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ひでえやられようだ

 アダンを覆いつくす触手たちは動きを止めず、彼の体を何十もの刃で斬り、裂き、貫いているのだろう。シガールは部下の、家族の凄惨な死体を見まいと顔を反らそうとして、その異変に気が付いた。

 アダンの足から血が滴っていないのだ。あれだけ斬り刻まれればおびただしい血が出るはずだ。だが、アダンの足に鮮血は滲んでおらず、痙攣しているように見えた脚の震えは、蜻蛉トンボの体から落ちまいと蜻蛉の体に足をかけようとしているだけだったのだ。

 シガールは上昇が止まった隙をついてもう一度刀を振るい、触手が倒れるその一瞬で、アダンの姿を見た。アダンの全身が、赤錆色の膜のようなものに包まれていた。アダンはとっさに蟲の体液を凝固させ、全身を守る鎧を生成していたのだ。


「おい大丈夫か!」

「つづ……けてくれ!」


 鎧というにはあまりに粗末で、固めた体液を全身にかぶっていると言う方が正しいかもしれないが、とっさの判断としては最高の出来だった。蜻蛉の姿勢が再び水平に戻ると同時にシガールは叫んだ。


「いけるかアダン!」


 アダンは大声で返事をして、這うように前進を始めた。急ごしらえの盾は堅牢とはいいがたく、触手の攻撃を受けて少しずつひび割れ、削れ、壊れ始めていた。シガールは全身全霊の力を込めて刀を振るい、アダンの道を開けていく。

 少しずつ、少しずつアダンは前進し、ついに蜻蛉の頭部へとたどり着いた。アダンは手甲に残された体液を放出し、鋭く長い槍を錬成し、思い切り振り上げた。瞬間、触手の刃が盾を貫き、アダンの肩に食い込んだ。


「――ッ……あああああああ!」


 アダンは歪な槍を、倒れこむように蜻蛉の複眼、人の目玉の集合体のようなその部分に深く突き立てた。鋭利な槍は複眼を突き抜け頭部の内側、その奥深くまで達した。巨大な蜻蛉は金切り声を張り上げ、アダンとシガールは耳をふさいでその断末魔の咆哮に耐えた。

 やがて羽音が止み、蜻蛉はだらりと体を弛緩させた。浮力を失った巨体はまっすぐに地面へと落下してく。


「落ちるぞ掴まれ!」


 どちらともなくそう叫ぶと同時に、二人は浮遊感を覚え、その直後に落下する風が全身に襲い掛かった。アダンは突き立てた槍に向けて籠手に充填していた体液を放出、固着させ、振り落とされないよう暴風の中踏ん張った。目も開けられず、鼓膜は暴れまわる風の音しか聞こえない。


 腕に衝撃が走るとともに、体がふわりと浮いた。

 アダンを蜻蛉の体に固定していた槍が折れたのだ。


 アダンは全身が浮く感覚と同時に死を覚悟したが、その浮遊感は一瞬で、すぐに地面に背中が当たり、アダンは背中に走る痛みで肺の息を吐き出した。


「がはっ……あ…く……!」


 呻きながら立ち上がると、目の前に蜻蛉の姿があった。アダンはすぐに身構えた。しばらくそうしていたが、蜻蛉は動かなかった。その場で聞こえるのは、アダンの荒い息と、がれきがぱらぱらと崩れる音だけ。


「はあ、あ――」


 アダンは尻もちをついた。足に力が入らなかった。目の前の怪物と戦っていただなんて。おぞましい蜻蛉の亡骸をみつめ、改めて恐怖を感じた。これは本当に生き物だったのだろうか。

 アダンがごくりと喉を鳴らすと、がらがらと何かが崩れるような音が聞こえ、蜻蛉の頭に石のレンガが落ちてきた。硬いレンガが複眼のうち一つをつぶし、体液が飛び散った。その一部がアダンの足にかかり、傷口に染みた。


 蜻蛉は動かない。やはり死んだようだ。


 アダンは深く息を吐き出し空を見上げた。だが、空は一部しか見えなかった。その時になってようやく自分が建物の中に居ることに気が付いた。ここは遠くに見えていた砦の一つだろうか。周りは石のレンガに囲まれ、ところどころに苔のようなものが生えている。絶命した蜻蛉が突っ込み、屋根と壁の一部が崩壊している。

 アダンは立ち上がって蜻蛉の亡骸に歩み寄った。いつものように体液を手甲に吸収すると、雲の切れ間から、陽の光が差し込みはじめた。ふと、仲間たちの事が気掛かりになった。それに、シガールは――。


「おい、無事か」


 振り向くと、部屋の入口にシガールが見えた。彼は腕や額から血を流していたが、無事なようだ。そこでようやく、アダンの体も全身の痛みを思い出した。ぐらりと体がぐらつき、駆け寄ったシガールに抱きとめられた。


「お互いひでえやられようだ」

「……皆、無事だよな」

「ファレーナは心配だが、まあ簡単に死ぬ奴らじゃないさ」


 アダンは肩を貸してもらってようやく歩くことができた。さっきまで緩く感じていた痛みが、大きくはっきりとしてきた。だが、それ以上に生き残れた喜びが、安堵が、アダンの頭に巡った。それはシガールも同じであった。二人は今、ある種の幸福感と共に、蜻蛉の亡骸に背を向けた。


「体中いてえ……」

「俺も一緒だ。こりゃ帰りは荷台に……」

「荷台になんだ?」

「……」

「シガール?」


 足を止め、黙りこくったシガールにアダンは訝し気な視線を向けた。シガールの視線は正面の一点を見つめている。アダンは視線の先に目を向けるが、そこにはなにも見えなかった。

 アダンは眉をしかめシガールの顔に視線を向けた。先ほどまで正面を向いていた顔が、今度は下を向いていた。意識せず、アダンはその視線を追った。


 そこには何かがあった。

 それが何かは分からなかった。

 ただ、その何かが――。


 シガールの腹部を貫いていた。

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