番外:男爵領の早い春
長かった冬の終わりが見え始め、大地が浮足立ち始める頃のある日。
グレイス王国辺境の貴族、カーマイン家の屋敷は一足早い春の訪れに沸いていた。
屋敷の主人であるトギル・カーマイン男爵の妻・アリアがはじめての子を無事に出産したのだ。
「でかしたぞ。アリア。」
顔いっぱいに喜色を湛え、男爵が妻をねぎらう。
自らの子を傍らに寝かせた寝台で、半身を起こして夫を迎えたアリアの顔は大仕事による疲労と、それ以上の満ち足りた気持ちが表れていた。
「ありがとうございます。でも、男の子でなかったことが申し訳なくて」
世継ぎではなかったことを詫びる妻に、何を言うのだとばかりに男爵は目を見開く。
「馬鹿なことを言うんじゃない。何もこの子が最後という訳でもあるまいに。それに見ろ、この顔を」
夫につられて、アリアも我が子に目を向ける。
「この可愛らしさ。いずれはお前によく似た美しい娘になるだろう。これほどの鮮やかな赤毛は珍しいが、それ故に一際目を引くぞ。有力な貴族との縁談でもまとまれば下手な男子よりもこの家のためとなろう。」
有力貴族との縁づくりなどという、気の早いことを言う男爵のまなじりは下がりっぱなしのデレデレだ。
生まれたての赤ん坊は正直に言って猿のようだが、どうやら父親にとっては天使のごとくに見えているらしい。
その様子に夫の、自分と娘に対する愛情を確認し、アリアの胸には温もりが満ちていった。
………。
穏やかで幸せな日々が続いていた。
娘はミラと名付けられた。辺境の弱小といえども貴族。乳母をいれ、子の世話をさせながら、アリア自身も頻繁にミラを抱き、愛情を注いだ。
初めての子とあって男爵の可愛がり方もかなりのものだった。執務の合間をぬってミラをかまい。出会う人ごとに娘のことを語った。
その様子は領民の間で微笑ましい冗談の1つになるほどだった。
少しずつ、確実に、暖かさを増していく日差しのように、カーマイン家の幸福も増していくように思われた。
だが、早すぎる春は、また、行き過ぎるのも早かった。
最初の兆しは、男爵に対するボウアー・キルミツ伯爵からの呼び出しだった。
カーマイン家とキルミツ家はいわゆる寄子と寄親の関係だった。
戦場にあって、カーマイン家の兵士は頭首である男爵とともにキルミツ家の指揮下に入ることになる。
その関係は平時においても、なくなるわけではない。むしろ、平時にこそ深く良好な関係を作っておかなければ、いざの際に足を引っ張ることになる。
だから、第一子の誕生を祝いたいとの名目で男爵がキルミツ家の屋敷に招かれることは、まったくもって不思議なことではなかった。
無論、男爵にとっても否のあろうはずがない。
産後間もない妻子に遠出は難しいため、訪問するのは自分だけとなるが、是非に伺いたい旨。すぐさま返事にしたためて、招待状をもってきた使いの者に託して持ち帰らせる。
続いて、執事に準備を言いつけた。
寄親からの祝辞と招待に浮足立つ夫とは対照的に、アリアの表情は優れなかった。
伯爵家からの招待に。自分自身でも説明のつかない漠然とした不安を感じていたためだ
とはいえ、断る理由はなく、断れる筋でもない。気が進まぬことではあったが、それでも彼女はテキパキと夫の準備を手伝った。
彼女が不吉な予感を抱いていることを知っていたのは、直接に相談を受けていた侍女のジルだけだった。
「心配ありませんよ。旦那様もミラ様を大事にされていますし、きっと、今が幸せすぎるからこそ、些細なことを不安に感じてしまうのですわ。」
幼いころより互いを知る乳姉妹の慰めにアリアは肯く。
「そうね。確かにそうかもしれないわ。でも、私は怖いの。なんだか、今の幸せが幻のように感じられて、瞬きの間にでも、どこかへ消えさってしまいそうな気さえするのよ。」
そんな、アリアの不安をよそに日は流れ、男爵はキルミツ家の館へと出発した。
「それでは、行って来る。すぐに戻るが、留守中、屋敷とミラのことを頼んだぞ。」
「はい、お帰りをお待ちしております。」
最後にそう言葉を交わし、ミラの頭を撫でてから、男爵はコルダ車に乗り込んだ。




