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我が儘

大変遅くなりまして申し訳ありません。

「いち、に、いち、に、はい、ターン!そうです、お上手ですよ。はい、続けてっ、いち、に……、」


 パンパンと手拍子を打ちながらもう一時間近くも休むことなく声をあげ続ける女性はピシッと伸びた背筋を崩すことなく髪の毛一本すら乱しもせずに、いかにも女史然とした風貌の通りに厳しい視線をこちらに向け続けている。


「吉乃様っ、目線が落ちておりますよ!顎を上げて!目線は足元ではなく常に相手(パートナー)のお顔でございます!」

「は、はいっ!」


 慢性運動不足の私の体はすでに悲鳴をあげているのだが、先生の手拍子が止まるまでこの責め苦が終わることはないのはここ連日のダンスレッスンで体験済みである。先生に指摘された視線をあげると、ここまでダンスレッスンに付き合ってくれている田中さんが涼しい顔でこちらを見つめていた。


「今日はここまでにいたしましょう」


 やっと終わったーと肩で息をしながら思わずしゃがみこみそうになってしまったが、未だに繋いでいた手で私を引っ張りあげてくれた田中さんはフラフラの私を支えるように歩くとそのまま椅子に座らせてくれた。


「ありがとうございます……」

「いえ、お疲れ様でした。こちらをどうぞ」


 再度礼を言って、差し出されたグラスに注がれた水をゴクゴク飲んでいるとスッと目の前に影がさした。


「吉乃様、まだまだ完璧とは言えませんが全く零の状態からよくぞここまで上達なされましたね。現在の吉乃様の実力でしたら人前で披露するには充分な及第点を差し上げられますわ」

「えっ……!あ、ありがとうございます!」


 レッスン中は決して見せなかった笑顔でにっこり微笑んだ奈良崎美代先生は「本番前に一度忠之様と合わせてみましょうね」と言って颯爽と帰って行ってしまった。


「田中さん、本番前に忠之さんと合わせるって言ってもそんな時間あるんでしょうか?」

「どうでしょうか。まあ、でも奈良崎様の仰ったように今の吉乃様でしたらどなたと踊られても大丈夫ですから、ご心配する事ありませんよ」


 奈良崎先生だけではなく田中さんのお墨付きまで頂いた私はほっと息をつく。


「でも、本当に良いんでしょうか。私なんかが舞踏会に出席するなんて……」


 ほぼニート生活を送っていた私が何故いきなりダンスレッスンを始めているかと言うと、それは2週間前突然送られてきた招待状に起因している。


 この時代、主に欧米諸国に国力をアピールするために頻繁に開催されている舞踏会になんとこの私が出席する事になったのだ。


「……あの豪徳寺様からの御招待をお断りする訳には参りませんからね」


 豪徳寺様というのは齢70歳を超えて既に表舞台からは引退しているとは言えいまだに財界に大きな影響を及ぼしている人物だそうで、何故かこの大人物から私宛に舞踏会の招待状が届いたのだ。

 私という存在はあくまで単なる居候であって決して上流階級の世界に出られるような人間ではないのだけれど、その豪徳寺という人は何を思って私を招待したのか。

 もしかしたら一人歩きしているあの噂が原因かもと思ったが、そうだったら忠之さんのエスコートで舞踏会に出席するなんて拷問以外のなんでもないと思う。できることならお断りしたかったのだけど、忠之さんは勿論の事旦那様すらもこの人には流石に文句を言える訳もないようで、忠之さんはこれ以上ないってほどの渋い顔を隠しもせずに先方に出席させる旨を伝えていた。


「坊っちゃまもいらっしゃいますし、そんなに心配せずとも大丈夫ですよ……多分」


 多分って、そこは忠之さんの事もっと信用してあげて下さいよ。でもまあ、いまだに坊っちゃまなんて呼んでるくらいだから田中さんにとって忠之さんはまだまだ子供みたいなものなのかもしれないな。


「なぜ吉乃様に招待状を出されたのか御大の意図がわからない限りこちらも下手な手を打てませんので、今我々にできる事は少しでも相手に隙を与えないように吉乃様を(できるだけ)完璧な淑女として送り出す事だけです。その為にあの奈良崎女史をダンス講師としてお招きしたのですから」


 あの、と強調するほどの事はあって奈良崎先生の厳しい指導のおかげで私はなんとかワルツだけだが一曲踊れるようにはなった。田中さん曰く他の方達のダンスもそれほどレベルの高いものではないらしいので一緒に踊っても恥をかくことはないとのことだ。

 ただ、この2週間の間忠之さんと一度も練習していない事が心配ではあるが、忠之さんはリードも上手いし安心して身を任せればいいと言われてしまった。


「田中さん、忠之さんは今日も遅いんでしょうか」


 ただ、今は自分の事も心配だがそれ以上に忠之さんの体も心配だ。というのも、この前パーラーへ連れて行ってもらった日の慌ただしく仕事に戻って行ってしまった時からずっと忠之さんはとても忙しそうで、連日深夜遅くまで仕事から帰ってくる事はない。だからダンスレッスンどころかまともに顔も会わせていない日々の中、私はこの謎の招待状の事もあり心細い思いをしているのだがそれ以上に朝も早くから出掛けていく忠之さんがちゃんと体を休めていられるのかがとても気にかかっていた。


「そうですねぇ、今は踏ん張り所といった所でしょうから仕方ありませんよ。まあ、吉乃様はあまり気に病まないでどーんとお待ちになられていれば良いんですよ」

「……はい」


 田中さんは忠之さんの状況がよくわかっているようだが、私は今の説明だけではとても「ああそうですか」と、どんと構えることなどできそうにない。

 そんな納得してない様子の私に気付いたのか田中さんは「ふむ……」としばし考え込んだ後口を開いた。


「でしたらお夜食でも作られたらどうですか?」

「!」


 田中さんの素晴らしい提案に私は跳ねるように項垂れていた顔を上げた。


「そうですね!……あ、でも、忠之さんに怒られちゃいませんか?」

「はっ?怒られるとは……?」

「だって……」


 忠之さんが急に忙しくなり始めた頃、私は何時になろうとも忠之さんが帰宅するまで頑張って起きてお迎えていたのだ。それは宮森様と話した事でもっと忠之さんのお仕事に関心を持ちたいし、彼を微力ながらも支えたいと思っての事だ。3年も居候しといて今更だとは思うけど、今までのようにフワフワした立ち位置じゃなくて、もっとしっかりと忠之さんと向き合いたかっのだ。まあ本音を言えば少しだけでも忠之さんの顔を見たかったというのが大部分を占めていたのだけど。

 だが忠之さんはそんな私に出迎え無用と、これ以上なく優しい口調だけども有無を言わせぬ迫力で言われてしまった。

 勿論、いつ帰れるか分からない自分の為に毎日起きて待っている私の体を気遣って言ってくれているのはわかるのだが些か過保護が過ぎないかとも思ってしまう。子供の頃から帰りの遅い父親とそれを帰ってくるまで起きて待っている母親の姿を見ていた為、少しそんなのに憧れていたのもあったのに。

 だから「ダメですか……?」と頑張って反抗してみたけど、忠之さんは「うっ」と唸りながら口を押さえてうつ向きながらも次の瞬間には顔を上げて「駄目だ」と頭をワシャワシャされてしまった。

 すっかり子供扱いされた私はもうそれ以上ごねる事もできなかった。


 私の説明を聞いた田中さんは訝しげに寄せていた眉をハの字に下げながら、やれやれと言わんばかりにため息を吐いていた。


「……そうですか、それでは仕方ありませんね。それでしたら私がお渡し致しますので吉乃様は夜食のご用意だけお願いします」

「えっ、そんなご迷惑じゃ……」

「いえ、本日は坊っちゃまに別件でご報告する用事があり元々ご帰宅を待つ予定ですので大丈夫でございますよ」

「そうだったんですか、それじゃあお願いしようかな」

「ええ、吉乃様の差し入れなら坊っちゃまもお喜びになられるでしょう」

「……だと良いんですけど」


 できれば会って手渡ししたい所だけど仕方ない。


「では出来ましたら厨房に置いておいて下さい」

「あっはい。よろしくお願いします」


 部屋から出ていこうとノブに手をかけた田中さんの動きが止まる。


「?」

「……坊ちゃまは今産まれて初めての我が儘を通そうとしております」

「はっ?我が儘、ですか?」


 何を言い出すのかと首を傾ける私に田中さんは首だけこちらに向けてきた。


「子供の我が儘とは違いますからね、ただ欲しいと喚くだけでなく必死で本当に手に入れたいものの為に足掻いてる様ですよ」


 忠之さんが何を欲しているのかはわからないが田中さんの強い視線は真っ直ぐ私に向かっている。

 いつもはこんな風に田中さんとしっかりと視線が合うことがなかったのは彼が私に威圧感を与えないためのものだったのだろう。決して睨まれているわけではないのだがその強い視線に居心地が悪くなる。


「……吉乃様は今本当に心の底から欲しいものが、求めているものはありますか?」

「私……?」


 突然そんなこと言われても困る、と目をそらそうとするも「吉乃様」とそれを制された。


「わ、私は欲しいものなんて……」


 声を上擦らせて曖昧な答えをしながらも私の頭の中にははっきりと彼の(・・)姿が浮かんでいる。


「貴女も求めてみませんか?それこそなりふり構わずに。そうすれば貴女の悩み事も解決するかもしれませんよ?」

「!!」


 まるで私の頭の中を覗いたかのような物言いに驚いていると、先程までの鋭い眼光を緩ませた田中さんはおもむろにニッと口の端を上げて更に驚く私を置いて部屋から出ていってしまった。


 この屋敷の、いやその周辺の人間は本当に得体の知れない人ばかりだ。

 常にモヤモヤうじうじと悩んでいた私の事などみんな全て承知してるんだろうか。


 田中さんは決してはっきりとした答えを示してくれた訳ではないけれど私の進むべき道を教えてくれたんだろう。


 ……私も我が儘を言っていいんだろうか。

 ううん、田中さんも言っていた。子供の我が儘じゃないんだから、私も欲しいもののために動いてみる?




 ――まずは頑張っている忠之さんのために心を込めたお夜食を作ろう。忠之さんが次の日も頑張ろうって思えるように。



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