触手
「いけるか!」
「ああ!」
二人が体制を整えると同時に蜻蛉の背中、その甲殻の隙間から何かが伸び上がった。先ほどのヤゴとは似ても似つかない触手のようなものだった。2メートルほどの高さまで伸びたところで、触手の先端から細い刀剣のようなものが飛び出し、ビュンビュンと回り始めた。
更にその刀剣を生やした触手がいくつも伸び、頭部への道を完全にふさいでしまった。しかし、その触手はシガールの一振りですべて刈り取られた。触手たちは蜻蛉の背に倒れ、びちびちと痙攣してから動かなくなった。
アダンはシガールの肩を叩き「流石だな」と言って頭部に向けて進もうとしたが、シガールに手で制され止まった。訝しんでシガールの顔を見るアダンだったが、シガールが顎で指し示した方を見て固まった。新しい触手が次々と生えてきているのだ。
「さっきからこれの繰り返しだ! クソ、頭にさえたどり着ければ……」
「なんで頭が弱点ってわかるんだ!」
「さっき下に来た時、頭に向けられた攻撃だけ防いでいた!」
「さっきの一瞬でそこまで見てたのか!」
「ああ、だがこのままじゃこっちが先にバテちまう!」
「……あんた、さっきのまたできるか!」
「何回やってもおなじだぞ!」
「あんたが触手を切り倒してる間に、俺が頭のとこまで走る!」
「本気で言ってんのか!」
襲い掛かる風音に対抗するように張り上げる二人の声が震えているのは、高度による寒さだけが理由ではない。歴戦のシガールも、鉄面皮のアダンも、かつて対峙したことのない大きさの蟲に恐怖しているのだ。
巨大な異形の背に居るだけで精神をすり減らすのに十分な上に、目の前で無数の不気味な触手が刃を振り回しているのだ。気が触れてもおかしくはない。だが、今ここに居る二人は、巨大な蜻蛉の背に飛び乗ろうと考える阿呆であり、そのまま恐怖に押しつぶされるほどの繊細さは持ち合わせていなかった。
「俺が頭にたどり着くまであんたがバテなきゃいいだけだ!」
「最近どうも腰が悪くてな!」
「ふざけるなよ!」
シガールは一度だけ無理に笑い、アダンは「いい笑顔だ」と叫んだ。アダンの言葉にシガールはもう一度笑うと、震える手に活を入れて刀剣を握りしめた。アダンが提案した作戦はただの思いつきに等しい。もしシガール斬撃が遅れたら、触手が増えたら、彼の目の前でアダンは切り刻まれることになるだろう。だが、ほかに打開策もない。
「いいか、俺の攻撃は斬撃じゃねえ! 碧石の成分を飛ばしてるだけ、人体に影響はない! だから俺の攻撃をかわすことは考えなくていい! ただ、お前の体に阻まれてお前の前方には成分が届かないかもしれない! だから、お前はこのクソッタレの蜻蛉野郎の頭にたどり着くまで、目の前の触手を斬って斬って斬りまくれ!」
アダンは頭を縦に振って応えると、両手に剣を錬成して低く構えた。シガールが放つ碧石の成分を少しでも広範囲に届かせるという意味もあったが、触手たちの刃が彼らの上部――ちょうど人間の首のあたりだろうか――を中心に振り回されていたからだった。「こいつの姿勢が落ち着いたら行くぞ!」シガールの言葉に頷き、目を閉じて呼吸を整えた。
蜻蛉が身をよじるのをやめ、わずかに風が弱まる。その瞬間を狙い、シガールは剣を振り抜き、アダンは駆け出した。低くなったアダンの視界にばたばたと倒れていく触手たちが見える。前方に残った数本を根元から切り裂き、駆け抜ける。すぐに触手が生え変わる。再びシガールが刀を振るう。アダンは前方の生き残りを刈り取って前進する。
数度それを繰り返し、アダンはとうとう蜻蛉の羽、その付け根のあたりにまで来た。人の皮を無理やり引き延ばし、人骨につなぎ合わせて造られたような赤黒い羽が、風の渦を巻き起こしている。あまりの風圧に、アダンの足が一瞬止まった。その時だった。
アダンの視界は黒く染まり、シガールの視界からはアダンが消えた。アダンの周囲に、何十もの触手が生え、彼を覆いつくしたのだ。先ほどまでのように広い範囲にけん制するように生やしていた時とはまるで違った。
確実にアダンを狙っている。
「――ッ!」
「アダン!」
叫ぶシガールの斬撃は、アダンを取り囲む触手の外周部分を倒したのみで、救出することはできなかった。シガールが緑色の刀をもう一振りしたところで、触手は刃を生やし、アダンに向けて一斉に刃を振るった。周期的に回していただけの筈の刃は今、確実にアダンだけを狙っていた。
無数の刃が一斉にアダンに振り下ろされた。
シガールは瞬時言葉を失い立ち尽くしていたが、すぐに駆け出していた。アダンがやられたならば、自分がこの蜻蛉を倒さねばならない。その使命感がシガールの体を動かした。だが、折り悪く蜻蛉が上昇を初め、シガールは振り落とされないようにしがみ付くのがやっとだった。
「おい無事か! 返事をしろ!」
暴風の中、必死でシガールはアダンの名を呼んだが、返事はない。ほんの数メートル先の触手の塊、その奥にがくがくと痙攣するアダンの足が見えた。
「アダン――」




