試験前
まだ夜の名残が残る時間だった。
外は薄暗く、空気はひんやりと冷たい。
頭はすでに起きていた。
身体を起こし、いつも通りの動作で家事を始める。水を汲み、火を入れ、朝食の支度を進める。包丁を握る手も、鍋を扱う動きも、すべてが慣れたものだった。昨日と変わらない。
今日が試験当日であること以外は。
食堂で準備をしていると、開いた扉の向こうから控えめな足音が聞こえてくる。
「……おはよノクス君」
顔を出したのはテッサさんだった。いつもより早いが、その分、どこか落ち着きがなくそわそわしている。
「おはようございます」
僕が返すと、テッサさんは少しだけ苦笑した。
「寝れた?」
「はい」
正直な返答だった。
「テッサさんは」
「あんまり寝れてない……」
肩を落としながら答える。
よく見ると目の下に隈がみえる。
続いて、もう一人の足音がする。
「二人ともおはよう。テッサは早いわね。大丈夫?」
オリビアさんが階段を降りてきた。声も表情もいつも通りで、特に気負った様子はない。
リラさんは入団試験の為に宿舎に泊っているらしい。
「うう”緊張で、あんまり寝れなかったあ…」
「まあ、そうなるわね」
軽く言って席につく。
三人で食卓を囲む。会話は自然と少なくなる。緊張しているのはテッサさんが一番分かりやすいが、空気そのものがわずかに張り詰めている。
「時間は問題ないわね」
オリビアさんが確認する。
「はい」
「だ、大丈夫」
短い返答が重なる。
「じゃあ食べたらすぐ出ましょう。遅れるのが一番くだらない失敗だから」
その言い方は淡々としているが、的確だった。
食事を終え、支度を整え、外へ出る。
春の陽気に包まれた王都の朝はすでに動き始めていたが、普段とは明らかに様子が違った。同じ方向へ向かう人の数が多い。年齢も服装もばらばらだが、共通しているのはどこか硬い表情だった。
騎士団の入団試験を受ける者たちだ。
「……こんなにいるんだ…」
テッサさんが小さく呟く。
「毎年こんなものよ」
オリビアさんは歩きながら答える。
「まあ、最後まで残るのは半分くらいって聞くけど」
あっさりとした言い方だったが、その言葉にテッサさんの背筋がわずかに伸びた。それにしても、オリビアさん騎士団の事情に妙に明るい。今度聞いてみよう。
やがて、目的地が見えてくる。
騎士団の訓練場。高い石壁に囲まれた広大な敷地で、門の前にはすでに人の列ができていた。
ざわめきはあるが、騒がしいというよりは、抑えられた緊張が滲んでいる。
「受付はあそこね」
オリビアさんが指し示す先に列が伸びている。
三人でその列に並ぶ。
前後から、断片的な会話が聞こえてくる。
「これ通らなかったらどうする?」
「別の働き口探すしかねえべ……」
「年齢的に今年で最後なんだよな……」
どれも軽い調子ではない。生活や将来に直結していることが、そのまま言葉に出ている。
テッサさんは視線を落とし気味にして、無意識に手を握りしめていた。
「……大丈夫…」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
とっさにその小さな手を握る。
手の中の小さな震えが止まった気がした。
列はゆっくりと進む。
やがて順番が回ってくる。
簡素な机の向こうに、記録係の騎士が座っていた。
「次」
短い声。
一歩前に出る。
「名前」
「ノクスです」
紙に記され、確認が入る。
騎士は無駄のない動きで手続きを進めると、小さな札を差し出した。
「受験番号317。首から掛けろ」
「はい」
受け取って確認する。
次にテッサさん。
「名前」
「テッサです」
「受験番号318」
同じように札を渡される。
すべてが事務的に進む。そこに特別扱いは一切ない。
「中に入れ。指示があるまで待機」
「はい」
短く返し、二人で中へ進む。
オリビアさんは門の外で軽く手を振った。
「終わったらそこで待ってるわ。気負いすぎないで頑張って」
それだけ言って送り出す。
訓練場の中は、さらに広かった。
すでに多くの受験者が集められており、それぞれが静かに、あるいは落ち着かない様子で立っている。
周囲には鎧姿の騎士たちが配置されており、場の空気は一段と引き締まっていた。
テッサさんが小さく息を吸う。
「……すごいね」
「はい」
短く返す。
余計な言葉は出てこない。
やがて、一人の騎士が前に出る。
装飾の少ない実用的な鎧。声を張り上げるでもなく、しかしはっきりと全体に通る声で言った。
「受験者、整列」
その一言で空気が変わる。
ざわめきが止まり、人が一斉に動き出す。
「番号順に並べ。私語は控えろ」
淡々とした指示。
自分の札を確認し、指定された位置へ移動する。テッサさんはすぐ後ろだった。
並び終える頃には、場は完全に静まり返っていた。
誰も無駄な音を立てない。
ただ、緊張だけが残る。
試験官が全体を見渡す。
「これより騎士団入団試験を開始する。各自、指示に従え。違反者はその時点で失格とする」
簡潔だった。
説明も、鼓舞もない。
前を見たまま、わずかに息を整える。
ここから先は、もう準備ではない。
本番だった。




