ノミ
調理場に入り、アダンは警戒を強めた。
聖堂街は建造物がしっかりとしていることから、アダンたち鶯も度々拠点として使っていた。だが、以前に使ってからかなり間が開いている。それにも関わらず、つい先ほどまで焚き火がされていたような跡があった。
恐らく浮浪者か何かが雨風をしのごうと避難したのだろう。友好的な人物ならいいが、山賊や野盗の類なら排除、ないし追い出さなければならない。グリレもそれを察したのか、腰に下げた大ぶりな包丁のような刃を取り出した。それと同時にグリレの髪の毛は逆立ち、ぎょろりと目が開かれる。
「おいアダン、気をつけろ」
「ああ……」
グリレが燃えさしを調べ始めので、アダンは周囲を警戒した。もしかしたら自分達の姿をみて逃げ出したのかも知れない。アダンがそう考えた途端、奥から物音が聞こえた。アダンは慎重に奥へと進んでいく。
「――っ」
奥の部屋には人間が居た。一人は死体であり、もう一方の人間は、人間に見える『蟲』はその死体に覆い被さってじゅるじゅると水音を立てている。アダンはグリレに向けて手を振り、「ノミだ」と小さく言った。
人間の腹が大きく膨らんだような見た目の蟲で、口から伸びる口吻で人間を突き刺し、血をすする。腹部にある程度血がたまるとその全てを吐き出し、また次の獲物を狙う。彼らにとって血は食料でもなければ、繁殖に必要な栄養素でもない。人が紫煙をくゆらし、酒を飲むように、彼らはただ血をすすることを楽しんでいるのである。
そんな危険な蟲が目の前に突如現れたことで、アダンは僅かに動揺していた。そのせいで足元の空き瓶に気が付かず、ほんのわずかに足が触れて音が鳴った。アダンがノミへ向き直った途端、アダンを血飛沫が襲った。ノミ男がアダンに向けて血を吹き掛けたのだ。
「ぐっ……!」
アダンは素早く横っ飛びにかわし、「血まみれになることは避けられたが、立ち上がる前にノミ男が覆い被さってきた。突き出される尖った口吻を掴み、アダンはもがいたが、元々の力が違いすぎる。徐々に筒状の口がアダンの顔に近づいてくる。じりじりと近づいてきた口吻がアダンの頬に触れた瞬間、体の重みがなくなった。グリレがノミ男を蹴り飛ばしたのだ。
壁にぶち当たり横倒しになったノミ男に、今度は髪を逆立たせたグリレが馬乗りになって手にした大型の包丁のようなものを叩きつけた。大包丁は刃がノコギリのような形状をしており、その刃先のいくつかに碧石が埋め込まれている。叩きつけ、引き裂くように振るえば蟲はたちまちミンチになってしまう。
「このクソムシ野郎が! アダンになにしてくれてんだ!」
もがくノミ男の膨れた腹に、不自然に細い手足に、醜い顔面に、手にした大包丁を叩きつけ、引き裂いた。ノミ男が動かなくなり、どろどろと溶け始めてようやくグリレは武器を下ろした。
「ハッ、死んだ端からどろどろ溶けやがって。死体が残らねえのは残念だ。もし残ったら俺が色んな料理に……ぃいっ!?」
ベラベラとまくし立てるグリレの背中に、ノミが飛び乗った。グリレが殺した個体ではない、天井に張り付いていたのだ。グリレは体を捻り、暴れるが、ノミも長い髪を振り乱すばかりで落ちる気配は無かった。
「グリレ!」
「クソ! やべえ!」
ノミ女はグリレの首筋から血を吸おうと頭を振り上げた。だが、首に突き立てるはずの口吻はアダンの投げた刃で切り裂かれ、その頭部に何本も矢が突き立った。アダンとグリレが同時に矢が飛んできた方を見ると、リュシオルが立っていた。
「おい! 油断しすぎだぞ……」
やれやれとため息を吐くリュシオルの手に、小さな弩のようなものが取り付けられているのが見えた。彼の武器は碧石の矢じりがついた矢を打ち出すこの弩付手甲だった。ノミ男の頭に刺さった矢を引き抜き、腰に付けた専用の帯に戻した。
「あぁ、悪ぃ!」
「助かった」
「軽すぎだろう君たち! 騒がしいから心配して来てみれば……」
「心配してくれたのか」
「あっ、あああ、ありがとう……」
「べっ、別に! 今晩ローストビーフが食べられなくなるのは御免だからさ!」
その後、遅れて駆けつけた鶯の仲間たちと建物を捜索したが、他に蟲は見当たらなかった。念のため蟲除草のたいまつを手に持ち、各建物を調べて回った。いくつかの建物では蟲がいぶり出され襲い掛かってきたが、問題なく処理できた。安全を確保すると、鶯たちは予定通り休息を取ることになった。




