何が起きた
アダンは虫けらのように、地面に這いつくばっていた。
なんだ、何が起きた。
アダンは体を起こそうとしたが、痛みで動かなかった。砂埃にまみれた空は暗い雲がのしかかり、今にも落ちてきそうだった。少し頭を動かすと、石か何かでできた砦のようなものがいくつかあるのが目に映った。焦点の合わない視界に映るそれは、自身の指と同じくらいの大きさに見えた。ずいぶん遠くにあるんだな、とアダンはぼんやりと思った。
何とか体を転がし、うつぶせになって無理やり体を起こした。ふらつき、ぼやける視界には黒い外套の鶯たちが映った。何事かを叫びながら右へ左へと動き回っている。巨人が引いていた荷馬車は壊され、その傍らに血に濡れた鶯の姿があった。
「…………」
誰だかよくわからなかったが、片腕がない。とめどなく流れ出る赤い液体をどうにか止めようと、数人が跪き、悲痛な顔で回りに何かを叫んでいる。アダンは他人事のような感覚でその光景を眺めていた。
全く現実感がなかった。目の前の光景の音は何も聞こえず、匂いも何もない。そこに自分がいるなんて感覚は微塵もなかった。趣味の悪い絵画を見ているような気分だった。
ふいに体が引き寄せられ、アダンの意識は目の前の現実へ僅かに戻った。
「アダン! お前は大丈夫か! オーが今網を用意している! お前も手伝え!」
「ああ、え……わかっ、た」
「あいつを迎え撃つ!」
シガールが指さした方向には先ほど見えた砦があった。そしてその上空に小さな影が見えた。細身の躰、長く伸びた楕円の羽だけが視認できた。
「準備しろ!」
いわれるがままに、アダンは網の準備を手伝った。隣に居た誰かが何かを問いかけてきたが、頭が処理できずに、アダンはあいまいな返事を返した。砦の上空に見えた小さな影。指ほどの大きさに見えてしまうほど遠い距離の砦の上空に見えた、影。
どれほど、大きいのだ。
「備えろ!」
砦の方を向くと、影がこちらへ向いていた。再びアダンの頭から現実感は消え失せた。だが、今まで生き抜いてきた習慣が、アダンに武器を構えさせた。ふと、崩れた荷馬車の脇にうずくまる人物の顔が見えた。
ファレーナだ。片腕をなくしたのは彼女だったのか。あれではもう裁縫は難しいだろう。今度外套がほつれた時はどうしようか。アダンはそんなことを考えながら、武器も持たずにただ構えた。
「来るぞ!」
誰かの叫びと共に空を見ると、影が徐々にこちらに向かってきているのがはっきりと見えた。大きな――ちょうど先日見かけた汽車ほどの大きさの蟲が、こちらに向かってきている。その光景に、現実感を失っているのはアダンだけではなかった。その場にいた誰もがぼんやりとした視線をその影に向けていた。
だが、これは紛れもない現実だった。
影の姿かたちが、色が見えてくるにつれて、徐々に空気を叩き交ぜるような不快な羽音が耳に届くようになる。それに比例してアダンたちも今目の前に巨大な蟲が、死が迫ってきていることを実感し始めた。誰かが小さく悲鳴を上げた。アダンの体は恐怖で固まった。
その巨大な蟲が蜻蛉だと理解できるまで距離が縮まってもまだ、アダンの体は動かない。徐々に蜻蛉の姿がはっきりとしてくる。人間の骨肉を赤黒い皮や肉で繋ぎ合わせたような醜悪な姿だ。
「……!」
ようやくアダンは充填されていた赤錆色の体液を解き放ち、剣を錬成した。だが、それを何のために作ったのか頭は理解していなかった。迫りくる蜻蛉に向けて構えてはみるが、それで食い止めよう、戦おうという意識は微塵もなかった。ただ、いつもそうしているからそうした、ただそれだけだった。
アダンの体が震え始めた。カチカチと赤錆色の剣が音を立て、周りの仲間も同じであった。人間の死骸を繋ぎ合わせて造られたような蜻蛉の姿が近づいてきて、アダンは思わず目を閉じてしまった。真っ暗な避難所で、突風と痛みが襲い掛かるのをただ臆病に待った。
だが、その時は訪れなかった。大きな羽音と、渦巻く風が全身に叩きつけられるだけである。恐怖が徐々に薄れ、アダンは先ほどまで自分が無意識に行っていた作業を思い出した。
蟲を捕らえる網の設置。
蜻蛉はあれにかかったのだろうか。だから今こうして何も起きないのだろう。だとしたらいつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。攻撃しなければ。ようやくアダンは意識を引き戻し、目を見開き自分の前方の網を見た。
だが、そこには奇妙な光景があった。自分の周りにいる鶯たちが、立ち尽くしたまま動かないのだ。逃げるでも、戦うでもなく、ただ立ち尽くしていた。更に奇妙な事には全員が前方の、少し上に顔を上げている。アダンも引き寄せられるように仲間たちの視線を追う。
目が合った。
蜻蛉の複眼。その一つ一つに巨大な人間のような目玉があった。そのいくつかと、アダンは目が合った。この蜻蛉は罠の目前で止まっていた。完全にそれが何であるか理解しているのだ。
「撃てぇ!」
シガールの号令と共に、飛び道具をもった鶯たちが攻撃した。だがそこには蜻蛉はいなかった。全員が混乱した。あの巨体が一瞬にして消えたのだ。よく見ると蜻蛉は攻撃をかわすために後退したのだと分かった。完全に停止した状態から、一瞬で十メートル近く後退したのだ。次の瞬間、風が唸るような音が聞こえた。
「全員、離れ――」
シガールの叫びは、蟲網が蜻蛉の突進で破壊される音でかき消された。強固なつくりの蟲網が、体当たり一発で壊されてしまった。罠を壊した蜻蛉は体をよじり叫び声をあげた。鶯たちの絶望は蜻蛉の咆哮で更に色濃く塗り固められていく。
何十もの、何百もの人間が金切り声を上げたかのようなその咆哮は、その場にいた全員の戦意と理性を簡単に削り取っていく。その金切り声に誘われるように、蜻蛉の体から何かが――ヤゴのような蟲が湧き出してきた。死体の山から蛆が湧き出るように、蜻蛉の体から人間大の蟲が身をよじり、地面へと、アダンたちの元へと生まれ落ちてくる。
「全員応戦しろ!」
シガールの指示でどうにか狂を発する寸前で踏みとどまった鶯たちは、産み落とされたヤゴたちに応戦した。折りたたまれた下顎の一撃をいなし、かわし、何とか倒していく。しかし、蜻蛉の体から湧き出る数はそれを上回っていた。
アダンは盾を生成し、ヤゴの突き出した顎を受け止めた。そしてふと、シガールの姿がないことに気が付いた。それと同時に、蜻蛉がその場から離れていくのに気が付いた。ヤゴの体を盾で押しつぶし、アダンは頭上の蜻蛉を見上げた。
旋回して突進でもしてくるのかと思ったが、どこか様子がおかしい。まっすぐに飛ばず、体をくねらせ、よじっている。まるで何かを振り落とそうとしているようだ。アダンの目に碧色の何かが蜻蛉の背中についているのが映った。
「シガール!」
蜻蛉の背中にシガールが乗っていた。碧色の刀剣を蜻蛉の体に突き立て、必死にしがみついている。背に乗った彼を振り落とそうと、蜻蛉は骨と血肉が擦れ合うようなぎちぎちと不気味な音を立てながら体を捻じり、ぐねぐねと蠢きながら上昇していく。
アダンはハッとして周囲を見渡した。そして、アカリを見つけて駆け寄った。負傷したファレーナを守るように、体を震わせながら掌に炎を灯している。
「おいアカリ!」
おびえ切った顔で自分を見上げるアカリの肩を掴み、アダンは頭上の蜻蛉を指さした。
「俺をあいつに向かって投げろ!」
「そ、そんなのできないよ!」
「オーにやらせるんだ!」
「で、でも……危ない!」
アカリの視線の先には、今まさに飛びかかろうとしているヤゴが居た。禍々しい足で地を蹴り、二人めがけて飛びあがったその瞬間、マイがヤゴを拳で叩き潰した。「アダン! 何言ってんのよあんた!」と叫ぶが、その言葉に答えずにアダンはオーの掌に乗った。
脅え、戸惑っていたアカリだったが、アダンが「早くやれ!」と叫ぶと、弾かれたように「やって!」とアカリが叫んだ。巨人はアカリの言葉をそのまま受け入れ、振りかぶるとアダンを蜻蛉めがけて投げ飛ばした。
着地のことなど考えていなかった。とにかく、シガールと一緒にこの化け物を倒す。そのことしかアダンは考えていなかった。球のように投げられたアダンの体に、風が叩きつけられる。風圧で目も明けられず、風の音で耳も聞こえない。
「ぐ……うっ……!」
アダンは手甲に充填していた蟲の体液を放出し、いくつものかぎ爪が付いた棒を錬成した。風圧でほとんど開けられない瞼を無理やりこじ開け、蜻蛉の醜悪な姿を確認する。その蜻蛉に向けて、かぎ爪のついた棒をやたらめったらに振り回した。蜻蛉の気味悪く突き出た人骨のような棘に引っかかることを期待した。
だが、棒は空を切るばかりで蜻蛉の体には当たらない。がり、と一度だけ何かを削る感触と共に一瞬の浮遊感。そしてすぐに風の方向が変わり、重力を全身に感じた。
落ちている。
「く…そっ……!」
何とかしなければと回り始めた思考は、体に何かがぶつかる衝撃で中断された。浮遊感の代わりに体がごろごろと転がる感覚。蜻蛉の体にぶつかったのだ。
アダンは再びかぎ爪を四方に突き出し、必死に振り回すが、がりがりと蜻蛉の甲殻の表面を削ることしかできなかった。急斜面を転がり落ちるような全身の回転と痛みの後に、再び体が浮いた。
「――ッ!」
今度こそ終わりだと思ったその時、肩が外れそうな衝撃が走り、アダンは低く呻いた。アダンのかぎ爪が蜻蛉の尾の先端に引っかかったのだ。方向感覚がぐしゃぐしゃになった瞳でかぎ爪を確認し、アダンはひゅっと喉を鳴らした。
蟲の体液で出来たそのかぎ爪は、既にぼろぼろであった。いくつもついていたはずのかぎ爪は残り数本しかなく、蜻蛉の甲殻に引っかかった一本もまさに今、ぴしりとひびが入った。アダンは必死に手を伸ばし、尾を掴み這い上がろうと試みるのだが、うねる蜻蛉の動きのせいで上手く届かない。そしてついにかぎ爪が割れた。
「――!」
浮遊感を覚えたのは一瞬で、すぐに何かがアダンの腕を掴んだ。
シガールだ。彼は血まみれの顔で歯を見せて笑った。
「無茶をする!」
「あんたもな!」
シガールはそのままアダンを引き上げると、豪快に笑った。
二人は巨大な蜻蛉の背に乗ることに成功したのだ。




