をつけて整える。


「じゃあ、行ってくるから」


私の言葉に返事もせず、布団で咳き込んでいる弟の元へ母は向かっていく。


私も母を無視して、玄関のドアを開けた。


外に出ると、生活道路を挟んだ向こう側の空き地に、枯れた草木が生えている。


私は……冬が嫌いだ。


春や夏と違って、景色の色が減って殺風景になるから。


黒臼くんと出会う前の私に似ている。あのときを思い出す。


心が乾いていくような気がしてしまう。


冷たい風と共に枯れ葉がカラカラと転がり、私の足元を横切る。


前を向き、頬を軽く叩く。


私の中から、後ろ向きな自分を……黒臼くんと会うのに相応しくない自分を、追い出した。


「あぁ……楽しみ」


深呼吸をして、息を整える。


乾燥した冷たい空気が肺を満たし、口元から白い息が漏れる。


駐輪場にある自転車に手をかけ、走り始める。


少し走ってから足を止める。振り返ると私の家である、古びた2階建ての市営住宅が見えた。


そこには致命的な不幸はない。だけど、心躍るような幸福もない。


薄氷の上を歩いているような感覚。


それでも、私の心だけは違う。冬には似合わないほど、たくさんの色に囲まれている。


だって今日は、黒臼くんとのデートなんだから。


彼を想うだけで、私の心は春の穏やかな風と新緑の草木に囲まれる。


その中心にはいつだって彼がいて、私の隙間だらけの心を埋めてくれる。


そんな色褪せた私の人生に、色彩を取り戻してくれるのは、黒臼くんだけだ。


再びペダルに足を乗せ、力を込める。


気持ちに比例するように、ペダルを漕ぐ足が軽くなっていく。


私は――春が好きだ。



****



スマホを取り出して、時間を確認する。


40分ほど早く、集合場所である駅前に到着してしまった。


今から清水さんを待つのは、さすがに時間を持て余してしまう。


お腹が鳴る。朝食をまだ食べてなかったことを思い出した。


とりあえず、駅中のショッピングモール内にあるフードコートに向かった。


その一角にモスバーガーがあったので、ホットドッグとコーヒーを注文した。


清水さんの顔を思い出しながら商品が届くのを待つ。


清水さんと冬香の二人からプレゼントをもらった放課後のこと。


自宅で俺のことが好きだから、振られても諦めないと言われたこと。


高校に入ってから初めて出会ったこと。


そして、藤の花の前で膝枕をしてもらいながら過ごした日々。


全てが俺にとって大事な思い出だ。


最近になってようやく、そう思えるようになった。


だが、高校で彼女と再会するまで、思い出すことさえなかった。


申し訳ない。こんなにも想っていてくれたのに、俺はちゃんと向き合ってこなかった。


実を言うと、小学生の頃から彼女が好意を持ってくれていること自体には気付いていた。そのときは恋愛的な意味だと夢にも思ってはいなかったが……。


当時の俺は、父の都合で頻繁に転校していたので、交友関係を深めたい気持ちにならなかった。


仲良くなった友達と別れる。何度か繰り返すうちに、俺の中にある悲しさと寂しさは当たり前になった。


そこから転じて、友達なんて最初からいないほうがいいとさえ考えていた。


その代わり、家にいた猫のハモと母が心の拠り所となっていた。


だから他人からの好意を受け止める心を持ち合わせていなかったし、どう応えるべきなのか……何ひとつわからなかった。


「言い訳がましい話だな。……清水さんと向き合ってこなかった理由にはならない」


かつての自分を嘲笑する。


手元の呼び出しベルが鳴る。出来上がったようだ。


商品を受け取り、席に戻ると、スマホからメッセージの着信音が聞こえた。


送り主は、冬香だった。


『今頃は清水さんとデートでしょうか?私のことは気にせず、楽しんできてくださいね』


数分後、もう一度着信音が鳴る。


『何度も連絡してごめんなさい。最後に、どうしても言いたいことがありまして』


『私も夕陽くんのことを待っています。行ってらっしゃい』


頬がゆるむ。


返信を打ち込み、送信した。


冬香は俺のことを信じて待ってくれている。


再び、メッセージの着信が届く。


清水さんだった。ちょうど今、駅に到着したようだ。


残ったホットドッグを口に放り込み、それをコーヒーで流し込む。


急いで集合場所の改札口前まで戻った。


少し息を上げながら戻ってくると、清水さんの姿が見えた。


だが、見慣れない男性が二人、そばにいる。


二人とも細身な外見で、少し年上のように見える。


だが、全体的に軽薄そうな雰囲気のせいか、むしろ外見に見合わないほどの幼稚さを感じる。


俺は不審に思いながら近付くと、会話が少しずつ聞こえてきた。


どうやら、清水さんをナンパしてるようだ。


彼女の表情には、恐怖の色が見える。


男性らの口説き文句は、典型的な浅い言葉を並べ立てているようだ。


それなら、こちらもテンプレートで返すしかないだろう。


俺は急いで彼女の元へ向かう。


「清水さん、お待たせ」


彼女は俺の声が聞こえたほうに振り向く。


今にも泣き出しそうな表情で、助けを求めていた。


「えっと……あの、この人を待ってただけなので……ごめんなさい」


清水さんは俺に視線を向ける。これで諦めてくれるなら御の字だが……。


「えー、こんな地味な奴と遊びに行くの?」


「これから他の奴らと合流してから遊ぶからさ、今からでも俺らに乗り換えたほうがいいよ?」


彼らは貶すような目線をこちらに向ける。


俺もそれに応酬するために少しだけ目を細めて、睨み返した。


「すみません。俺の連れなんで、やめてもらっていいですか?」


なるべく毅然とした態度と言い方を心がけながら、会話に割り込む。


「あんた、こいつと付き合ってるわけじゃないんだろ?」


見下すように笑い、軽くあしらうような言い方をしてくる。


もう一人の男もケラケラ笑いながら同調している。


たしかに付き合ってるわけじゃない。だが、ここで事実を主張することに意味はない。


大事なのは、清水さんを助けることだ。


「いや、普通に付き合ってるので。俺の彼女に手を出さないでください」


俺は、さも事実かのように、さらっと嘘をつきながら清水さんの肩に手を回し、抱き寄せることで彼らから遠ざける。


彼女は状況が飲み込めないのか、唖然としている。


「ね、秋果。俺たち付き合ってるよね?」


「ひゃいっ!……うん……うん、そうだね。付き合ってる……」


彼女は状況が飲み込めていないようだが、俺に合わせてくれた。


「ちっ……はぁ、もういいや、行こうぜ。こんなレベルの女は他にもいるし。面倒だわ」


興が冷めたのか、男たちは悪態をつきながら離れていく。


十分距離が取れるまで、彼女を離さない。


「ふぅ……清水さん、大丈夫?」


抱き寄せていた彼女に目を向けると、まだ固まっていた。


「ごめん、驚いちゃったよね。落ち着くまで待ってるから」


彼女から離れようとすると、逆に彼女から体をすり寄せてきた。


「離れないで……お願い」


「……わかった」


彼女の体から震えが伝わってきた。


少しでも安心できるように手を握る。


しばらくのあいだ、彼女は何も言わなかった。


アナウンスが聞こえる。それから少し遅れるように、改札口からたくさんの人が流れ込んでくる。


「ごめんね、もう大丈夫だよ」


彼女は俺から離れようとする。だが、俺は引き留めた。


「清水さん、少し待って」


ぐっと腕を掴み、再び引き寄せる。


彼女は驚きと共に俺の胸の中で、静かに身を寄せた。


藤の花の気配を感じる。


たぶん、清水さんの香水だろう。


「何度もごめんね、人とぶつかりそうだったから……」


「ううん、大丈夫。ありがとう。ごめん、今日はなんだか、ダメダメだね……私」


「そんなことないよ。変な男に絡まれて少しびっくりしてるだけだと思う」


人の流れが穏やかになってきたので彼女を離すと、清水さんの服装が目に入った。


「ありがとう、黒臼くん」


「どういたしまして、清水さん」


制服姿しか見たことのなかった彼女のファッションは、金髪を生かしたコーディネートのように見える。


ライトブルーのコートの下には、縦のラインが入ったグレーのニットのワンピース。それに、黒のタイツとショートブーツを履いている。


全体的にモノトーンな色合いで、金色の髪がよく映えていると思う。


とはいえ、ファッションには明るくないので、勘違いかもしれないが。


「その服装、可愛くて綺麗だね」


「えへへ、本当?ありがとう。頑張って選んだから、そう言ってもらえると嬉しいっ」


その場で一回転して全身を見せてくれる。


楽しそうな彼女を見ただけで、笑顔がこぼれた。


清水さんは両手をコートのポケットに入れて、正面から俺を見つめる。


「ねぇ、黒臼くん。お願いがあるの」


彼女は左ポケットで、何かを握っているように見えた。


「どうしたの?」


彼女は、恥ずかしがりながら言い淀む。


「今日だけ。今日だけでいいから、私のことを……さっきみたいに秋果って呼んでほしいの」


「清水さん……前も言ったけど、俺は――」


必要以上に期待をさせた結果、一番苦しむのは清水さんだ。


たぶん、やるべきではないと思う。


だが、彼女は目線を落としながら、俺の言葉を遮る。


「それでもいいの。私も、あなたのことを夕陽って呼びたい……」


切実な声と表情が、俺の心を揺らす。


彼女の気持ちを知っているだけに、より強く訴えかけられているように感じた。


どうやら俺は、どう足掻いても自分を捨てることができないらしい。


「……わかった。じゃあ今日は、よろしくね。秋果」


彼女は希望が通ると思っていなかったのか、少しだけ驚いたあと、穏やかに笑った。


「ありがとう、夕陽。本当に嬉しい」


俺と秋果の、最初で最後のデートが始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。